個室ビデオ店放火事件の背後に潜む構造

個室ビデオ店放火事件に関しては多くの新聞がそれを社説として論じている。それは、この事件を単なるニュースとして扱っているのではなく、ここに現代日本が抱える問題点が象徴的に現れていると判断しているのだろう。だが、各社が語るその問題提起は、どうも当たり前すぎて心に響いてこない。確かに分かりやすいのだが、その解決は果たして可能なのかという疑問符がつくような気持ちを感じている。

容疑者の身勝手な犯行を非難するのはもちろん当然だが、各社が主に論じているのは、被害がこれだけ拡大したことの原因についてだ。それは主に防火施設の問題として取り上げられている。これもたいへんに分かりやすい。火災報知器の作動がもっと確かなものであれば、施設の管理に当たる従業員が避難誘導を的確にしていれば、火災が発生したときの避難通路が本当に非難できるような実効性を持っていれば、など様々な点の不備が指摘されると、それが問題だというのは誰にでも理解できる。

それではこの問題の解決法として提言されているものにはどのようなものがあるだろうか。多くは規制の強化など、人間の意識(倫理観とでもいおうか)に訴えかけるものになっているように見える。しかしそのように規制を強めて、意識を高めれば問題が解決して、防災体制が整っていくようになるだろうか。意識を高めて問題を解決するという方向は、社会的な問題の解決に当たっては疑問を持たざるを得ない。むしろ、倫理観が低くても大きな被害が出ないようなストッパーとしての働きを持たせることが必要なのではないか。道徳心が高ければ社会の秩序は維持されるけれど、道徳が崩壊すればやりたい放題だというような社会では安心して生きていくことは出来ない。道徳に頼らずに安定をもたらすような工夫はないだろうか。

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# by ksyuumei | 2008-10-05 14:04 | 社会

形式システムにおける証明の概念

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(ダグラス・R・ホフスタッター著、白揚社)という本の第2章「数学における意味と形」に「pqシステム」と呼ばれる形式システムが紹介されている。この本は、ゲーデルの不完全性定理の「うまい説明」を語るものだが、そのためには700ページ以上の文章を必要としている。この形式システムの説明では、形式システムにおける「証明」ということが、一般的に日常言語で語られている「証明」とどのように違っているかが説明される。ゲーデルの不完全性定理の理解には、この区別を理解することが必要なのだ。

この章では、普通の意味での「証明」の例として素数が無限に存在するということを証明する「ユークリッドの定理」が紹介されている。これとの比較で形式システムの「証明」を考えると分かりやすいかもしれない。素数というのは中学校程度の数学の知識で理解できるし、ユークリッドの証明もおそらく中学程度の数学の理解があれば判ると思うからだ。

素数は「1とその数自身以外に約数を持たない数」と定義される。具体的には

  2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,……

というような数が素数になる。1は素数の中に入れない。これは素因数分解の一意性を保証するためである。1を素数に入れてしまえば、因数としての1は何回でも使えるので素因数分解がただ一つに決定しなくなってしまう。

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# by ksyuumei | 2008-10-04 20:20 | 論理

うまい説明とは

仮説実験授業研究会の牧衷さんという人が『運動論いろは』(季節社)という本を書いている。牧さんは、いわゆる市民運動の専門家で、そこには長年の経験から得られた豊富な知識と教訓が語られている。運動という予測のつかない、ある意味では混沌とした対象から、いかにして法則性を読み取るかという認識論がそこにはあり、それは現実の持っている複雑性を理解するために、弁証法的発想を利用するというものになっている。弁証法の具体的な応用のすばらしい解説書ともなっている。

そこに牧さんの「慣性の法則」の理解に関する体験が語られている。「慣性の法則」というのは、「静止している質点は、力を加えられない限り、静止を続ける。運動している質点は、力を加えられない限り、等速直線運動を続ける」というふうに語られる。これは、静止の場合については誰でも経験しているのでその理解はたやすいだろう。論理的な思考なしに、体験から直接そのような「感じ」を理解することが出来る。

しかし「等速直線運動」の方は、我々は直接体験することは出来ない。力を与えられていないように見える物質は、地球上ではいつか止まってしまう。(そこには摩擦力などが加えられているのだが、これは目に見えるようにはなっていない。)いつまでも動き続けるということはない。この「等速直線運動」は、それを想像させるようなうまい実験を利用しないとなかなか理解が難しいだろう。言葉の上で、「慣性の法則」は上のように書かれているというのを記憶しただけでは理解に至らないのではないかと思う。言葉で覚えている「慣性の法則」は、それを説明することは出来ても「うまい説明」とはならないだろう。

説明が説明として機能するためには、その説明によって今まで分からなかったところが分かるようにならなければならない。言葉で覚えているだけの、暗記した言葉の説明は、それがすでに分かっている人には分かるだろうが、まだ理解に至っていない人にとっては何を言っているのかさっぱり分からない。それは全く説明という言葉に値しないのだが、そのような丸暗記の言葉であってもテストでは正解になったりする。

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# by ksyuumei | 2008-10-03 09:26 | 雑文

