私たちを幽閉している檻としての言語

内田樹さんが『こんな日本で良かったね』で語る次のテーマは「言葉の力」というものだ。ここにはどのような構造が語られているのか。それはこのエントリーの表題にした「檻」で比喩されるような構造だ。「言葉の力」のイメージが、どのようにして「檻」という構造を見せてくれるのだろうか。

まずは、「言葉の力」という言葉に秘められた様々の意味を考えてみよう。内田さんは、これを学習指導要領の基本理念として提出されていることからまず話を始めている。「言葉の力」こそが「学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方」とされている。これは、国際学力調査の結果として、日本の子供の学力の「二極化」が問題にされたことから、学力の低下をもたらした原因として「言葉の力」が不足しているという発想がされたようだ。

特に低下した学力は、読解力と記述式問題で、この学力調査の結果は非常に悪かったようだ。この問題を解決するために、「言葉や体験などの学習や生活の基礎作りを重視する「言葉の力」をすべての教育活動の基本に置くことになった」という。このことから想像される「言葉の力」の内容は、単に言葉を記憶して、その記憶が正確に早く引き出せるということではない方向を目指しているように感じる。言葉としての記憶ではなく、その言葉が実際の自分の体験や感じ方に基礎を持ち、自分の体の一部のように使えるようになるということが、「言葉の力」を身につけたということになる、という考え方のように思う。そうなれば、読解や記述も自信を持って出来そうだというような予想も立つ。

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# by ksyuumei | 2008-11-28 09:12 | 内田樹

言葉と思考の関係

内田樹さんの『こんな日本で良かったね』で語られる最初の文章は「「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める」と題されている。これは、まえがきにあったように「人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である」ということを前提とすれば、きわめて論理的な帰結だと感じられる。

内田さんは、「「言いたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている」という指摘をしている。表現の前に、何か表現したいものが自分の中にあったという感覚があるというのが、普通に教育現場で考えられていることだという指摘だろう。しかしこれは錯覚であって、正しくは次のようなものとして理解されると内田さんは語る。


「先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的な不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。」


自分が表現したかったことは、実は言葉に出してみて初めて自分にも分かる、という感覚は僕にも実感として感じられることがしばしばある。だからここで内田さんが語ることは、経験的に実感として正しいように感じられる。だが、理論的には何か違和感も感じる。それはどのようなところだろうか。

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# by ksyuumei | 2008-11-27 00:43 | 内田樹

構造主義における「構造」のイメージ

若いときに初めて接した「構造主義」は、そこに何が書いてあるのかがよく分からないものだった。日本語としての意味は読み取れるものの、その文章が全体として何を言いたいのかが読み取れないという、何かもやもやとした気分が晴れなかった。このような思いは、複雑で難しい対象を説明した文章に接したときに、誰もが抱く感覚ではないかと思う。そのようなもやもやした分からなさを解消するための鍵はどこに見出したらいいだろうか。

僕が若い頃に接した文章は、正しいかもしれないが分かりにくいものだったように感じる。それに対して、初めて構造主義が分かったと思わせてくれた内田樹さんの文章は、曖昧で正確さを欠いているかもしれないが非常に分かりやすいと思ったものだった。それは、内田さんが『寝ながら学べる構造主義』のまえがきで語っている次のようなものが関係しているのではないかと感じている。


「思想史を記述する場合、ある哲学上の概念を一義的に定義しないと話が先へ進まないということはありません。「主体」や「他者」や「欲望」といったような基本的な概念については、その定義について学会内部的な合意形成が出来ているわけではありません。ですから、「『他者』とはこれこれこういうものである」「何を言うか、『他者』とはこれこれのものである」というような教条的な議論につきあっているのは時間の浪費です。
「『他者』といったら、まあ『他の人』だわな」くらいの緩やかな了解にとどめておいて、とりあえず話を先へ進めたいと私は考えております。
 私が目指しているのは、「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしの良い思想史的展望を示す、ということです。」


