田母神論文の論理的考察 3

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」の中の次の「判断」を示す文章として以下のものを考察しよう。


「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」


この文章も、「判断」を示す「で」「ある」という言葉が使われている。この主張においては、「被害者」という言葉をどう解釈するかが問題になる。僕はこの言葉に込められた意味を、「主体的な選択をしたのではない」「そうせざるを得なかった」というニュアンスで受け取る。そうすると、この言葉からは「戦争の結果における日本の責任は大部分は免除される」という結論が導かれるのではないかと思っている。犯罪における「被害者」の位置づけもそのようになっているのではないだろうか。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-13 11:14 | 論理

田母神論文の論理的考察 2

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」の中から「判断」を直接語っているように読める部分を探し出し、その「判断」が導かれる過程の論理展開を考えてみようかと思う。まず最初の考察の対象となるのは次の文章だ。


「現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。」


この文章が「判断」を語っていると解釈したのは、文章の終わりに「で」「ある」という「肯定判断」を示す助動詞が使われているからだ。これは「判断」を直接言葉によって表現している。文脈から、何らかの「判断」をしていると解釈できるのではなく、「判断」そのものが直接表現されていると考えられる。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-12 10:16 | 論理

田母神論文の論理的考察 1

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」を論理的に考察してみようかと思う。田母神氏が展開している文章を、「事実」と「判断」と「意見(主観の表現)」とに分けて、「判断」に当たる部分の論理性を考えてみようとするものだ。

宮台真司氏によれば、田母神論文の問題点は、防衛省航空幕僚長空将という立場にいる人間が、公的に発した発言が、政府の公的な見解と異なっているところに本質があるという。もし言論の自由ということで意見表明をしたいのなら、その立場を離れて自由な私人として主張すべきだというのが宮台氏の評価だった。あのような意見を表明したいのなら、防衛省航空幕僚長空将をやめてからやってください、というのが宮台氏が語っていたことだった。それがシビリアンコントロールからの見解だという。これはもっともなことだと僕も思う。

宮台氏によれば、田母神論文の問題は、論文の中身の問題ではなく、このようなそれが発表された状況の問題だという。だが、僕はこの論文の中身もちょっと考えてみたい気がしている。それは、「朝まで生テレビ」でこの論文について議論したところ、放送終了後のアンケートでは60%ぐらいの人がこの論文に共感していたという結果が出ていたということをどこかで見たからだ。この共感の多さと、論文の中身との関係について考えてみたいと思った。この共感の多くは心情的なものであり、論理的なものではないだろうと僕は感じる。つまり、論理的に正しいからそれに共感するというものではなく、心情的にそれを好む傾向が日本人の中にあるということの現れだと思う。それは僕自身の中にもあるものかもしれない。この心情を論理によって理解したいと思う。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-11 10:15 | 論理

親族の親疎が持つ群構造

レヴィ・ストロースが発見した人類学における群構造は、婚姻の規則におけるそれが有名だが、『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)にはもう一つの群構造が紹介されている。そのこと自体は内田樹さんの著書でも何回も紹介されているので、そのような事実が観察できるということの知識としては以前から知っていたものだ。それは、親族の間の親密な関係と疎遠な関係の対に関するもので、次のように記述されていた。

1 夫婦の間が親密 ←(対立)→ 妻の兄弟の間が疎遠
2 夫婦の間が疎遠 ←(対立)→ 妻の兄弟の間が親密
3 父子(息子)の間が親密 ←(対立)→(母方の)叔父甥の間が疎遠
4 父子(息子)の間が疎遠 ←(対立)→(母方の)叔父甥の間が親密

この現象の間に群の構造を発見するのは非常に難しいと思われる。婚姻のタイプであれば、それは世代が変わることによって変化し「変換」としての面を見ることが出来る。そうすれば「変換」というものが持つ群構造を予測して、そこに群を発見できそうに思われる。しかし、上の親疎の関係は「変換」につながっているように思われない。ここに群の構造を見ることが出来ても、それが何を意味し、どのような必然性を語るかということがよく分からない。それを考えてみたいと思う。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-10 10:20 | 構造主義

親族の構造が群構造として抽象される過程

楽天に次のようなエントリーをアップした。


「レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解」「クラインの四元群と親族の構造」(ライブドアブログ)、「レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解」「クラインの四元群と親族の構造」(はてなダイアリー)というエントリーで、親族の構造に関する婚姻規則についての数学的な考察を行った。ここでは数学的な群の説明に言葉を尽くし、議論の展開がきわめて数学的になった。群についてよく知らない人には分かりにくかったものと思う。

