「蓑田胸喜の時代」に記述された資料の考察を続けようと思う。まずは、北一輝に対する批判があるので、ここから簑田の具体的思想が読みとれる。僕は北一輝についてはよく知らないのだが、一流の匂いのする人間だと感じる。その一流かも知れない人間に噛みついている簑田の批判が、真っ当な本質を突いているものなら、簑田も同じ一流だと言えるかも知れない。しかし、それが的はずれなものだった場合、そこから思想の二流性も結論される。
「一、『改造』思想は『破壊』思想である 社会は『改造』し得るであろうか?社会の原素は『人間』である。人体または人心は『改造』し得るであろうか?改造を要するものは道具機械の類と雖も積極的価値を有せざるものであるが、生命精神にとっては『改造』はそれ自体その生機の破壊の破壊であり、価値の滅却である。雑誌『改造』は十五年の歴史を似て日本の国家社会に何の積極的建設的貢献をなし得たか?破壊!唯破壊!である、それ以外の何事もなさなかった。『改造』思想は『破壊』思想であり、社会『改造』は社会『破壊』である---ということは理論ではなく事実である。『改造』を要する社会は『改造』の要なき、既にその価値なき社会であるといおう。北一輝氏の『日本改造法案大綱』は『改造』の一語にその消極的価値を自ら不随意に露呈しているのである。」 と引用されている文章を見ると、僕は、ここに現れた思想はやはり二流の域を出ないように感じる。その理由の第一は、社会についての言説を語るときに、社会そのものの分析に向かうのではなく、「改造」という言葉の分析をもって社会の分析をしたように錯覚しているところである。 現実を対象にして分析しなければならないのに、抽象的な「人間」や「生命」を対象にして、抽象論の範囲で「改造」を論じている。このような先入観で北一輝の文章を読んでしまったら、おそらくその内容を正確に受け取ることが出来なくなるだろう。ここでは、現実に存在する社会という弁証法的対象を、抽象的な形式論理的対象にして考察しているという論理的な誤りがある。 この論理的誤りの基にあるのは、今ある社会は改造すべきではない、今の価値観を保つべきであるという感情的な思いではないかと思う。その心情的な観念が論理展開の出発点になってしまうのは、常識から離れることが出来なかったと言うことを意味するのだと思う。 常識の範囲で最も優れた答を提出するのは学校秀才の能力だが、そこには天才性はない。二流性と一流性の分かれ目はこのあたりにも存在する。常識を越えた視点を持つ人間は一流性を持ちうるが、常識から離れられない人間は二流性にとどまる。そして、二流の人間には、常識を離れた独創的な思考は、非常識として理解出来ないものに映るだろう。 このあたりは、内田樹さんが語る常識を越えた思考に対して、常識的な反発をして的はずれな批判を展開する人たちの思考によく似ている。非常識であることは、それだけで間違いだと言われるものではない。常識の方が間違っているかもしれないのだ。そういうふうに思考をメタレベルの領域にまで持ち上げることが出来るかどうかが一流と二流の分かれ目だ。 「北は『日本改造法案大綱』にて個人の財産権を正義化し」「その一方で私有財産100万円限度説を唱えている」と記述されている。それが矛盾しているという批判が興味深い。次のようなものだ。 「この共産主義に対する「人性無視」の非難者も,既に指摘したように,私有財産の100万円限度を主張するような「人性無視」思想家である.限度超過額は無償で「国家」に納付させるというが,その保管監督者たる「国家」とは,北氏自身も容認する「私利的欲望」を解脱出来ない「煩悩具足の凡夫」,すなわち現実の人間以外の何物でもない.ここにいかなる社会でも免れ難い汚職行為や監督困難とを思わざるを得ず,「国憲を紊乱する者に課す別個重大精密なる法律」は「別個重大精密なる脱法行為」を防ぎ得ないだけでなく,政治的社会的腐敗への原因となるのである.それだけではない.官僚的経済統制には善意の場合といえども自発創意活動が必然的に欠ける.よって,政治上において代議政体官僚組織の弊害により,その反動で独裁専断政治が民衆の自発的要求として,現に表現されるように至ったのと同じことが,国家財政・国民経済上に起こることが「人性」から想像できる.有能な私人に大産業の自由経営が,反動として望まれるに至るようなこともあり得るだろう.ソビエト・ロシアでさえも「私有財産の無制限相続制度」復活のやむなきに至った人性的基礎を鑑み,産業国営の重大弊害を猛省すべきである.」 ここでの批判のポイントは、私有財産の限度100万円を超えるものが、国家の管理に任された場合、その国家が正しく管理出来るかという問題にある。北一輝の思想についてよく知らないので、想像するしかないのだが、私有財産というのを一切認めないとか、所有に対しては無制限の自由を認めるとか言う極端は、社会的には弊害をもたらすことが予想される。どこかでバランスを取ることが必要だろう。それを北一輝は100万円と言うところに求めたのではないかと僕は想像する。 