学問的に正確な言い方をすれば、それは正しいかもしれないが、そのことの理解の前提になるような知識を持たない人にとっては全く分からない、それがたぶん日本語で語っているものだろうくらいのことしか分からないものになるだろう。曖昧で正確さを欠くかもしれないが、内田さんのようにとりあえず普通の意味で分かるような意味で解釈しておいて、「「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしの良い思想史的展望を示す」ような語り方こそが本当に分かりやすい言い方になるのではないかと思う。

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# by ksyuumei | 2008-11-26 16:03 | 構造主義

命題論理の形式システムLPの公理の独立性

命題論理LPの公理系は次の3つが立てられていた。

公理
1 A→(B→A)
2 (A→(B→C))→((A→B)→(A→C))
3 (~B→~A)→(A→B)

これに次の推論規則

mp AとA→Bが成立しているとき、Bの成立をいうことが出来る。

を使って命題を生成するシステムがLPということになる。このLPにおいて3つの公理が独立しているというのは、それぞれが他の2つの公理から、公理のA,B,Cの命題の置き換えとmpという推論規則の両方を使っては、決して生成できないものになっているということを意味する。これは、この公理系の無矛盾性と完全性が証明されていることと合わせて考えれば、この3つの公理が必要最小限のものになっているということを意味する。

この独立性の証明は、きわめて構造というもののとらえ方にかかわっているもののように感じる。この生成システムは、どんなにがんばって生成をし続けても、2つの公理と推論規則からでは、もう一つの公理を生成することが出来ない。しかし、それが現実の計算において出来ていないからといって、システム全体として未来永劫にそれが出来ないと結論することが出来ない。今は出来ないけれど、あるとき偶然に出来るかもしれないという可能性は、ただ計算をしてみるだけ(文字列を生成し続けるだけ)では結論できないからだ。規則に従って文字列を生成するだけでは、現実にはそれが生成できないという否定が正しいという結論を導くことが出来ない。

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# by ksyuumei | 2008-11-21 23:32 | 論理

命題論理の公理系の構造

『現代論理学』(安井邦夫・著、世界思想社)という本に、LPと名付けられた命題論理の公理系が紹介されている。この公理系は、3つの公理と1つの推論規則から構成されている。とてもシンプルなものである。論理記号としては「否定」と仮言命題を示す「ならば」に当たる2つだけが使われている。これは、「かつ」と「または」を表す論理記号は、この二つによって表現できるので、その構成を出来る限りシンプルにするという目的の下に、この2つに限って使われている。「否定」を「~」で、「ならば」を「→」で表現して、3つの公理を表現すれば次のようなものになる。

公理
1 A→(B→A)
2 (A→(B→C))→((A→B)→(A→C))
3 (~B→~A)→(A→B)

これらの公理の意味を解釈すれば次のようになる。

1 Aという仮定の下に、Bという仮定を立てれば、そのときにAが成立することが前提とされているので、Bの前提を立てたときもAが成立することが帰結される。つまり、あることが常に成立するということが確かめられているときは、そのことはどんな前提をおこうともやはり成り立つということが言える。

2 Aという仮定の下に「BならばC」という命題が成立するということを前提とする。つまり、Aが成立するときに、Bの成立を確認出来れば、Cという出来事の成立を実際に確かめることなく、論理的にCの成立をいうことが出来るというのが前提になる。この前提があるときに、「AならばB」ということが確認出来ると、Aの成立が前提されているので、ここからBが成立することも帰結される。そうすると、前提ではBが成立すれば必ずCも成立することになっているので、このときAの仮定の下でもCが成立する。つまり「AならばB」という仮言命題も成立する。これを主張するのが2の公理となっている。

3 これは対偶の法則を表している。「Bでない、ならば、Aでない」が成立しているとき、Aの成立を仮定する。そのとき「Bでない」になってしまうと、そこから「Aでない」が帰結してしまうので矛盾となる。そこで、この前提の下では「Bでない」ではない、ということになる。すなわちBが成立するので、「AならばB」という仮言命題の成立が主張できる。

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# by ksyuumei | 2008-11-20 10:09 | 論理

形式システムは自らの構造を把握できるか?