そこで説明したものを、数学的な言葉を使わずに、ある意味では文学的にそのエッセンスを感じられるような説明を考えてみたいと思う。数学的な概念を数式を使わずに正確に伝えることは出来ないが、そのイメージの本質というものが伝えられるように努力したいと思う。

レヴィ・ストロースが婚姻の規則の中に群の構造を見出したのは、そこに群が抽象されていく過程と同じものを見ていたのではないかという気がしている。だからそのイメージのエッセンスは、具体的な現象として目の前に現れている婚姻の習慣というものが、珍しい・面白いと思われる現実の様々な属性をはぎ落とされて、それが抽象的な考察の対象になるところに見えてくるのではないかと思われる。その抽象の過程が群の抽象過程と重なるところに、婚姻規則が群としての構造を持っているという発見につながるのではないだろうか。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-09 10:11 | 楽天

クラインの四元群と親族の構造

クラインの四元群というのは、元を4つしか持たない集合が満足する群構造を指す。群構造というのは、代数的な計算の構造を言い、任意の2つの要素を1つの要素に結びつける計算の構造を持つ集合を群と呼んでいる。具体的には、かけ算や足し算が持つような構造を抽象したものとしてイメージされる。

整数の足し算でイメージをすると、まずはその演算(足し算)が、整数の集合の中では閉じている、つまり答えがまた整数の中で見つかるということが必要になる。これは、どんな整数を具体的にとってきても、その足し算の答えがまた整数になっていることから確かめられるだろう。この閉じた演算に対して、次のようなことが言えるなら、整数の集合は足し算について群をなしていると言える。


1 任意の3つの整数a,b,cが結合律を満たす。
   (a+b)+c=a+(b+c)

2 単位元(足し算をしても値が変わらない)が存在する。整数の場合は0が単位元になる。
    a+0=0+a=a

3 逆元(足し算の結果が単位元0になるようなもの)が存在する。整数の場合は、正負を逆にした数が逆元になる。
    a+(-a)=(-a)+a=0


整数の足し算に限らず、このような演算規則が成立するものを群として抽象的に捉えて、群であれば成立するような数学的な法則性を求めることが群構造の考察ということになる。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-07 23:50 | 構造主義

レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解

レヴィ・ストロースが、オーストラリアの未開族であるカリエラ族における親族関係の中に群構造を見出したのはよく知られている。婚姻の規則の中に、クラインの四元群と同じ構造があることを見出した。このことについて、今までの僕の感覚では、それまで誰も気づかなかった隠された構造(仕組み)を発見したことにレヴィ・ストロースの偉大さがあったと感じていた。

しかしこのような理解は、ある意味では複雑で難しいパズルの答えを見出したことの頭の良さに恐れ入ったというような感覚だったようにも思う。レヴィ・ストロースの天才性に偉大さを感じていただけであって、その内容(構造を見出したということの意味・意義)の偉大さを理解していたのではなかったような気がする。

つい最近手に入れた『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)という本の中に、「構造」の発見という構造主義の視点がいかにすごいものであるかということを教えてくれる文章を見つけた。レヴィ・ストロースの個人的なすごさというのは、「構造」というものの持つ思想史的な意味・意義(人間がどれほど物事を深く広く押さえられるかという思考の発展の持つ意味・意義)の大きさから感じられるものだということが分かるようになった。レヴィ・ストロースは有名だからすごいと感じるのではなく、このようなすばらしい思考の過程を教えてくれるからすごいのだと思えるようになった。それがうまく伝われば嬉しいと思う。

さて、おおざっぱに構造発見のすごさを語ると、人間が現実の観察から得られるような現象的な記述というものをそれだけをベタに受け取るのではなく、構造というものがそこに存在してそれが必然性を教えるということを考えると、世界の仕組みが分かったというような気がしてくる。それがすごいことだと僕は思う。偶然そうなっていることを発見して、「ああ珍しいこともあるものだなあ」と思ったり、「面白いな」と感想を抱くだけではなく、その現象が、ある意味では当たり前の現象として現実に発見できることの、根源的な理由を構造が教えるというような発想を見出したことがすごいと思った。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-07 16:07 | 構造主義