「熱心ナル音楽家ガ借用ノ楽器ニテ満足セザル如ク、勤勉ナル農夫ハ借用地ヲ耕シテ 其勤勉ヲ持続シ得る者ニ非ズ」と引用されている部分からは、私有財産を認めない極端な考えは、人間の心というものから希望や満足というプラスの要素を失わせると考えていたのではないかと思われる。もう一方の極端の、完全に自由な私有財産の所有という極端については直接語られてはいないが、これはアンフェアな競争を生み出すという弊害が生まれるのではないかと思う。 莫大な遺産がそのまま下の世代に引き継がれるようになれば、それを引き継いだ人間は競争のスタートにおいて有利な条件を手にすることになる。最初から競争にならない勝負になってしまう。このような状態は、やがては競争そのものを消滅させて、進歩発展しない時代を作り出してしまうだろう。社会的な利益を考えれば、スタート時点での平等性というフェアネスは必要なものと考えられる。相続税として遺産の一部をフェアネスの範囲に押さえるという考えは、バランスを取るということから正当のように思われる。 このような観点には簑田の批判は及ばず、その余剰分の財産を管理する国家の信頼性というものに批判が及んでいる。この批判は、批判されるべき内容があるという点では、批判としては正当だ。しかし、それは本質的な批判だろうか。末梢的な部分を徘徊する批判ではないだろうか。 この批判は、実は簑田自身の主張にも再帰的に帰ってくる批判となっている。簑田は、社会の「改造」はすべきではないと主張していた。それは「人間」や「生命」と同じく、「改造」すれば失われてしまうものだからだと主張していた。これは「改造」という言葉の意味を「破壊」の面しか考えていないことから来る結論だが、社会を「改造」してはイケナイという主張は、社会の制度も変えてはイケナイという主張につながる。 しかし、北一輝への批判において、財産管理をする国家の腐敗というものを指摘するのであれば、その腐敗は「改造」しなければならないと考えるのが普通ではないだろうか。国家の腐敗の指摘は、社会を「改造」してはならないという主張とは相反するものになる。この不合理を簑田はどうするのだろうか。 実際には、簑田の論理展開がおかしいのであると思う。国家の腐敗というのは、現実にはいつどの時代にも見られる普遍的なものである。だから、このことを理由に、ある制度を批判しようと思えば、どの制度であろうと批判出来てしまう。結果的には何もすべきではないと言うことの主張と同じになる。これは「改造」を認めない簑田の思想には都合がいいだろうが、「何もすべきでない」と言うこと自体の正しさはどこからも証明されないことになる。あえて言うなら、「何もすべきではないから何もすべきではない」と主張しているようなものになる。 こういうご都合主義的な論理は、あからさまに語ってくれればわかりやすいのだが、難しい用語をちりばめて複雑な構造を持たせるとわかりにくくなる。二流の学者の面目躍如と言うところだろうか。 「何もすべきでない」と言うことは、「腐敗はそのままにすべき」と言うことになる。そして、「腐敗があるからどの制度もだめだ」と言うことになると、この両者は還元的にそれぞれが前提になるような循環論になる。どの制度もだめだから、「改造」しても仕方がない。だから「何もすべきではない」という結論を導くことが出来る。 現実の腐敗も重要な要素には違いないが、物事の優先順位として、もっと大事なものがあれば、まずはそれからこそ改革していかなければならないと言うのが北一輝の主張なのではないかと思う。「現実を変えてはいけない」「日本の国は伝統のある由緒正しい国だ」と言うことが常識の時に、それに反するような改革の思想はとんでもない非常識に見えるかも知れない。しかし、それは一段高い視点から、メタレベルで考えたものかも知れないのだ。 簑田にはそれが見えなかったのではないかと思う。そこが僕には二流性の一つに見える。しかし、この二流性は、今の時代から簑田を見ているから理解出来るものでもある。簑田と同じ時代に生きていたら、一流の人間と同じ感覚を持っていなければ理解出来ないものだろう。そういう意味では仕方のない二流性だとも言える。二流だと言うことだけを取り上げて簑田を批判するのは酷なことだろうと思う。その時代の限界として簑田の二流性を見なければならないだろうと思う。 問題は、今なら理解出来る簑田の二流性が繰り返されていないかと言うことだ。マスコミが垂れ流す宣伝には二流性の匂いしか僕は感じない。物事をベタに取り上げずに、もう少しネタ的なメタレベルの思考をしてくれと感じることが多い。最初の失敗は悲劇ではあるが反省を経て教訓となる。しかし、同じ失敗が二度目に繰り返されるときは、それは喜劇として軽蔑の対象になるのではないかと思う。簑田的な二流性が今の問題になっているのは、今が喜劇的な時代であると言うことでもあるのではないか。
by ksyuumei
| 2006-03-22 11:46
| 雑文
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