このところ「構造」という概念についてあれこれ考えている。これは、その把握が難しいと感じていることがあるのだが、「構造」の把握が物事の理解を深めるのに非常に重要ではないかとも感じるからだ。社会的な出来事の意味を理解したり、現状がどのような状況であるのかを正しく評価したりするのにも「構造」の把握は役立つだろう。そして僕が携わる教育においても、「構造」の理解を前提にした対象の理解を図ることによって、その対象の持つ本質を捉えることが伝えられるのではないかとも思える。

日本の教育においてはそこで教えられていることは、問題の解答を得るためのアルゴリズムを記憶することにあるように見える。これは外国においても、旧社会主義国などは暗記教育が主だったと言われていたので、試行錯誤によって思考の展開の仕方を教育するよりも効率的な教育が行えたからではないかとも感じる。つまり、人間の活動を形式システムが行うようなやり方をすることを覚えることにする教育は、努力した分だけ身につくし、解答がある問題に対してはその解答を見つけるという点では効果的だと思われる。

しかし、これはあくまでも解答がある問題の解答を見つけるということで効率的であり役に立つということなのだろうと思う。もしそこで考えている事柄に、形式システムとしては解答が出せないとしたら、暗記した知識では解答が得られないことになる。それでも何らかの実践が必要であるなら、どちらかに決められない曖昧な判断をとりあえず決定して何かをしなければならなくなるだろう。解答のある問題に対しては、必ず正しい判断をしていた形式システムは、このような試行錯誤においては間違える可能性が生じてしまう。

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# by ksyuumei | 2008-11-18 09:42 | 論理

麻生内閣の経済政策は世紀の愚策か?

麻生内閣が発足した頃にマル激では、その経済政策に対して「世紀の愚策」というような表現を使っていた。これは神保哲生氏が紹介していたもので、霞ヶ関の埋蔵金を探し当てたといわれている高橋洋一さんがそう呼んでいたということだ。

高橋さんによれば、経済政策の効果としては、為替の変動相場制の下では財政出動よりも金融政策の方が効果的であるということが経済学では常識となっているということだった。景気の浮揚のためには、金をばらまくよりも金融政策の方が重要だということだった。その金融政策が補正予算案には盛り込まれていなかったので、景気浮揚のための政策としてはほとんど役に立たないという評価から「世紀の愚策」という言い方をしていたようだ。

補正予算の段階でも「世紀の愚策」と呼ばれていたものが、今回の金融危機に対する経済政策ではさらにばらまき度が増したような提案がなされているようだ。特に批判されているのは給付金という形でばらまかれる2兆円の金についてだ。これについては、他の面で麻生内閣の政策をプラスに評価しているように見える新聞の社説でも、ほとんどすべての社説で疑問を投げかけられている。給付金は、国民が個人としては助かるかもしれないが、それが経済的な面での影響をどの程度与えるかといえば、ほとんど期待が出来ないというのがその評価のようだ。このことは、政策の提出者である麻生内閣の方でも分かっているのではないかと思われるのに、どうして「世紀の愚策」といわれるものが提案されてしまうのか。このことの合理的(論理的)な理解を考えてみたいと思う。

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# by ksyuumei | 2008-11-03 11:05 | 政治

主張の正当性がなぜ報道されないのか?

