宮台真司氏は、マル激トーク・オン・デマンドでは、良く日本の後進性を指摘して、日本は近代社会ですらないという点をさまざまに指摘する。例えば個の確立が出来ていないと言う批判は、自分の体験からもよく分かる批判だ。
日本人は、周りの空気に流されるという性質が、あれほどの意固地なわがままを抱えているように見える小泉さんにすら見られる。一見信念を貫いているように見えながら、それは、大部分が自分を支持するという予想を元に主張しているに過ぎないようだ。もし、自分が支持されない、不人気になると思ったら、ある主張は簡単に引っ込めてしまうのではないだろうか。 小泉さんは以前に、「周りの空気を読んで判断する」と言ったが、それは、その決断において何が支持されるか、何が不人気を呼ぶかが分からなければ判断が出来ないことを意味するのだろうと思う。もしそれが分かっていたら、支持されるだろうと思うことを主張しただろうが、それが分からなかったので、確固たる主張が出来ずに、周りの空気を見たあとでなければ判断出来ないと思ったのだろう。 周りの空気を見ることが常に悪いことであるわけではない。他に配慮することは時には必要だ。しかし、小泉さんの周りの空気には、中国や韓国をはじめとするアジアの国は入っていない。周りの空気を構成するのは自国民であり、それよりも強い空気はアメリカの統治権力ではないかと思われる。 周りの空気を見ると言うことが、正当に周りの他の人々を配慮していると言うことなら問題はない。しかし、それが常に第一の基準になり、自分の判断をそれにゆだねているとしたら、それは近代社会の市民としての個が確立されているとは言えないだろう。近代社会の個人としての市民は、意志の自由をはじめとするさまざまな自由の元に、自分の頭で考えて判断するという個の確立がなければならないと思う。逆に言えば、個が確立していない人間は、資本主義社会に生きていようと、宮台氏が語るように、やはり近代社会を構成しているとは言えないだろうと思う。 日本が近代社会では無いという判断は、日本人の大部分がまだ個を確立していないと言うことから帰結されるのだと思う。小泉さんという、日本のリーダーでさえも個が確立していないのなら、大部分の国民も個が確立されていないと予想される。近代社会の条件は、個の確立だけではないだろうが、個の確立という観点で現代日本の現象を見て考えてみようと思う。現象を深く考えて本質を見ることが出来たら、個の確立を図って近代以前の残りかすを克服する方向が見えるのではないかと思う。 まず、個人的な体験を一つ語ると、僕はあるきっかけからNHKの受信料を拒否している。昨今の不祥事がきっかけではなく、本多勝一さんの『NHK受信料拒否の論理』を読んでから、それを吟味して決断したものだ。読んで、それを鵜呑みにしてすぐに拒否したのではない。それなら、他人の意見に従うだけの、自分の判断のない人間になってしまう。読んでから決断するまで10年ほどかかった。 受信料を払うか払わないかは、基本的には契約関係であると僕は思っている。契約だから、自分が受信料を払うことに納得して、NHKと合意すれば受信料を払うと言うことになる。それが、義務のように強制的に払わされると言うこと自体が間違いだと思っている。NHKは勝手に放送を流しているのだから、それを見るか見ないかは視聴者の勝手だ。見て、金を払うだけの価値があると判断すれば契約をすればいいのだと思う。 NHKの受信料契約は、今のやり方では合法的な押し売りと言える。押し売りは基本的に許されないと僕は思うので、これを拒否する方が正しいという判断をした。あと細かい問題では、NHKの情報公開がずさんだと言うことも拒否の理由の一つだ。我々が払っている受信料がどのような使われ方をしているのか、具体的に知る方法がない。外国に派遣される職員の歓迎パーティーのようなものにまで使われているという噂もあった。その噂が本当なのか、確かめるための情報が公開されていないのは、契約をしようという意志を失わせる。 また、受信料を払うと言うことは、番組や運営に関して意見を反映させる制度がなければならないと思う。NHKのやり方に反対の意志を表明する制度がどこかになければならない。受信料を拒否するというやり方が一つの意志表明だと思うのだが、これは制度がないからそのやり方しか残っていないと言うことでもある。意見を反映させるというのは、自分の意見を採り入れろと言うことではない。一般的に何か意見がある人の意見を受け止める制度というのがNHKにはないのだ。視聴者の声を聞いていると言いたい人がいるかもしれないが、その聞いた声が、どのような手順を踏んで番組や運営に反映されるかという見通しがなければ、聞いただけでは制度があるとは言えないのだ。 このような拒否の理由は、本多さんから学んで自分で考えて判断したものだ。僕は、近代人であろうとして、自分自身の判断を持つように努力したのだが、ある日説得に来たNHKの職員は信じられないような言葉を言っていた。「自分でそんなことを判断してもいいんですか」と言うことを言って去っていったのだが、受信料を払わないと言うことを、自分で判断したこと自体がケシカランという言い方だった。 それは中年の女性だったが、彼女にとっては、「受信料を払う」と言うことは疑うことのない自明な前提だったようだ。その根拠がどこにあるかは聞かなかったが、「受信料を払わない」という根拠を彼女は聞きたくないようだった。NHKの職員であれば、それほど頭は悪くないと思うのだが、根拠を疑わず・考えず・信じているという姿は、個の確立が出来ていない人間に見えた。 このような人が少数であれば、日本社会としては影響が少ないので、近代社会ではないという批判はされないのだろうが、どうやら大多数がそのようではないかと思われるので、日本社会の後進性というものが感じられるのだろうと思う。