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形式システムは自らの構造を把握できるか?

このところ「構造」という概念についてあれこれ考えている。これは、その把握が難しいと感じていることがあるのだが、「構造」の把握が物事の理解を深めるのに非常に重要ではないかとも感じるからだ。社会的な出来事の意味を理解したり、現状がどのような状況であるのかを正しく評価したりするのにも「構造」の把握は役立つだろう。そして僕が携わる教育においても、「構造」の理解を前提にした対象の理解を図ることによって、その対象の持つ本質を捉えることが伝えられるのではないかとも思える。

日本の教育においてはそこで教えられていることは、問題の解答を得るためのアルゴリズムを記憶することにあるように見える。これは外国においても、旧社会主義国などは暗記教育が主だったと言われていたので、試行錯誤によって思考の展開の仕方を教育するよりも効率的な教育が行えたからではないかとも感じる。つまり、人間の活動を形式システムが行うようなやり方をすることを覚えることにする教育は、努力した分だけ身につくし、解答がある問題に対してはその解答を見つけるという点では効果的だと思われる。

しかし、これはあくまでも解答がある問題の解答を見つけるということで効率的であり役に立つということなのだろうと思う。もしそこで考えている事柄に、形式システムとしては解答が出せないとしたら、暗記した知識では解答が得られないことになる。それでも何らかの実践が必要であるなら、どちらかに決められない曖昧な判断をとりあえず決定して何かをしなければならなくなるだろう。解答のある問題に対しては、必ず正しい判断をしていた形式システムは、このような試行錯誤においては間違える可能性が生じてしまう。

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# by ksyuumei | 2008-11-18 09:42 | 論理

麻生内閣の経済政策は世紀の愚策か?

麻生内閣が発足した頃にマル激では、その経済政策に対して「世紀の愚策」というような表現を使っていた。これは神保哲生氏が紹介していたもので、霞ヶ関の埋蔵金を探し当てたといわれている高橋洋一さんがそう呼んでいたということだ。

高橋さんによれば、経済政策の効果としては、為替の変動相場制の下では財政出動よりも金融政策の方が効果的であるということが経済学では常識となっているということだった。景気の浮揚のためには、金をばらまくよりも金融政策の方が重要だということだった。その金融政策が補正予算案には盛り込まれていなかったので、景気浮揚のための政策としてはほとんど役に立たないという評価から「世紀の愚策」という言い方をしていたようだ。

補正予算の段階でも「世紀の愚策」と呼ばれていたものが、今回の金融危機に対する経済政策ではさらにばらまき度が増したような提案がなされているようだ。特に批判されているのは給付金という形でばらまかれる2兆円の金についてだ。これについては、他の面で麻生内閣の政策をプラスに評価しているように見える新聞の社説でも、ほとんどすべての社説で疑問を投げかけられている。給付金は、国民が個人としては助かるかもしれないが、それが経済的な面での影響をどの程度与えるかといえば、ほとんど期待が出来ないというのがその評価のようだ。このことは、政策の提出者である麻生内閣の方でも分かっているのではないかと思われるのに、どうして「世紀の愚策」といわれるものが提案されてしまうのか。このことの合理的(論理的)な理解を考えてみたいと思う。

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# by ksyuumei | 2008-11-03 11:05 | 政治

主張の正当性がなぜ報道されないのか?

久しぶりに論理的な観点から見て面白そうなニュースを目にした。「修正協議、自・民の溝埋まらず=農林中金の扱い焦点-金融強化法案」というものだ。このニュースは、それ自体は何でもない平凡なもののように見える。自民党と民主党が国会の議論において対立しているということを知らせるものだ。政権を巡って争っているこの2党が対立しているということはごく当然のことで、その対立の一つとして「金融強化法案」というものがあるというのがニュースに値するということなのだろう。

このニュースを見ていると、事実の報道はされているのだけれど、そこに論理性がかかわってくる問題については一切報道されていないのを感じる。事実としては「農林中央金庫と新銀行東京の取り扱いで、民主党はいずれの金融機関も資本注入の対象としていることに反対し、修正を要求。自民党は「特定の金融機関を対象外にはできない」と拒否し、合意のめどは立っていない」ということだ。事実はこの通りなのだろうが、それではどちらの主張が論理的に見て正当性があるのかという判断をしようとしたとき、このニュースでは全くその判断が出来ない。

双方がそれぞれ主張していることは、立場の違いなどから来る前提が違ってきているはずだ。そして、その前提を設ければ、論理的にはそのような結論が出てくるというものになっているだろう。もし、前提にかかわらず、「そうしたいからするのだ」という主張だったら、それは単なるエゴであり、そのようなものの公共性を誰も感じないだろう。だから、もし主張がそのようなエゴであるならば誰もその主張を支持しないだろうと思われる。

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# by ksyuumei | 2008-11-01 10:49 | 報道

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 3

「形式システムの文字列を自然数によって表現すること 2」においてMIUシステムと呼ばれる形式システムの文字列に数字を対応させて、システムの文字列の記述を算術的な計算に翻訳することを考えた。文字列の書き換えという思考の展開を数字の書き換えに置き換え、さらにその数字の書き換えが計算として記述できるということを見てきた。

これは形式システムの構造を自然数論の算術の中に写像したものになる。自然数論は非常に強力な記述能力を持っているので、システムの構造を写像することによって、そのシステム自体に言及するようなメタ数学的な命題も、自然数論の算術的命題として記述できる。つまり、算術的命題は、それがある計算を表しているという点で算術的な面を持つと同時に、その計算を解釈することによって、システム自体への言及の意味を読み取ることが出来る。

かけ算や足し算をしたりするのは算術的な計算だが、その計算がある規則に従ったものであることが分かると、それは規則に従った導出をしていると解釈され、その計算の結果得られた数字に対応する形式システムの文字列は、その形式システムでの定理であると判断される。その文字列が定理であるという判断は、形式システムの文字列の生成を語るものではなく、形式システムの全体を捉えた性質に対する言及になる。つまり、この計算はメタ的な意味を持つものとして解釈される。

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# by ksyuumei | 2008-10-31 09:17 | 論理

図と地という視点

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本では、図と地に関する一章が設けられている。図というのは、絵画的表現で言えば、表現したい中心になるようなもので「積極的な部分」と書かれている。その表現を見たときに、目立つものとしてすぐ目に入ってくる部分というようなイメージだろうか。それに対して地の方は、その目立つ部分を支える背景に当たる部分になる。この本では「消極的な部分」と呼ばれている。これが目立つようでは図の表現がかすんでしまうから、確かに消極的でなければならないだろう。

この図と地という二つの概念は,ゲーデルの定理を理解するための比喩として語られているように思う。ゲーデルの定理では「証明可能ではない」という考え方が証明の中心をなす。しかし、形式システムでその性質が目立って我々に見えてくるのは「証明可能である」という方だ。つまり「証明可能性」の方が図であって、「証明不可能性」は、その図が見えた後に背景として浮かんでくる地の方だと考えられる。

図の方は目立つので直接捉えることが容易だ。「証明可能性」の方は、出発点である公理から正しい導出法則を適用してあれば、それが「証明できる」ことを直接語ることが出来る。しかし、「証明できない」ということは、いくらやっても出来なかったという結果を示すだけでは「証明不可能性」を示したことにならない。どのような可能性を考えても「証明が出来ない」ということを示さなければならない。

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# by ksyuumei | 2008-10-29 10:02 | 論理