二流性を考察するなどと言うと、何か悪口を言っているように感じる人もいるかも知れない。これが、まともな論説になるのは、感情的なすっきり感を持つための考察ではなく、あくまでも冷静な論理的考察にならなければならないと思う。
そもそも二流と言うことにはそれほど悪い価値があるわけではない。誰でも一流の面をもっているし、同時に二流の面ももっている。一流の面は、表面に現れた末梢的な「現象」だけでなく、隠された「本質」を解明出来るだけの能力に関係した部分だ。誰でも何らかの得意分野では一流の面をもっているだろう。 しかし、それほど深く考えず、感情の流れにまかせて判断している事柄は、やはり二流にならざるを得ないだろうと思う。僕は、ある言説が論理的に正しいかどうかと言う判断では、一流の技術を持っていると自負しているが、例えばある歌が芸術的に優れているかどうかと言う判断においては二流の判断しかないと感じる。それは、歌の場合の判断は、単純に好きか嫌いかという判断しかしていないからだ。それがいかに優れているかと言うことを、その本質に迫るような深さで捉えてはいないからだ。 僕は吉田拓郎が好きだが、吉田拓郎は、歌い手としての芸術性から言えば通俗的で二流性を強く持っているのではないかと思う。スターではあるけれども、いわばボブ・ディランの亜流とも言えるかも知れない。もちろん、ちゃんと分析すれば優れているところも指摘出来るのだろうが、僕は吉田拓郎に対してはちゃんと分析する気が起きてこない。好きなんだから好きでいいじゃないか、という感じだ。 吉田拓郎の二流性を、一流の分析能力のある人が分析したら、それはそれで面白いだろうなと思う。ボブ・ディランの一流性と比べるとどうなのかという考察は面白いだろうと思う。しかし、それは僕には出来ないし、やりたいという動機は起きてこない。 『国家の品格』の二流性については、論理という面からそれを検討したいと思っている。それは、僕の関心を強く惹くところだし、その検討能力が一応は自分にはあると思えるからだ。ポイントになる視点は、そこで語っていることが末梢的か本質的かと言うことだ。本質的なことを語っていれば一流性を感じるが、末梢的なことを語っていれば二流だと感じると言うことだ。 著者の藤原正彦さんは、数学者であるから数学においては一流の人だろうと思う。しかし、この本で語っていることは数学ではない。だから、自分の感情に流されて、末梢的な事実に引きずられて、気分だけで判断していることが多いのではないかと感じる。そこに僕は二流性を見てしまうのだ。単なる思い込みで語っているだけではないかと思えるような所を検討してみようと思う。 まずは「欧米は野蛮だった」(13ページ)では、かつての欧米に対して、 「例えば5世紀から15世紀までの中世を見てみましょう。アメリカは歴史の舞台に存在しないに等しい。ヨーロッパも小さな土地を巡って王侯間の抗争が続いており、無知と貧困と戦いに彩られていました。「蛮族」の集まりであったわけです。」 という判断をしている。これは、単なる感想としてなら、そういう感想を持っても仕方がないとは思う。しかし、これは単純な一面的な見方であるし、かなり恣意的な見方だ。つまり、二流の見方だ。 この本は、エッセイ的な感想を綴ったものだから、このような分析にはそぐわないと感じる人もいるかも知れない。しかし、単なる思いつきに過ぎない、恣意的な事実の選び方から導かれた結論が、数学者が語っていると言うことで信じられてしまうと、社会的にはあまりよくないのではないかと僕は思う。たとえ誰が語ろうと、粗雑な論理は批判されなければならないのではないかと思う。特に100万部以上も売れるようなベストセラーは、それが批判的に語られるのが当然でもあると思う。 藤原さんの文化の判断は、現在の視点を無批判に、現在の観点から遅れていると思えば、無邪気に「蛮族」という判断が出てきてしまうと言う粗雑さを感じる。本質を語らず、末梢的な部分を語っていると思うところだ。現在の視点から過去を振り返れば、過去はすべて遅れているようにしか見えないだろう。しかし、本質をつかむなら、その過去の時点における「先見性」というものを読みとらなければならないだろう。遅れていた過去においても、なおその時点で進んでいると考えられるものは何か、と言う視点がなければ本質はつかめないと思う。 もし藤原さんが、このような論理展開に対してもっと誠実さがあれば、日本の歴史を振り返るときも、現在の視点から見て遅れているところを指摘しなければならないはずだが、日本の歴史に対しては藤原さんは肯定出来る面しか見ていない。 ここでは文学について、その質や量において日本の方が優れていると言うことを語っているが、僕は、日本の文学はいまでも「私的」部分に偏りすぎて、普遍的・社会的な面を描くことに乏しいという感想を持っている。佐高さんが、経済小説というものを取り上げて、資本主義社会における人間を描くものとして、本質的に文学として重要なものであるという指摘をしている。しかし、経済小説は、通俗的な大衆小説としては捉えられているが、文学としての地位は低いようだ。 僕は、個人の内面しか描けない私小説的な日本の文学などは時代遅れではないかと感じる。僕は文学については素人だから、僕の考えが一流だと主張する気はないが、藤原さんの感覚が正しくて僕が間違っているという説得力は感じない。僕程度にもこれくらいの反論をされるような甘い論理展開は、やはり二流性のあらわれではないかと思う。 「先進国はすべて荒廃している」(16ページ)と言うことを主張している部分は、全体的な論理展開に疑問を感じる。