NHK職員といえば、ある意味ではエリート層に近い、社会では上層の部分に属する人間だろう。その人間でさえもが近代的な個が確立されていなければ、社会全体がそれを克服することはさらに難しくなるだろう。 個人的な感覚にとどまらず、大衆的に、日本は近代社会ではないと思えるのは、マスコミに煽られる人々を見るときだ。最新のマル激の中では、オウム真理教の教祖だった麻原氏の裁判のことが語られていたが、麻原氏自身が、裁判を理解することが出来ない状況の中で裁判が行われようとしている状況を批判していた。 近代社会では、裁判というものを通じて、その事件が社会においてどのような意味を持っているのか、その犯罪がどのような原因で起こったのか、それを抑止するにはどのような努力をしなければならないのかを学ばなければならないのではないか。それを感情的な吹き上がりで、「悪いやつを吊せ」というような復讐心で裁判を眺めるというのは、個が確立されていないと言えるのではないだろうか。 麻原氏が裁判を理解出来る状況でなければ、我々がこの裁判から学ぶことは出来ない。だから、麻原氏が裁判を理解出来る状況までまず待つことが必要だ、という主張は論理的に真っ当な主張だと思う。しかし、そのような主張をすれば、大衆的にはものすごいアンポピュラーになり、空気を読めていないと思われる。大衆的な空気は、地下鉄サリン事件などを起こした極悪人の麻原氏は、見せしめのために早くつるすべきだというものではないだろうか。マスコミの報道を見ているとそう感じる。 「和歌山毒カレー事件」と呼ばれるものの犯人と見られている林真須美さんについても、動機の解明が出来ていないと言われている。物的証拠にも乏しく、決め手になっている状況証拠の判断も、他に真犯人が見つからないから、疑わしい林さんが犯人だと言われているようだ。このことに対しても、宮台氏は、「疑わしきは被告の利益に」という近代社会の原則が守られていないと言う批判をしていた。 しかし、この主張もかなりアンポピュラーなものになり、大衆的な反発を招いたらしい。宮台氏は、林さんが犯人ではないという主張をしたのではない。確固たる証拠なしに、犯人であるという判断をすることを批判したのだった。これは論理的に真っ当な批判であり、個が確立している人間だったら、少なくとも感情的な反発で論理を無視することはない。しかし、大衆的な反応とマスコミの報道を見る限りでは、個が確立している人は少ないように感じる。日本は、まだ近代を迎えていないのだ。近代市民の感覚を持っている人は極めて少ないのである。 今またライブドア事件の騒ぎ方を見ていると、日本社会は、まだ近代が何たるかをまったく学んでいないのだなと感じる。マスコミが報道をすれば、まだ何も確定していないのに、すでに堀江氏が犯罪者であるかのごとく扱っても批判の声すら起こってこない。もちろん、一部の人たちは、インターネットなどで見識のある意見を語っているが、マスコミの暴走を止めることは出来ていない。 マスコミが暴走するのは、堀江氏を叩くことがポピュラーなことであり、それをしている限りでは自分たちは安全だと思っているからだ。だから、大衆が市民として育っていれば、このマスコミを無視して、マスコミをこそアンポピュラーにして、まともな論理を使えないマスコミを、それこそ商売が成り立たないくらいに拒否することが必要だ。しかし、それは行われない。 テレビはいずれ見捨てられると思うが、それはテレビが面白さを失っていくだろうと思われるからだ。テレビには危機意識がないので、質の高い面白い番組を作ろうという人間がどんどん減っていくと思われる。その質の低下がやがては見捨てられることにつながると思う。しかし、この見捨てられ方は、大衆的に市民感覚が確立したから見捨てられたと言うことではない。もし、市民感覚が確立した大衆が増えれば、今の段階でテレビが見捨てられてしかるべきだろう。テレビが自然崩壊して見捨てられるのではなく、我々自身の判断で見捨てる時代が訪れないものかと思う。 個の確立は、自分自身の判断を持つことを体験することによって育っていくだろう。その意味では教育は非常に重要なものに思われる。しかし、日本の教育は、自分の判断を持つと高い評価を得られないという仕組みになっている。高く評価される人間は、自己主張する「ウザイやつ」ではなく、素直に言いつけを守る優等生だ。判断停止状態で、周りの空気を読む方が、学生の間は楽に生きられるし安全だ。 日本の教育が、このような特質を持っている限り、日本人の大部分が個が確立出来ないのは論理的な帰結になるかも知れない。しかし、希望の一端は見える。それは、日本の教育が、もはや効果が薄れた、崩壊寸前のものになっていることだ。個の確立を奪う教育が効果をなさなくなれば、そこから逃れる人間が、徐々に個を確立していけるかも知れない。学校に影響されすぎない人間が増えることによって、日本も近代社会への道を歩めるのではないだろうか。 学校の教師も、価値観を押しつける能力がだいぶなくなってきた。これは、未来への明るい展望ではないかと思う。子供たちが、面従腹背を一つの技術として学び、それを道徳的に悪いことだなどと考えなくなれば、個の確立につながるのではないだろうか。大人たちも、面従腹背の技術を学べればよいのだが、長年染みついた道徳観念が邪魔をするかも知れない。しかし、わがままと紙一重の主体性は、日本の子供たちにも育ちつつあるのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2006-01-27 10:41
| 社会
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