麻生さんの所信表明演説 1

麻生さんの所信表明演説があった。その内容については、専門家が詳しい解説をしてくれるだろうと思う。そこで、内容そのものには立ち入らずに、その主張の論理的側面に注目して、ある種の前提から論理的に導かれた帰結ではないかと思われる部分を探してみたいと思う。

論理的な語り方をしている部分というのは、その論理をはっきりと自覚して、相手を説得しようという意図があれば、自明だと思えることでも明確に記述して説明することが多い。しかし、そのような意図があまりなく、これは自明なことで言うまでもなく誰もがそう思う、という思い込みがあれば、そのことの前提をわざわざ言うことはないだろう。そのようなところが麻生さんの演説の中にないかも探してみたいと思う。

前提を語らないことは、何か論理的でないように見えるかもしれないが、論理的でないというのは、その導出の仕方が論理法則に反しているときに指摘できることで、自明の前提を置いていたとしても、そこから正当に導かれる論理を使っているのであれば、前提を語らずとも論理的であると言える。このように、麻生さんが語ることの論理的な側面を評価するという読み方をしたいと思う。もし麻生さんが論理的におかしなことを語っていれば、それは結論として主張されていることが信用しがたいということを意味する。しかし、麻生さんが正当な論理を使っているのであれば、あとはその前提となっていることが正しいのなら、その結論を確信を持って信じてもいいということになるだろう。

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# by ksyuumei | 2008-09-30 10:06 | 政治

ブログ・エントリーのための覚え書き

いくつか気になっていることがあって、いろいろと資料を調べているのだが、なかなか考えがまとまらず資料も集まらないので書けないでいることがある。それを忘れないうちにちょっと記録しておこうと思う。


1 民主党の政策が財源の裏付けがないということについて

民主党が掲げている政策については、ばらまきだという批判が多く、しかもその財源の裏付けがないということが多く語られている。それが本当だろうかと思っていろいろとデータを探したのだが、あまり説得的に語っているものが見あたらなかった。何となくそうなのかなとは感じるが、世間で叩かれているほどひどいという感じがしなかった。あれだけ世間で叩かれているのだから、もっと確信を持って主張できるだけの材料がすぐに見つかると思ったのに。

どうも説得力に欠けるのは、民主党が主張しているような財源の移動が非現実的だということを具体的に語っていないことだ。そんなのは無理だという結論はたくさん見かけるのだが、このような具体的な問題があって出来ないとか、もっと具体的に語っている人がいないものかと思う。

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# by ksyuumei | 2008-09-28 18:11 | 雑文

一般論的主張と現実解釈との整合性

内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがようやくパソコンで読めるようになった。記憶にあるように、ここに書かれた内容は「宰相論」に関する一般論がほとんどだった。その一般論を語る過程で、現実の「宰相」に当たるかもしれない麻生氏について少し言及しているというのがこのエントリーの印象だ。

ここに書かれている一般論に関しては僕はだいたい共感してその通りだと思う。しかし、麻生氏を評価しているように見える部分、


「麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。
私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。
だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。」


に関しては、この受け取り方(理解の仕方)によっては、自分とは反対の判断をしているのだろうかと思ってしまう。だが一般論からの論理的帰結としては内田さんが語ることが論理的には正しいようにも思える。自分は、論理的な判断ではなく、感情的な好き嫌いから麻生氏の曖昧さに対してマイナスの評価を与えているのだろうか。そのあたりの論理と現実の整合性についてちょっと詳しく考えてみたくなった。また、マスコミが麻生氏の曖昧さを批判する論調と僕の感じ方がちょっとニュアンスに違いがあるのも感じる。このあたりのことも、内田さんの主張をヒントに、そこにある違和感を説明できるのではないかとも感じている。

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# by ksyuumei | 2008-09-27 11:51 | 内田樹

麻生新総裁誕生の評価について 3

毎日新聞の社説では、その表題に「理念も政策もなき勝利」と書かれているように、総裁選に対する評価はかなり明確に出ているものと思われる。冒頭にも次のように書かれている。


「内閣支持率低迷が続き、福田氏は自ら衆院を解散して総選挙に臨む自信がなかった。そこで総裁選をにぎやかに実施して国民の関心を自民党に引きつけ、その勢いで総選挙に突入する--。再三指摘してきたように、総裁選はこんな演出を意識したものだった。

 だが、福田氏や自民党が期待したように「わくわくする総裁選」だったろうか。そうは思えない。」


これは、もしも「わくわくする総裁選」だったら、そこには国民を引きつける魅力ある要素があるはずで、それこそが理念や政策に通じるものだという論理的な展開があるのだと思われる。理念や政策が明確に語られなければ、今まで利権を握っていた人物の不透明な私益は改革されずに残るだろう。そうであれば、その利権に関係ない人々はどうして「わくわくする」ことなど出来るだろう。

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# by ksyuumei | 2008-09-26 09:57 | 政治

