「順接の論理」「逆接の論理」では、個々の短い主張の関係を「順接」と「逆接」というもので分析していた。これは、議論の部分に注目するもので、数学で言えば「微分」に当たるようなものと言えるだろうか。変化を解析するときに、「部分」に注目して、短い単位での変化に注目しているという感じだ。
この章で注目している「構造」というのは、その部分を寄せ集めて全体を把握するという感じになる。数学で言えば「積分」という感じになるのだろうか。実際の議論が実りあるものになるかは、この構造の把握が正確に出来るかどうかにかかっていると言ってもいい。 構造というのは、議論の中心になる主題を教えてくれる。相手の主張の中心が何かというのは、構造を捉えないと分からないのだ。もし、構造的に言って中心になっているようなテーマではなく、部分で論じている、全体の中心のために必要な一部にこだわった議論になれば、相手にとってはそれは末梢的な部分にこだわっているようにしか見えないだろう。 批判や批評というものであれば、相手にとっては末梢的であっても自分にとっては大事だということで問題にすることが出来る。しかし、この場合は議論になることを期待してはいけないだろう。運良く相手の問題意識と重なったとしても、たいていの場合はそれが批判であればずれるものだ。 だから僕の場合は、批判的な主張をするときは、相手がそれに応えることを期待していない。批判はあくまでも自分の主張なのだから、相手がそれに対して問題意識を持ってくれれば反応するだろうけれど、問題意識を持たなければ無視するのは当然のことだと思っている。むしろ、僕が議論をしたいと思うのは、批判的な部分ではなく共感する部分の細かい展開を考えたいときだ。 これは神保哲生・宮台真司両氏が展開しているマル激での議論がそういうものではないかと感じている。マル激では、時にゲストに言いたいことを言わせすぎるという批判が来るそうだ。しかし、マル激はまさにそれを目的にしてゲストを呼んでいるところがある。そこで批判的な対立する部分を引き出そうとしているのではなく、共感出来るところを探すためにゲストに話させるという姿勢を持っているのではないかと思う。 相手と完全に対立する意見しかないのなら、それは議論ではなく批判をすればいいのだと思う。相手と話し合う必要はない。共感出来る部分がありながら、なお対立する部分があるとき、そこを理解し合うために議論があると僕は思っている。 批判というのは、相手の主張とは関係なく自分の考えだけで展開することが出来る。昨日のエントリーでは、僕は「賃金」と交換されるのは「労働」という行為ではないという論理を展開した。これは、そういうことが読みとれる主張に対する批判であるが、それが書かれた文章の中心テーマはおそらくこのことにはないだろう。この問題は、僕の問題意識から生まれたものであり、そういう問題意識を持っていない人間にとっては、そんなことどうでもいいじゃないかという思いの方が強いだろうと思う。 僕はそれでいいと思う。その主張をした人間と直接議論をしようとは思わない。むしろ議論をしたいと思う人間は、そういうことに問題意識を持っている人間だ。問題意識が共通のものになれば、同じ結論に達しようが違う結論に達しようが、きっといい議論が出来るだろうと思う。しかし、問題意識が重ならなければ、単に末梢的な問題にこだわっているやつだとお互いに思うだけだろう。 議論の構造をつかむというのは、議論の流れをつかんで、その部分が全体の中でどのような重さを持っているかを把握するということでもある。これは、ある理論体系を理解するということとよく似ている。特に数学の場合は、個々の定理の論理的な証明というのは、文章をたどっていけば文法的な理解は何とか出来るという場合は多い。しかし、その定理が全体の中でどう位置づけられるかということが分からないと、理論体系という議論の流れはさっぱり分からなくなる。 解析学の最初に出てくる実数の連続性に関わる「デデキントの切断」という考えは、それだけを見ているのでは、単に言葉をもてあそんで、簡単な現象を難しく言い換えただけのようにしか見えない。要するに、有理数には隙間があるけれど、実数には隙間がないので「連続」なんだということを語っているだけのように見える。 しかし、実数の連続性こそが関数の連続性を考える基礎にあり、それが微分・積分という現象の基礎として解析学という体系の中で位置づけられれば、その考えの重要性というものが解析学という世界の中で見えてくる。末梢的なものに見えたものが、本質と関わるものだということが見えてくるのだ。 議論の構造をつかむというのは、そのように相手の主張の重要性というものを正しく判断するために必要な技術なのではないかと思う。この技術が欠けていると、批判においても相手の主張を読み間違えて、結論の言葉だけに拘泥して本質的な批判に向かうことが出来ず、自分で思い込んだ対象に対して批判するという誤読に陥ることにもなるのではないかと思う。内田樹さんの「不快という貨幣」という議論も、その流れを正しく読みとって構造を把握しなければ、内田さんが何を主張したいのかということを読み誤るのではないかと思う。 内田さんの文章は、文法的には少しも難しくないので読み誤る可能性が高くなる。文法的に難しい文章は、助詞の意味や指示代名詞が何を指すのかなどに気をつけて読まなければ、意味そのものが分からないので、どうしても慎重な読み方になるが、文法的に易しい文章はその意味を簡単に受け取ってしまう。そこに深い論理的な意味がある場合は、その簡単さが誤読の原因となることもあるだろう。