三浦つとむさんは、弁証法(唯物弁証法)について多くの文章を残しているが、三浦さんの専門は論理学ではない。三浦さんが専門的に研究してきたのは言語の方で、特にその基礎になる認識との関係を構造的に明らかにする理論の構築に努力してきた。未だに言語学の分野では認識との立体的な構造を過程的に解明した理論はないのではないかと思う。三浦さんの先駆性を感じるところだが、この過程的構造の解明には、優れた弁証法の能力が必要だ。
三浦さんは、専門分野での研究に、弁証法という道具が大きな威力を発揮することを経験して、この道具の有効性についてたくさん書き残したのだと思う。弁証法は、あらゆる現実対象の分析に役に立つ。だから、弁証法が駆使出来る人間は、現実の問題でまだ解明されていない問題に、その解決の方向を示すようなヒントに気づくようになる。 この弁証法の神髄を受け継いだのが仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだ。板倉さんは、弁証法は、現実と無関係に言葉の上で展開しようとすると詭弁になると語っていた。これは、形式論理などの論理一般についても言えることで、その対象にふさわしい論理が使えなければ、対象を間違えた論理は詭弁になる。 例えば、弁証法は対立物の統一であり、矛盾の分析だと言うことを言葉の上だけで理解している人間は、対象の中に矛盾を見つければ弁証法を使っていると勘違いしてしまう。弁証法に対する非難の中でこのようなものがある。人間には男と女がいるが、これは男であれば女ではない、と言う対立をそこに発見出来る。つまり男と女は弁証法において矛盾した概念だというわけだ。そうすると、これが統一されて男でも女でもある存在が生まれる、と言うのが弁証法なのか、と言う非難が考えられる。 これは実際には弁証法に対する無理解を露呈しているだけで、弁証法的な矛盾を捉えたのではない。これは、形式論理的な矛盾を弁証法に押しつけているので間違えているのだが、弁証法を言葉だけで覚えているだけの人間にはそれは分からないだろう。弁証法を道具として駆使出来る人間でなければ、現実の中に弁証法的矛盾を発見することは出来ない。 板倉さんは、常識の範囲で正しい答が出せるような対象に対して弁証法を使えば詭弁になると語っていた。弁証法の有効性が発揮出来るのは、常識では解答が出来ない、常識的に考えると矛盾した現象が見えてきてしまう問題の考察においてなのだ。 三浦さんが研究していた言語に関して言えば、言語の意味はどこにあるかという問題は常識で考えるといろいろとおかしな結論が出てきてしまう。常識的に考えれば、言語の意味というのは、言語の中にあると考えるのが普通だろう。言語の意味が、どこか言語と関係のないところにあると考えるのは、素朴な直感としては無理がある。 ところが、言語の中に意味があると考えると、その意味を構成する人間の認識との関係がつかめなくなる。言語を表現した人間の認識は、その個人の頭の中にある。だから意味は、その頭の中から抜け出して言語の上に張り付いたという「言語言霊説」がもっともらしいように思えてきてしまう。しかし、言語に張り付いた意味というのは、顕微鏡を使っても見ることは出来ない。それが「ある」と言うことを証明出来ないのだ。 それではと言うことで、意味は言語規範という共通の認識の中にあるのだとする考え方が出てくる。そうすれば、目には見えない個人の認識と違って、客観的に存在するように見える意味の体系として意味を理解することが出来る。しかし、今度は、この個人の外に存在する規範と、個人の特定の意味を持った表現との関係が分からなくなる。 常識的な思考では、いつまでたっても意味の問題は解決出来ない。これを、三浦さんは、意味は言語が表現されるときの、<対象(表現される対象)-認識(個人の認識)-表現(実際の言語表現)>の過程的構造に関わる「関係概念」であると考えた。これは「関係」という観念的な存在であるから、実体として目で見ることは出来ない。しかし、<対象-認識-表現>という三者のつながりを全体像として把握して、過程的構造を理解することによって把握出来る。 ある特定の犬を見て「白い犬」と表現したときは、その特定の犬の属性として「白い」という形容詞を理解するのが、「白い」という言語の意味を理解すると言うことだ。これが過程的構造を把握すると言うことなのである。だから、特定の言語表現は、いつでもその表現をした人間の対象となった存在を具体的に見ることが出来なければ意味を間違えて「誤読」するのである。 三浦さんがこのように言語の意味を分析出来たのは弁証法という視点があったからだ。それは、言語の意味というのは、実体的には言語の中に存在しないにもかかわらず、関係的には言語の中に存在するという、「存在する」「存在しない」という対立を背負ったものだと理解したから、言語の謎を解けたのだと思う。 この対立の本質にあるのは、「実体という視点」で見たときには存在しないと判断出来、「関係という視点」で見たときには存在すると判断出来ると言うことだ。これは視点の違う判断だからこそ、矛盾した結果が出てきてしまうのだ。また、この矛盾から言語の構造という全体像の把握に進むきっかけがつかめることが弁証法の有効性として考えられる。 