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形式システムの文字列を自然数によって表現すること 3

「形式システムの文字列を自然数によって表現すること 2」においてMIUシステムと呼ばれる形式システムの文字列に数字を対応させて、システムの文字列の記述を算術的な計算に翻訳することを考えた。文字列の書き換えという思考の展開を数字の書き換えに置き換え、さらにその数字の書き換えが計算として記述できるということを見てきた。

これは形式システムの構造を自然数論の算術の中に写像したものになる。自然数論は非常に強力な記述能力を持っているので、システムの構造を写像することによって、そのシステム自体に言及するようなメタ数学的な命題も、自然数論の算術的命題として記述できる。つまり、算術的命題は、それがある計算を表しているという点で算術的な面を持つと同時に、その計算を解釈することによって、システム自体への言及の意味を読み取ることが出来る。

かけ算や足し算をしたりするのは算術的な計算だが、その計算がある規則に従ったものであることが分かると、それは規則に従った導出をしていると解釈され、その計算の結果得られた数字に対応する形式システムの文字列は、その形式システムでの定理であると判断される。その文字列が定理であるという判断は、形式システムの文字列の生成を語るものではなく、形式システムの全体を捉えた性質に対する言及になる。つまり、この計算はメタ的な意味を持つものとして解釈される。

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by ksyuumei | 2008-10-31 09:17 | 論理

図と地という視点

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本では、図と地に関する一章が設けられている。図というのは、絵画的表現で言えば、表現したい中心になるようなもので「積極的な部分」と書かれている。その表現を見たときに、目立つものとしてすぐ目に入ってくる部分というようなイメージだろうか。それに対して地の方は、その目立つ部分を支える背景に当たる部分になる。この本では「消極的な部分」と呼ばれている。これが目立つようでは図の表現がかすんでしまうから、確かに消極的でなければならないだろう。

この図と地という二つの概念は,ゲーデルの定理を理解するための比喩として語られているように思う。ゲーデルの定理では「証明可能ではない」という考え方が証明の中心をなす。しかし、形式システムでその性質が目立って我々に見えてくるのは「証明可能である」という方だ。つまり「証明可能性」の方が図であって、「証明不可能性」は、その図が見えた後に背景として浮かんでくる地の方だと考えられる。

図の方は目立つので直接捉えることが容易だ。「証明可能性」の方は、出発点である公理から正しい導出法則を適用してあれば、それが「証明できる」ことを直接語ることが出来る。しかし、「証明できない」ということは、いくらやっても出来なかったという結果を示すだけでは「証明不可能性」を示したことにならない。どのような可能性を考えても「証明が出来ない」ということを示さなければならない。

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by ksyuumei | 2008-10-29 10:02 | 論理

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 2

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』で解説されているMIUシステムについて、これを文字列ではなく数字で表現することの意味を考えてみたいと思う。これは、ゲーデルの証明におけるゲーデル数の表現の解説として受け取ることが出来る。形式システムとして文字列で表現されている自然数論を、数の間に成立する関係を文字列の表現にしてしまおうというアイデアの構造を理解するための解説として考えてみようと思う。文字列の解釈として、ある意味では自然言語での表現の意味に受け取れる自然数論を、数の間に成立する命題として解釈してしまおうというアイデアを直感的に理解するために、MIUシステムと自然数論の間に成立する同型写像を見てみよう。

さて、MIUシステムは次のように語られていた。


記号  M,I,U
公理  MI
規則
 1 xIが定理ならば、xIUは定理である。
 2 Mxが定理ならば、Mxxは定理である。
 3 任意の定理において、IIIはUで置き換えることが出来る。
 4 任意の定理において、UUは除くことが出来る。


このM,I,Uという3つのアルファベットで表現される文字列を、3つの異なる数字で表現して、数字の表現のシステムにおいても、MIUシステムが持つ構造が同じ形で反映されるように表現してみよう。M,I,Uの3つの異なるアルファベットに、3つの異なる数字を与えるのは、これは異なってさえいれば、つまり区別が出来れば何でもいい。これがゲーデル数に当たるものになる。

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by ksyuumei | 2008-10-27 10:24 | 論理

関数・写像の考え方とゲーデルの定理

『数学から超数学へ』(E.ナーゲル、J.R.ニューマン・著、白揚社)の第6章「写像とその応用」には、写像という考え方がゲーデルの定理の証明においてどのように役立っているか、それがいかに本質的な重要性を持っているかということが解説されている。それは次のように書かれている。


