内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張している、と誤読する人たちがたくさんいるのだが、これは、「2005年05月19日 資本主義の黄昏」の中の「自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)」という言葉を誤読したものだと僕は思っている。
僕は、この誤読の最大の原因は、「本質」と言うことが理解出来ていないからだと思っている。それは、誤読する人たちが、「本質」という言葉を使わずに表現していることから推測した。「本質」という言葉を使えば、誤読した言葉は、 <「労働」の「本質」は「贈与」である> という言い方になる。これも誤解されそうな難しい内容を含んでいるが、<「労働」は「贈与」である>という非論理的な表現よりはよっぽど考察の対象となるものになる。そして、この場合にこの言葉の内容を深く理解しようと思ったら、「贈与」という言葉に対する深い理解がなければならないことに気がついた。 「贈与」というものを、単に何かをあげることと素朴に捉えていたら、この言葉の真意は分からないのではないか。その「何か」は、社会的にどのような構造を持っているのか。「贈与」される「贈与物」とでも呼べるようなものの、社会的な意味というものを深く考える必要があるのではないかと感じた。 「労働」というものを社会と関係なく考察すれば、何か自分のために役に立つような行為をすることを「労働」と捉えることが出来る。食べ物を手に入れる行為であったり、その他必要なものを手に入れる行為であったりする。これは、社会と関係なく考察すれば、自分自身に「贈与」すると考えることも出来る。この場合の「贈与」は「消費」というものを別の視点から捉えたものになる。 「贈与」が消費と関係していると捉えると、社会の中での生産を担う「労働」と密接な関係があることに気づく。三浦さん的な言い方をすると、生産は同時に生産財の消費であり、消費は、生産する主体の再生産という、弁証法的統一が見られるという感じだろうか。「労働」と「贈与」が、「生産」と「消費」に結びついて、必ず共に現れる現象だとするなら、「労働」の本質を「贈与」に見るという視点は、論理的に正当なのではないかと思える。 内田さんが語る「贈与」の意味を、今一度考え直してみよう。そして、内田さんが使っている意味でその言葉を受け取るように努力してみようと思う。内田さんが「贈与という言葉を使っている文章は、次のような所にあった。 「何かを安定的なしかたで手に入れようと思ったら、まずそれを「贈与する」しかない。」 (「2000年 2月10日の日記」) この日記には、内田さんが所属する大学の学科再編の議論を巡るものが書かれている。そこでは、再編されたときに不利になる人々が、何とか「「変化すること」の必要性は受け容れるが、それはぜひ「自分に」有利な仕方で展開してほしいと」願っている姿が書かれている。その人たちに対して内田さんは、 「このスマートな人たちが忘れているのは、あらゆる集団において「自分がほしいものは、まずそれを他人に与えることによってしか手に入らない」という人類学的真理である。 と評価している。何かが欲しかったら、最初に自分が贈与をしなければならないということを語っている。内田さんが語る「贈与」は、単純素朴に何かをあげることではなく、「何かを安定的なしかたで手に入れよう」という目的のために行われる「贈与」だ。 「労働」の場合、何かを安定的に手に入れたいという目的が考えられるだろうか。それは、素朴には生活資料という消費財と考えればいいだろうか。自分のための、自分自身の「労働」という考え方の時は、「安定的に手に入れる」と言うことが保証されないのではないか。自分の「労働」に成果が出ない場合もあるだろうし、何らかの原因で「労働」出来なくなる可能性もある。 そうであれば、いまは一方的に「贈与」するだけであっても、自分が一方的な「贈与」を受けることしかできなくなったときのために、まず自分が「贈与」をするということが「労働」の時にも考えられるのではないだろうか。 ここで考察した「贈与」は、共同体的な社会で、相互扶助の考えのもとに行われるものとしては、一定の妥当性を持っているのではないかと思う。働くことの出来ない年寄りや、未熟な子供に一方的な「贈与」をして生活の面倒を見るのは、このような「贈与」のあらわれではないだろうか。 それでは、商品経済が発達した資本主義社会においては、「労働」と「贈与」の関係はどうなっているだろうか。資本主義社会においては、「安定的に手に入れたい」ものというのは何になるのだろうか。それは、本質的には生活資料だろうと思う。原始的な時代と変わりがない。しかし、資本主義社会では、生活資料は貨幣によって購入される。そういう意味では、現象的には、安定的に賃金を手に入れたいというのが労働者の希望なのではないだろうか。 安定的に賃金を手に入れるために、労働のオーバーアチーブメントである剰余価値をまず「贈与」するという面が、道徳的な問題ではなく、客観的なシステムの問題として資本主義には出てこないだろうか。資本家が雇いたいと思う労働者は、オーバーアチーブメントをたくさん提供してくれる労働者ではないかと思う。 この剰余価値を資本家が受け取ることの正当性は、道徳ではなく他の価値観で考えなければならないだろう。労働者が、個々バラバラに手仕事をしていたのでは生産力は小さなものにとどまる。資本家が資本を蓄積することによって、大量生産可能な資本を生み出すことが出来れば生産力は大きくなる。その大きくなった生産力の余剰部分は資本家が受け取る権利があると考えることも出来る。なぜなら資本家がいなければ資本の蓄積はないからだ。 資本家が受け取る価値の比率が大きすぎるという問題は考慮しなければならないが、剰余価値の一切を、資本家が受け取ることは搾取であると考えたら、資本主義そのものは成り立たなくなるだろう。まあ、資本主義が倒れた方がいいと思っている人は、成り立たなくなっても気にしないのではないかと思うが、資本主義が倒れた後に来る社会が、それよりもいいものかどうかは疑問が残るものだ。その疑問が晴れない限りは、いまの資本主義に欠点があろうとも、それを修正していく方向の方が現実的だと僕は思う。 いずれにしろ、「何かを安定的なしかたで手に入れようと思ったら、まずそれを「贈与する」しかない。」ということが正しければ、「労働」においても、安定的な賃金を手に入れるためにオーバーアチーブメントを「贈与」すると言うことは本質的なあり方として捉えられることになる。 ところで、「何かを安定的なしかたで手に入れようと思ったら、まずそれを「贈与する」しかない。」ということは正しいだろうか。僕には、これは正しい洞察のように見える。「安定的」という言葉がポイントだ。「安定的」でない「贈与」なら、暴力で奪い取るということも考えられる。しかし、そのようなやり方は、必ず抵抗を呼び、サボタージュを呼び、安定的に「贈与」を受け取ることが出来なくなるだろう。 資本家の方も、「安定的に」剰余価値を手に入れたければ、まずは「贈与」を考えなければならない。未熟な仕事しかできない労働者に対しては、「労働」によって生み出される価値は賃金よりも低いかも知れないが、将来的にこれが逆転するように教育を施すという「贈与」をするような会社も出てくるだろう。 会社にそれだけの余裕がなければ、社会全体で教育を担うというシステムを作るようになるだろう。教育が無償で行われるという「贈与」は、単に善意の施しではなく、将来的な価値の還元を見越した「贈与」なのではないかと思われる。国家が、教育を無償にするのではなく、受益者負担にして「贈与」の面を小さくすれば、それによって将来的に返ってくる「贈与」は少なくなるだろう。日本社会の姿を見ていると、そんな感じがする。 「安定的」というキーワードがなければ、「労働」は「贈与」と関係しなくてもいいかも知れない。しかし、いろいろな意味での「安定」が、労働の前提として社会に求められているのなら、やはり「労働」の本質は「自分が「他者への贈与」の主体になること」になるのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2006-03-25 16:59
| 雑文
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