楽天ブログに書いたこと

楽天ブログに書いたことをここにも転載しておく。


構造の把握の仕方


「数学屋のメガネ(ライブドアブログ)」「数学屋のメガネ(はてなダイアリー)」「数学屋のメガネ(エキサイトブログ)」という3つのブログで、同じ表題の「構造の把握の仕方」というエントリーをアップした。いずれも内容は同じで、一筆書きの数学を考察することで、「構造」というもののとらえ方を考えたものだ。

上のエントリーの文章は、きわめて理科系的なもので理詰めで展開していっているものになっている。それを、この楽天では、努力して文系的な随筆風に出来ないものかということを試みてみようかと思う。語る対象も、一筆書きの数学というような、がちがちの理系的なものではなく、日常ありふれたところに題材を見つけて、「構造」が見えてくるものを探してみようと思う。ただ、上のエントリーで考察した方法論だけは踏襲して、考察だけは具体的な方向を目指してみようと思う。

まずは、方法論として結果だけをあげておくと次のようなものになる。


1 対象の限定(集合的に制限が出来る)
2 対象を抽象化して有限のものにする。
3 抽象化した対象の具体的な結びつきを捨てて、それぞれが独立した対象になるような抽象の仕方をする。
4 独立した対象の間に対応関係(関数)を設定し、それを「構造」と呼ぶ。


現実のありふれたものを対象にして、この方法で「構造」を見出すことが出来るかどうか考えてみたい。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-03 09:39 | 楽天

構造の把握の仕方

構造というのは、対象の全体性を把握しなければそれが見えてこない。対象の一部をどれほど細かく観察しても、そこから全体を引き出すことが出来ない。そこで考えられている全体は、まだ観察していない部分を想像している、仮説的な思考になってしまうだろう。その意味で、構造の把握はいつでも思い込みから来る間違いを含んでいる。

数学的な構造は、その思い込みからの間違いが排除できる唯一の構造だ。それは、数学的対象が、現実に存在しているものではないということから来ている。現実に存在しているものは、我々にその一面しか見せていない。必ず観察から漏れる面がある。それはたいていは末梢的なものとして捨象されるのだが、時にそれが論理的判断に重要な位置を占めることがある。そのような漏れがあった部分は、後に理論の間違いを決定づけるものになるだろう。

数学においては、見えない面を最初から意図的に排除するような抽象の仕方をする。それは排除されてしまったので、後の観察で、見落としに気づくというものではなくなる。羽仁進さんのエピソードで、馬が1頭ずつ2つの方向から現れたとき、馬は何頭になるか、という問いを子供の時に考えたというものがあった。羽仁さんは動物が好きで、馬という動物がとても気持ちの繊細な動物だと思っていた。気が合わない相手と一緒にいるのが難しいので、1頭ずつよってきても、必ずしも2頭になるとは限らず、1頭がどこかに行ってしまうかもしれないし、2頭ともいなくなってしまうかもしれないということを想像していた。この想像はとても人間的で文学的(芸術的)にはすばらしい。しかし数学的には間違いだ。数学は、このような具体性をすべて捨象して、しかも捨象した具体性を後の観察でもう一度引き入れることをしない。「1+1」は、普通の意味で抽象された場合(10進法というよく知られた数の記法の上での計算ということ)、誰が考えても「2」になるというのが数学の抽象になる。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-12-02 10:00 | 方法論

麻生 VS 小沢 の党首討論の評価

28日に行われた党首討論について、マル激の中で宮台真司氏が「小沢さんの完全な一人勝ち」というような評価をしていた。各新聞の社説を見ると、麻生さんの逃げを批判しているものがほとんどではあったが、小沢さんの完全な勝ちだと評価したものは少なかった。理屈としては小沢さんのほうが勝ったが、小沢さんにも批判されるべき点があるという論調が多かった。

党首討論は、「討論」と呼ばれている以上、論理的側面が最重視されてその評価がされるべきだと思う。その意味では、小沢さんには論理的整合性があったが、麻生さんには論理的整合性がなく、むしろ矛盾した主張をご都合主義的に使い分けているところがあった。それは各新聞でも指摘されていたことだ。

論理的整合性という面でこの「討論」を評価するなら、宮台氏が語るように、小沢さんの完全な勝ちではないかと思う。しかし一般にはどのように映っただろうか。「どっちもどっちだ」「話が深められていない」というような評価が、ある新聞の社説でも語られていたが、そのように見る人が多かったりすると党首討論を避けたように見える小沢さんの判断が正しかったという感じがしてくる。

More
[PR]
# by ksyuumei | 2008-11-30 11:16 | 政治