「写像の基本的特徴は、ある“対象”領域に含まれている関係の抽象的な構造が、他の“対象”(最初のものとは別な種類のものであるのが普通です)領域の間にも成立することを示す点にあります。ゲーデルがその証明を作り上げる際の刺激となったのは、まさに写像のこの特徴だったのです。もし形式化された算術体系についての複雑な超数学的言明が、ゲーデルの望んだように、この体系それ自体における算術的言明に翻訳(すなわち写像)出来るならば、超数学的証明の遂行を容易にするための重要な布石が完了したと言えます。」


写像というのは、学校数学でいえば「関数」というものと同じなのだが、「関数」が数の間の対応関係を主として語っているようなイメージだったのに対して、「写像」というのは数に限らず、対応一般をさらに抽象的に捉えようとする概念と考えればいいだろう。

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by ksyuumei | 2008-10-24 08:48 | 論理

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 1

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本には、MIUシステムと呼ばれる形式システムが紹介されている。これは3個の記号「M,I,U」と、文字列を並べる4つの規則が提示されているものだ。出発点となる公理は一つだけで、その文字列から書き換え規則によって得られる文字列がどのようになるかを考える。まとめておくと次のようになる。


記号  M,I,U
公理  MI
規則
 Ⅰ xIが定理ならば、xIUは定理である。
 Ⅱ Mxが定理ならば、Mxxは定理である。
 Ⅲ 任意の定理において、IIIはUで置き換えることが出来る。
 Ⅳ 任意の定理において、UUは除くことが出来る。


ここで「定理」と呼ばれているのは、上の規則によって書き換えが可能な文字列のことを呼んでいる。「公理」とは、前提なしに・無条件に「定理」とされる文字列で、これを出発点に規則によって書き換えが出来るものがこのシステムの「定理」となる。この本では、パズルとして「MU」が定理となるかどうかを考察せよという問題が提出されている。この問題に解答するには、もし「MU」が定理ならば、実際にそれを導く書き換えの文字列を構成することによって解決する。しかし、これが「定理」でなかった場合は、「いくらやっても出来なかった」ということを示すだけでは、それが「定理」ではないということを示したことにはならない。合理的な理由によって、それが決して「定理」にならない、すなわち上の書き換え規則では導出できないのだということを示さなければならない。

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by ksyuumei | 2008-10-20 10:24 | 論理

ブログ・エントリーのための覚え書き

気になっていながらも、判断するための材料が集まらずに、何となく変だなと思っている事柄がいくつかある。忘れないうちにこれらを記録しておこうと思う。材料が集まって、何らかの判断を引き出すことが出来そうになったら、エントリーとして展開してみようと思う。箇条書きにすると次のようなものだ。


1 ロス事件の被疑者だった三浦さんの再逮捕について
2 北朝鮮に対する「テロ支援国家指定解除」について
3 海上自衛隊員の暴行死に潜む日本社会の暗い一面
4 沖縄密約事件の秘密文書の非開示の意味
5 ウィトゲンシュタインによるラッセルのパラドックスの解決



これらに対してどんなことが気になっているかのメモも記録しておこう。その気になっていることの解答が得られそうなものを見つけたとき、もう一度そのことを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-10-17 08:56 | 雑文

自民党には出来ないだろうが民主党には出来るかもしれないという期待

「ブログ・エントリーのための覚え書き」で、民主党の政策に対する評価について、それが正当なのか間違っているのかという評価がしにくいということを記録しておいた。特に財源の問題について、反対する立場の自民党からは批判的な主張がでているものの、それは対立しているから当然といえば当然で、それが客観的に見ても正しい指摘なのかということが判らなかった。

財源については、上のエントリーのコメント欄でジョーさんという方が、いわゆる「埋蔵金」というものを使うことを考えているのではないかということを教えてくれた。それを語っている動画も紹介してくれていたので、それも見てみた。しかし、それを使うから財源が確保できる、と納得できるほど「埋蔵金」というものの実体はよく分からなかった。自民党は、それは自由に使える財源ではなく、いろいろな制約もあるのだという批判をしていたようにも思う。これも、それが正しいのかどうか判断するだけのデータがない。