久しぶりに論理的な観点から見て面白そうなニュースを目にした。「修正協議、自・民の溝埋まらず=農林中金の扱い焦点-金融強化法案」というものだ。このニュースは、それ自体は何でもない平凡なもののように見える。自民党と民主党が国会の議論において対立しているということを知らせるものだ。政権を巡って争っているこの2党が対立しているということはごく当然のことで、その対立の一つとして「金融強化法案」というものがあるというのがニュースに値するということなのだろう。

このニュースを見ていると、事実の報道はされているのだけれど、そこに論理性がかかわってくる問題については一切報道されていないのを感じる。事実としては「農林中央金庫と新銀行東京の取り扱いで、民主党はいずれの金融機関も資本注入の対象としていることに反対し、修正を要求。自民党は「特定の金融機関を対象外にはできない」と拒否し、合意のめどは立っていない」ということだ。事実はこの通りなのだろうが、それではどちらの主張が論理的に見て正当性があるのかという判断をしようとしたとき、このニュースでは全くその判断が出来ない。

双方がそれぞれ主張していることは、立場の違いなどから来る前提が違ってきているはずだ。そして、その前提を設ければ、論理的にはそのような結論が出てくるというものになっているだろう。もし、前提にかかわらず、「そうしたいからするのだ」という主張だったら、それは単なるエゴであり、そのようなものの公共性を誰も感じないだろう。だから、もし主張がそのようなエゴであるならば誰もその主張を支持しないだろうと思われる。

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# by ksyuumei | 2008-11-01 10:49 | 報道

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 3

「形式システムの文字列を自然数によって表現すること 2」においてMIUシステムと呼ばれる形式システムの文字列に数字を対応させて、システムの文字列の記述を算術的な計算に翻訳することを考えた。文字列の書き換えという思考の展開を数字の書き換えに置き換え、さらにその数字の書き換えが計算として記述できるということを見てきた。

これは形式システムの構造を自然数論の算術の中に写像したものになる。自然数論は非常に強力な記述能力を持っているので、システムの構造を写像することによって、そのシステム自体に言及するようなメタ数学的な命題も、自然数論の算術的命題として記述できる。つまり、算術的命題は、それがある計算を表しているという点で算術的な面を持つと同時に、その計算を解釈することによって、システム自体への言及の意味を読み取ることが出来る。

かけ算や足し算をしたりするのは算術的な計算だが、その計算がある規則に従ったものであることが分かると、それは規則に従った導出をしていると解釈され、その計算の結果得られた数字に対応する形式システムの文字列は、その形式システムでの定理であると判断される。その文字列が定理であるという判断は、形式システムの文字列の生成を語るものではなく、形式システムの全体を捉えた性質に対する言及になる。つまり、この計算はメタ的な意味を持つものとして解釈される。

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# by ksyuumei | 2008-10-31 09:17 | 論理

図と地という視点

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本では、図と地に関する一章が設けられている。図というのは、絵画的表現で言えば、表現したい中心になるようなもので「積極的な部分」と書かれている。その表現を見たときに、目立つものとしてすぐ目に入ってくる部分というようなイメージだろうか。それに対して地の方は、その目立つ部分を支える背景に当たる部分になる。この本では「消極的な部分」と呼ばれている。これが目立つようでは図の表現がかすんでしまうから、確かに消極的でなければならないだろう。

この図と地という二つの概念は,ゲーデルの定理を理解するための比喩として語られているように思う。ゲーデルの定理では「証明可能ではない」という考え方が証明の中心をなす。しかし、形式システムでその性質が目立って我々に見えてくるのは「証明可能である」という方だ。つまり「証明可能性」の方が図であって、「証明不可能性」は、その図が見えた後に背景として浮かんでくる地の方だと考えられる。

図の方は目立つので直接捉えることが容易だ。「証明可能性」の方は、出発点である公理から正しい導出法則を適用してあれば、それが「証明できる」ことを直接語ることが出来る。しかし、「証明できない」ということは、いくらやっても出来なかったという結果を示すだけでは「証明不可能性」を示したことにならない。どのような可能性を考えても「証明が出来ない」ということを示さなければならない。

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# by ksyuumei | 2008-10-29 10:02 | 論理