現実に存在する対象というのは、前から見たり上から見たり後ろから見たり、時には外から見えない内部に入り込んでみたり、いろいろな視点で見なければその全体像が分からない。ところが数学のような抽象的対象は、ある視点から見た存在だけに限定して、他の視点を捨象して対象を捉える。だから、数学ではほとんど弁証法的な考察がいらない。形式論理だけで済んでしまうのだ。メタ的なレベルでは弁証法的な性質の考察も出てくるが、ベタに数学だけの世界にいるときは形式論理だけでいい。 現実に存在する対象について理解しようと思ったら、視点の違いを忘れてはならない。ある方向からの見方を忘れてしまうと、その対象の全体像が狂ってしまうのだ。狂った全体像を基礎にして理論を構築すれば、その狂いがどこかに破綻として出てきてしまうだろう。 内田樹さんが「労働をすると言うことは人間的な本質である」と語ったことを理解出来なくて誤読している人は、弁証法が理解出来ないのだと思う。これは、現実を観察した結果得られた帰納的な判断ではないのである。人間という存在が、人間のために消費財を生産しなければ生きていくことが出来ない、と言うことを本質だと規定したときに出てくる論理的な結論なのである。 自然に存在するものを、自然の恵みとして消費しているだけなら、「労働をすると言うことは人間的な本質である」と語る必要はない。しかし、人間の生き方が、単に自然を消費する動物的なものではない、と考えるなら、このことが論理的に帰結されなければならないのだ。 この論理的帰結に対して、現実には「労働していないように見える」人間が存在する。この論理的矛盾をどう理解すればいいかということを考えるときに、弁証法的思考が必要になってくるのだ。これを弁証法的に考察出来ないと、形式論理的に前提を否定してしまう。つまり、現象として「労働していないように見える」人間の存在で、「労働をすると言うことは人間的な本質である」と言うことを否定してしまうのである。 これは、事実をもって論理を否定するという間違いなのであるが、論理を否定するのなら、あくまでも論理の上で否定しなければならないのだ。これを弁証法的に考察すれば、「労働していないように見える」というのは、まさに視点の問題なのだということに思いをいたらせる。視点の違いがこの矛盾をもたらしているのだと考えるのだ。 そうすると「労働をすると言うことは人間的な本質である」と言う言語表現と、「労働していないように見える」という言語表現に共通に使われている「労働」という言葉は、意味(<対象-認識-表現>の過程的構造)が違うのではないかと考えられる。これが、この場合の対象に対する弁証法的なとらえ方だ。 この視点の違いを考察したのが内田さんの一連のエントリーで語られていたものだ。だから、内田さんの主張を正しく受け止めるなら、「労働していないように見える若者たちも、実は別の意味での労働をしているのであって、それを「労働していない」と非難することは出来ない」と理解しなければならないのだ。 それをどう勘違いしたのか、内田さんは資本主義的な体制的価値を擁護する人間だから、働かない若者を怠け者だと非難しているのだと、内田さんの言葉を受け取る人間がいる。これは内田さんの言葉を弁証法的に理解出来ないからで、おそらく「労働」という言葉を常識の範囲でしか捉えられないからそのように理解してしまうのだろう。 「労働をすると言うことは人間的な本質である」と言うことを認めてしまうと、「労働していないように見える」人間が怠け者だと言われていると思ってしまうのだろう。しかし、それは「労働」という言葉を常識の範囲の意味でしか理解出来ないからそう思うのだ。それに、むしろ常識的な範囲で「労働」を理解したら、「労働しない人間はケシカラン」というような判断しか出てこないはずなのだ。 もし常識的な範囲でしか「労働」の意味を理解していないのに、オレは労働をしなくてもいい存在なのだと考えれば、自分は他人に寄生して生きる特権階級的な人間なのだと思っているのと同じだ。そう考えると、普通の意味での「労働」をしない人間など、資本主義に対する抵抗者でも何でもない。単に他人の成果をかすめ取っている寄生虫のような存在に過ぎないと考えられる。だからこそ「労働」の概念を切り替えなければ、そのような人間を非難する結論しか出てこないのだ。「労働をしていないように見える」人間を合理的に理解するためにこそ「労働」概念の変更を考えなければならないのだ。 内田さんは論理学者ではないから、弁証法について直接語ることはしないだろうし、意識的に弁証法を使っているかどうかは分からない。しかし、優れた仕事を残す人々は、その対象が現実に存在するもので、しかもその全体像を理解することが難しい対象について正しいことを語っていれば、そこには非常に優れた道具としての弁証法が見つかるのだ。これを弁証法とは呼ばずに、長い経験から身に付いた方法論と呼んでいるかも知れないが、僕の目からは非常に優れた弁証法を駆使しているように見える。 弁証法の学習は、論理学の本だけを読んでいたのでは身に付かない。優れた仕事をした人に学び、その仕事がいかに優れているかの本質をつかむとき、弁証法という道具の使い方もまた本質的なものが身に付くのだ。
by ksyuumei
| 2006-03-23 09:38
| 論理
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