シカゴ・ブルースさんが「濫觴(らんしょう)」と言う掲示板の中(196,197の書き込み)で、「アキレスと亀」のパラドックスに言及してくれている。時間というものに対する「主観性」と「客観性」がパラドックスに大きな影響を与えているというのは僕も感じていた。
シカゴ・ブルースさんは、「運動は物質の存在様式であり物質の内的属性である(エンゲルス『自然の弁証法』)」と書いている。このことを僕なりに解釈してみると、静止さえも「変化0(ゼロ)」の運動として捉えることによって、すべての存在様式を含む表現が出来上がるので、「運動は物質の存在様式である」と言うことが主張出来るのではないかと感じる。 ゼロというのは、現実には何もないと言うことを表現する言葉だが、数学的には、「1個ある」「2個ある」という言い方と同等な資格で、「0個ある」という言い方もする。そして、この言い方は「何もない」と言うことと意味は同じものとして受け取る。つまり「0個ある」という言い方は、すべてのものが「ある」という言葉で統一されて表現されるように工夫されている言葉なのだ。「0(ゼロ)」は、「ないのにある」という矛盾した表現になっている。現実には、何もないという現象を指しているだけなので、現実的な矛盾は何もないにもかかわらず表現の上では矛盾している。 「0個ある」という表現は、0だけ特別視せずに、すべての数を統一的に扱えるという利点がある。もし、0に対してこの表現を許さなかったら、0だけはいつも特別に別のこととして考えなければならないだろう。しかし、同じような表現を許すことによって、特別視することなく一般的に扱うことが出来る。 仮説実験授業研究会の牧衷さんが、力学の運動を語ったとき、「慣性の法則というもので、静止というのを考えたとき、それが初速も加速度も0(ゼロ)の運動だと気づいたとき、力学が分かったという感じがした」というようなことを言っていた。これによって、静止も運動の一つだと言うことになり、すべてが統一的に扱えるようになり、世界が見通し良くなったと言うことではないかと僕は感じた。 このような思考から得られる帰結として、「客観的な時間」というものを考えると、それは物質の存在様式としての運動を別の側面から表現したものと考えられるのではないかと思った。例えば、絶対静止の世界(すなわち、変化0の運動だけが存在する世界)というものを想像してみると、そこでは客観的な時間はどうなっていると解釈出来るだろうか。 そこには、客観的な時間も0(つまり「無い」)と考えられるのではないだろうか。客観的な時間というのは、物質の相対的な変化を捉えて、その変化に数値を与えて表現したものになっているのではないだろうか。等速直線運動をする物体は、加速度0であるから、同じ「時間」内に、同じ距離を進むと考えられる。距離の方は、物質的に計測することが出来るので、等距離を測ることによって、同じ「時間」というものを客観的にはかることが出来る。 現実的には等速直線運動というものが難しいので、天体の運動のように、接線方向には加速度0で等速運動をしているものを、最初の時間の測定に利用したのではないかと思う。天体が1日後に同じ位置、すなわち同じ距離を通過したときに、1日という時間を客観的に定めたのではないだろうか。 主観的な時間に対しては、シカゴ・ブルースさんは、「現実の主体・自己が意識のうちに作り上げた想像の世界へ観念的自己分裂によって移行(転換)した観念的な自己として、その想像の世界のうちで経験する「想像的な時間意識」です」と説明している。これもおおむね賛成だ。このときの時間意識も、存在するものの変化に基礎をおいているように感じる。 この場合は、想像において何を存在させても、何を変化させても、それは自分の自由になるものであるから、「「主観的な時間」を自由にあやつることができます」と言うことになる。ここで、主題とはやや離れるが、次のような想像も浮かんできたのでちょっと記しておこう。 絶対静止の世界では、変化0に対応して、時間も0だと考えられたが、同じことが完全に繰り返される、絶対循環の世界では、時間はどうなると解釈出来るだろうか。そこでは、過去・現在・未来という概念が無くなってしまうのではないかと僕は想像する。今目の前に見ている現象も、実は過去に同じものを見ているし、未来にはまた同じものを見る。そうすると、その過去・現在・未来は、どのようにして区別したらいいだろうか。これは、まったく区別出来なくなってしまうのではないだろうか。 絶対循環の世界では、過去・現在・未来という時間の流れの区別が無くなるのではないか。自然科学における、繰り返し検証出来る実験というのは、実は、この過去・現在・未来という時間の流れに左右されない、絶対循環の世界での出来事として考えられているので、いついかなる時でも普遍的に成立する法則として提出されるのではないかと感じる。