荒廃しているという事実の指摘はいいだろう。そのような事実はいくらでも見つかる。それを批判することも論理的には正当だ。しかし、これらから「私の考えでは、これは西欧的な論理、近代的合理精神の破綻に他なりません」と判断するのは、論理の飛躍ではないかと感じる。これは、自分がそう思っているという解釈を、論理的な帰結だと勘違いしているのではないか。 そもそも論理というのは抽象的なもので、それが破綻して荒廃をもたらすと考えるなら、非論理的に思考しなければその荒廃からは逃れられないと言うことになる。その非論理が、藤原さんにとっては「武士道」というものになるのかも知れないが、「武士道」の正しさは論理では示すことが出来ないから、これは信じることしかできない。藤原さんは、出発点となる前提は論証出来ず、「正しいものは正しい」と押しつけなければならないという主張もしている。だが、その前提を誰が選ぶことに正当性があるかという問題は解決しない。藤原さんが選んだから正しいとは誰も言えないのだ。 細かい議論にも疑問を感じるところがある。藤原さんは、「帝国主義」の時代というものが、かつては「帝国主義が悪い」と思っていた人は、ほとんどいなかったと判断して、それが否定されたことを「論理の破綻」として見ている。しかし、これは論理が破綻したのではなくて、現実的に「帝国主義」の考えを正しいとしていた条件の方が破綻したのではないか。 形式論理的に考えると、ある命題の主張が否定されたのは、その命題を主張していた論理が破綻したように見える。しかし、弁証法的にそれを捉えれば、現実の存在の根拠としてのある視点が、その根拠を失って別の視点に変わったために判断が変わったと解釈することも出来る。 「帝国主義」というものが、国益の増加という視点での判断であれば、それが正しい時代があったのではないかと思う。もちろん、今の時代で、人権尊重という視点から見れば、帝国主義が行う数々の蛮行は許されない間違いだという判断も生まれてくるだろう。しかし、それは視点の違いから導かれる判断であって、帝国主義による植民地支配は国家に利益をもたらすという判断が正しかった時代は確かにあったのではないかと思う。その時代があったからこそ、日本も遅ればせながらそれに参加したのではなかったか。 いまでは、植民地主義そのものがもはや国家の利益を生まないという時代になっているのだろうと思う。これは帝国主義の論理の破綻ではなく、現実には、支配される人々の民族意識や人権意識の高まりなどから、支配をする条件が変化してきたと言うことが大きいのではないかと思う。単純に暴力的に支配をして、奴隷的に搾取するだけでは利益にならなくなったのではないかと思う。 抵抗が少なければ、それを弾圧するのに使う金も少なくてすんだだろうが、強い抵抗に遭えば、一方で植民地支配によって得る利益と、その維持のために使われるコストとが逆転することもあるだろう。そうなれば、帝国主義は、論理的に正しい展開をしていても、現実の条件が変わったためにその論理が現実的にならなくなるだろう。破綻するのは、現実の前提の方なのである。 共産主義や実力主義に対する判断も、その中身をよく検討しないで、現実に失敗したのは論理が破綻したからだと短絡的に結論しているように見える。現実の失敗は、論理の破綻にあるのか、現実的な判断の失敗によるのか、それはそう単純に結論を出せるものではないだろう。共産主義の考え方は、それを理解するだけでもたいへんなことである。それを、単にソ連が破綻した姿を語るだけで論理の破綻を証明したような気分になるのは、事実をもって論理の反駁に代えるという間違いではないかと思う。 藤原さんは、目の前に現れた事実を道徳的に憤慨しているように見えるところがある。そして、その憤慨の攻撃の矢を論理というものに向けているように感じる。実際には、論理だけでなく、さまざまの現実的状況を総合して判断しなければ論理的に正当だとは言えない。少なくとも弁証法的に正当だとは思えない。 しかし、藤原さんの論理展開としては、論理が破綻してくれないと困るだろうというのは感じる。藤原さんの主張の主題にあるのは「パターナリズム」だと思う。誰がなんと言おうと絶対的な価値というものがあるという主張だ。その絶対的な価値は押しつけることが正しいというものが「パターナリズム」だろう。 「パターナリズム」では、価値観を無条件に押しつけなければならないから、それを論理的に考察されては困るのである。だから、そういうものを考察する論理には破綻してもらわなければならない。藤原さんの主張には、西欧的な論理は破綻すると言うことが前提として不可欠だ。本当は、これを証明しなければならないのだが、論理の前提として必要であるから、かなり無理をして論理展開しなければならなくなっている。藤原さんのこのあたりの記述を僕はそう感じている。 無理な論理展開は末梢的な部分で覆い隠さなくてはならない。なぜなら、本質的な展開をすれば、無理な論理展開はどこかで破綻してしまうからだ。論理の破綻を証明したい藤原さんの論理が、本質を語るようになると破綻してしまうというのは実に皮肉なことだ。しかし、そのようなことがあるからこそ、論理はある一面の本質を語ることが可能になるのだ。論理全体が破綻しているという言説を、論理的に展開しようとするのはパラドックスだ。論理の破綻を証明出来るのは、いつでも特定の論理展開だけだ。このような主張は、やはり僕は一流だとは思えない。
by ksyuumei
| 2006-03-25 13:47
| 雑文
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