今一度、内田さんが展開する議論の構造というものを考えてみようかと思う。 その中心の主張となるものは次のようなものと僕は受け取った。 <「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」という問題を考えるとき、人々は自分のイメージする「労働」から若者が逃走していると考えているが、実はそれは当の若者にとっては逃走でも何でもなく、むしろ彼らのイメージする「労働」をしていることが、それと違う「労働」概念を持っている人間からすると逃走に見えるのではないか。「彼らが考えている「労働」はおそらく私たちの考えている「労働」とは別のものなのだ。」> これは内田さんの文章そのものではないので<>で囲った。内田さんの言葉の引用は「」で囲まれた部分だけだ。内田さんの中心の主張はここにあると僕は受け取っている。そして、彼らが考えている「労働」の概念として、今までの通念からすると「働かないこと」が「労働」になっているという仮説を内田さんは提出しているのだと思う。 内田さんが「労働」という言葉で指している対象が、今までの通念と同じものなのか、仮説で提出されている新しい「労働」の概念なのかに気をつけて読まなければ、文章を誤読することになるだろう。また、内田さんの論理展開は、科学者が対象を分析するように、対象の正しい把握をするためのものなので、そこに道徳的な価値観を入れた主張をしているのではない。だから、内田さんの主張を、通念的な「労働」をしていない若者を非難していると読むのもやはり誤読になるだろう。 内田さんが論じているのは、若者が通念的な「労働」をしていないように見えるのはなぜかという疑問に答えることなのである。これは認識の問題であって実践の問題ではないのだ。 内田さんは、通念的な意味での「働かないこと」が「労働」になるという逆接を説明するために、「不快という貨幣」というものを考えてみるということをしている。「働かないこと」が「労働」として考えられるためには、資本主義社会においては、その対価としての報酬がなければ「労働」として受け取れない。だから、報酬として「不快という貨幣」を設定して論理を展開していると僕には見える。 これが「貨幣」であれば、これで買えるもの、すなわちこれで流通するものがなければならない。それは何だろうか。それは、「苦痛」というものではないだろうか。この「貨幣」を貯め込んでいる人間は、誰かに不満をぶつけて「苦痛」を与えることが出来る権利を持っていると考えられる。そして不満を受け止めて「苦痛」に耐えた人間は、また「不快という貨幣」を貯めることが出来る。それが「働かないこと」による「労働」なのではないか。 この仮説に対しては共感出来ない人間もいるだろう。だが、共感出来ないからといってこれだけに反論しても議論としては末梢的な部分に関わることになるだろう。主題として、「労働」概念が違うということに賛成した上で、この仮説に反論するということがなければ、議論は本質に向かわないだろう。 ましてや、内田さんがここで議論の必要上想像した家庭の姿に対して、そんな家庭は日本に存在しないとか、中流家庭を馬鹿にしているというような批判は、まったく的はずれな末梢的な批判になるだろう。これは、論理の反駁に実践を対置するという、論理というものの抽象性に対する無理解のあらわれではないかと思う。 内田さんが展開しているのは、「不快という貨幣」が蓄積される状況を一般化して語っているのである。その一般化の理解のための例として想像上の家庭をおいているだけのことなのである。だから、家族が不満を抱えているという家庭であれば、どこの家庭であろうともこの一般化で代表される家庭と同じように考えられるかどうかということが、抽象化では大事なことなのだ。 不満を抱えていない家族、あるいはコミュニケーションが十分でお互いにいたわり合っている家族というものが日本中にどれくらい存在するだろうか。もし、そのような家族の方が圧倒的に多いのだというのであれば、「不快という貨幣」が家庭で蓄積されるという内田さんの想像は全くの空想だと断定してもいいだろう。しかし、空洞化した家庭が今の日本では普通だと認識するなら、その家庭で「不快という貨幣」を想像することは十分可能だし、そこで「働かないこと」が「労働」であるという学習をするという想像も十分理解可能なことなのである。 内田さんが論じているのは、あくまでも現状をどう理解するかという認識の問題であって、現状を価値評価しているのではない。同じように以前に、サラリーマンの滅私奉公についても、それをどう理解するかという点で「労働」の本質(これはもっとも抽象された意味での「労働」ということ)を語っていた。必要以上に働いてしまうという人間の心性を理解したからといって、それを奨励していると短絡的に考えるのは、現状認識という分析をしているということの受け取り方を間違えているのである。 理解することと賛成することは違うのである。僕は、小泉さんのアメリカ追随外交(宮台氏的に言うとアメリカケツ舐め外交)を理解する。それは、小泉さんの立場ではやむをえない行為だと理解する。しかし、「ケツ舐め」という軽蔑的な表現を使うのは、それに賛成しない意志の表れだ。理解というのは、認識という理性の問題で、それに賛成の選択をするかどうかという意志の問題ではないのだ。その区別が出来なければ、議論の構造をつかむことは出来ないだろう。
by ksyuumei
| 2006-03-17 09:48
| 論理
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