麻生新総裁誕生の評価について 2

朝日新聞の社説では、麻生新総裁誕生についての評価は、慎重に断定を避ける言い方をしているように見える。「耐用年数が過ぎたか」というふうに疑問文の形で語っている。これは反語的に、「耐用年数は過ぎた」のだという断定的な評価だと受け取った方がいいのだと思うが、反語的なレトリックを使うことによって、ベタに受け取る人は「どっちなのだろう」と迷うかもしれない。朝日新聞の基本的姿勢からいえば、もはや「耐用年数は過ぎた」のだと判断してもいいと思うのだが、ちょっと中途半端な言い方のように聞こえる。

本文の内容では、「自民党は政権政党としてもはや耐用年数を過ぎたのではないか。そんな批判が説得力を持って語られている」と書いている。説得力があるという判断をしているのだから、もう自民党ではだめだと言い切ってもいいのではないかと思われるのだが、中立の立場を守らなければならないということなのだろうか、そういう言い方をしていない。

過去に対する認識については


「官僚との癒着、税金の巨額の無駄遣い、信じられない年金管理のずさん、薬害エイズや肝炎の隠蔽(いんぺい)……。効率的で有能と思われてきた日本の行財政システムが機能不全を起こしたかのように、不祥事が止まらなくなっている。

 国土を開発し、豊かな生活を育むはずだった公共事業は、いまや800兆円の借金となって国民の肩にのしかかる。人口が減り、経済はいずれ縮小に転じるかもしれない。そのなかで格差を縮め、世代間の公平を保ちつつ豊かで平和な暮らしを守ることが本当にできるのか。」


という文章から伺えば、日本をこのようにどうしようもなくガタガタにしたのは自民党政治の責任だと主張しているように見える。だから当然のことながら、このような自民党にはもはや政権担当能力はないと判断しても良さそうなのだが、「自民党に政権を託し続けていいのだろうか」という問いかけをするだけでやはり断定的には語らない。左翼的立場を自他共に認めるのならば、ここはきっぱりと断定するべきだと思うのだが、基本的にはポピュリズムに従い、左翼的言説が人気があるときはそのように振る舞うというだけなのだろうか。

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# by ksyuumei | 2008-09-25 10:14 | 政治

麻生新総裁誕生の評価について 1

自民党総裁に麻生氏が選ばれて、新聞各紙はそのことについての社説を書いている。出来レースと言われ、総選挙用のパフォーマンスに過ぎないと言われていたこの総裁選だが、予想以上の大差で麻生氏が勝ったことによって、その出来レースぶりとパフォーマンスだけの内容があからさまに分かるようになってしまった感じがする。

そのせいかもしれないが、各紙の社説では「こうあるべき」というべき論と、「こうして欲しい」という願望を語る論調が多かった。この二つは確かに大切な要素ではあるが、主張としてはリスクの少ない平凡な一般論ではないかと思う。「べき論」は、その政策を具体的に語り、民主党との違いを明確にすべきというものが多いが、これは誰が考えても「そうすべき」と言える内容であまり目新しいものはない。願望にしても、べき論で「そうすべき」だということを実現して欲しいという語り方が多い。

誰もがそう考えることを主張するのであれば、そこに間違いが入り込むリスクは少ない。そして、現実がその願望通りにならないときは、そのような主張をした方に間違いがあるのではなく、希望を実現しなかった方が非難される。論説による主張としてこれほど安全なものはないだろう。それに対して、この麻生総裁誕生を評価するという主張になると、その評価は今後の動向によって正しいか間違っているかが判断される。間違った評価をすれば、主張としては批判されるリスクがあるだろう。だが論説をリードする立場の新聞の社説では、あえてこのリスクを冒すべきだろう。そのような評価を語っている部分を社説の中から探し出し、その評価の論理的正当性というものを考えてみたいと思う。

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# by ksyuumei | 2008-09-24 09:28 | 政治

デカルトの偉大さ

ウィトゲンシュタインが考えたような命題の集まりである世界の全体が、どのようにして広がっていくかという過程を考察しようとして哲学史を調べている。哲学に革命的な進歩をもたらした発想は、ほとんどの場合それまで自明だと思われていたことを疑い、世界像というものを新たに作り直すことによって哲学というものを革新しているように見える。

特に、方法的懐疑というものによってすべてのものを疑い、確実な真理を求めたデカルトに関心を持って調べている。調べているいくつかの哲学史の書物の中で、入門書的な『初めての哲学史』(竹田青嗣・西研:編、有斐閣アルマ)という本の中にちょっと気になる記述があった。板倉聖宣さんは、良い入門書は根源的な問題について書いてあるので、専門書のような細かい記述を求めるのでなければ、その分野の最も大切な本質が学べるようなものが入門書の中にこそあると語っていた。内田樹さんも、入門書の中にこそ誰も扱わないような、しかも誰もが疑問に思うような大きな問題が語られているといっていた。

竹田さんと西さんのこの入門書も、板倉さんや内田さんが語る良い入門書の性格を持っているもののように感じた。これは単に、専門的な細かい知識を、ちょっと薄めて分かりやすく並べただけの入門書ではないように感じる。ここには、哲学というものに潜む根源的な問いが込められているように感じた。そこでデカルトに関する記述についてもちょっと気になるようなものが目についたというわけだ。

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# by ksyuumei | 2008-09-21 11:46 | 哲学一般