強いて言うなら、絶対循環の世界では、時間は常に現在しかないとも言えるのではないかと感じる。 過去・現在・未来という時間の流れは、あくまでもそれが違うものとして現れるという意識の元に、このような区別がされているのではないだろうか。 さて、ここで主題となる「アキレスと亀」のパラドックスに戻って考えると、アキレスが亀に追いつくという運動は、客観的な時間を表現する運動だと思われる。それは、シカゴ・ブルースさんが以前に考察したように、有限の位置の差・有限の速さ・有限の時間内に観察出来る変化というものになる。客観的には、これらの有限性が、いつか追いついて追い越すという現象につながっている。 しかし、これを「無限分割」という操作に関連させて考えると、これは想像の世界での操作になり、想像の世界での変化と言うことから、想像の世界での主観的時間が考えられる。ここでは無限の操作をしているのであるから、時間的にはそれに対応して無限の時間が考えられる。この想像の世界で考えられた無限の時間は、決して現実の世界で見つけることは出来ない。この時間を混同することが、パラドックスの大きな原因であることは頷けることだ。 しかし、ここでもなお次のような疑問が僕には残る。シカゴ・ブルースさんは、「「想像の世界における運動」と「現実の世界における運動」との性質の違いから生じる「想像的な時間意識」と「現実的な時間意識」との矛盾が人間の意識にもたらす不合理を表現した」と書いている。これを解釈すると、シカゴ・ブルースさんは、この矛盾は、「意識にもたらされた=認識に存在する」矛盾だと考えているように感じる。認識の中に矛盾が存在したからこそ、それが表現されていると捉えているように感じる。 だが、僕はもう一つの可能性も捨てきれないのだ。それは、認識としては正しかったものの、言語としての表現において、その認識を表現する言語が存在しないことから、表現の上でパラドックスが生じてしまったのではないかという解釈だ。運動を、運動のままで表現しようとすると、論理ではふさわしい表現が出来ないのではないかという思いだ。ゼノンはそれをしようとしたために、表現の上で免れない矛盾を抱えてしまったのではないだろうか。ちょうど、極限の概念を「限りなく近づく」と表現すると、どうしても数学的には矛盾を免れないように。 ゼノンの正しい認識は、運動を静止で表現するという工夫をして、論理的に解決出来ないだろうか。極限の概念が、イプシロン-デルタの論理で解決されたように。 ゼノンは、「アキレスが亀に追いついたときに、その時間内に亀は少し前進している」という現象が、絶対循環のように繰り返されると主張している。だから、ここでは、過去・現在・未来という時間の区別が無くなってしまっているのを感じる。そこでは常に時間は現在を表していると解釈することも出来る。未来がどうなるかと言うことは、論理的に排除されてしまっているのではないだろうか。 未来が排除されていれば、いつかは追いついて追い越すと言うことも排除されてしまう。これは、認識として間違っているだろうか。想像の時間と客観的な時間を混同すると言うことは、認識の誤りのようにも見えるが、ゼノンの想定においては、客観的な時間にも、過去・現在・未来が存在しない場合を設定しているようにも感じる。だから、この場合の客観的時間を表現すると、ゼノンが語るように、永遠の現在の表現として、「アキレスが亀に追いついたときに、その時間内に亀は少し前進している」と言わざるを得ないのが論理なのではないかという感じもする。これは、運動を運動のままで表現したときに、論理はそれを矛盾として表現することになってしまうと言う、論理の表現としての限界を物語っているのではないだろうか。 もう一つ感じるのは、日常言語で厳密な論理を考えることの限界だ。数学の場合、運動の矛盾を解決するのにイプシロン-デルタの論理を発明したが、これは日常言語の範囲で理解することが非常に難しい。おそらく専門的な数学を勉強する人間のほとんどが、この論理を日常言語で理解しようとしてかなり挫折したのではないかと思う。幸いにも僕は記号論理というもので、この論理の厳密性を理解出来たが、この論理は、記号論理の助けなしにその厳密性を受け取るのは難しい。「アキレスと亀」が抱えるパラドックスの解決も、運動の厳密な表現としての論理という観点で考えると、日常言語で語ることは難しいのではないかという感じもする。 いずれにしても、僕は、「アキレスと亀」のパラドックスは、その表現の中にあるという思いがまだ消えない。これをもう少し追求してみたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-01-24 09:46
| 論理
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