この紹介してくれた動画にも出演していた高橋陽一さんが今回のマル激のゲストだった。ここでは民主党と関連させて「埋蔵金」の話も展開されていたので、ようやく「埋蔵金」というもののからくりが見えてきた。そして「埋蔵金」だけではなく、日本の予算の全体像というものの説明から、民主党の財源問題の評価を語っていた。それは、賛成や反対の立場からの、自分の立場に都合のいい事実の解釈からの評価ではなく、かなり客観的な評価をしているように見えた。そこから考えると、この財源問題は、自民党が「出来ない」「無理がある」と言っているのは、それは自民党では「出来ない」「無理だ」と主張しているように聞こえてくる。それが民主党に出来るかどうかというのは、まだやってみなければ判らないという段階だが、自民党では出来ないだろうが民主党ならまだ期待は出来る、というのが現段階での客観的な評価になるのではないだろうか。そういう意味では、政権選択というのは、少しでも可能性のある方に賭けてみるかどうかということが一番大事な問題になるのではないかと感じた。

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by ksyuumei | 2008-10-16 09:46 | 政治

「私は証明可能ではない」という命題

野矢茂樹さんは、『論理学』(東京大学出版会)という本の中で、ゲーデルの証明の核心となるアイデアを次のように書いている。


・「私は証明不可能だ」を表現する式を自然数論の中で表現する。


「私は証明不可能だ」、すなわち「私は証明可能ではない」という否定命題は、自然数論が対象にする命題ではない。自然数論は、自然数の間に成立する数学的関係を表現するもので、自然数に対する言明になっていなければならない。だから、この日本語表現のままでは、それは自然数について何か語ったことにはなっていない。この日本語表現が、ある種の数式を解釈したときに、そう解釈できるような数式を表現するということがゲーデルのアイデアの核心であると語っているのだろう。

この日本語表現をどのようにして自然数論の中に埋め込むかというのは、数理論理学を少し勉強しなければ判らないが、それは一応ゲーデルがやってくれているし、それがほとんどの数学者に認められているということは、そこには間違いがないという保証になる。というようなことを信じて、それが出来ているという前提で、この命題自身は、日本語表現としてそのまま意味を受け取って、言葉の意味を基礎にして、この命題がどのような論理の展開を見せてくれるかを考えてみようと思う。日常言語の意味の理解の範囲内で、この命題がどのような意義・意味を持っているかを考察してみたい。果たしてうまくいくだろうか。

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by ksyuumei | 2008-10-13 16:53 | 論理

数学的理解と数学論的理解

『不完全性定理』(林晋・八杉満利子:著、岩波文庫)の「まえがき」の冒頭に「ほとんど予備知識のない人が、入門書だけを読んで不完全性定理の数学的内容を理解することは不可能である」との宣言のような断定がある。そして「この定理を数学的にも理解したいならば、まず数理論理学を理解しなければならない」という言葉が続いている。これは全くその通りだと思う。

しかし、多くの人がそのエッセンスだけでも伝えようと努力をしている。そしてその初歩の論理学の入門のために多くのページを費やして説明しようとする『ゲーデル、エッシャー、バッハ』というような本がかつてベストセラーになっていたりする。この定理はそれだけ魅力あるものであり、人を惹きつけるものなのだろう。

数学的内容を理解することを「数学的理解」と名付けると、もう一つの理解として「数学論的理解」というようなものが考えられると、前掲の岩波文庫では語られている。これは、「数学的理解」というものが、それが認められた理論であるならば、ほぼ一致した見解で「正しい」と判断されるものと捉えられている。そして、その内容はさておいて、とりあえず「正しい」と判断しておいて、その上で数学全体にとってその理論がどのような意味を持っているかという、哲学的な考察をすることを「数学論的理解」と呼んでいるようだ。

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by ksyuumei | 2008-10-10 10:36 | 誤謬論

教育における誤謬論の重要性

二十歳前後の頃、数理論理学を勉強したことでようやく数学についての理解が出来るようになってきた。そのときに、論理学の一分野として弁証法というものにも関心を抱き、いくつかの入門書を読んでみたのだがさっぱり判らなかった。しかし三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)という本だけは弁証法について初めて分かるような説明をしていたと感じたものだ。「うまい説明」だと思った。

この本の弁証法についての説明も印象深いものとして残っているが、それと同じくらいに心に残っているのは「誤謬論」について語った部分だ。特に、後に教育に携わるようになってからは、教育においては「誤謬論」を考えることが、分かりやすい説明にとって重要だということを思うようになった。

三浦さんの誤謬論は、間違った考えというものが、内容的にどのように正しい考えと違っているかという比較をしただけのものではない。間違った考えが出てくる原因というものを、客観的な現実とそれを認識する人間の頭脳の働きとの両方にそれを求め、合理的に説明がつくような仕方で「なぜ間違えるのか」という「なぜ」を説明するものだった。それは、単に正しいものを言葉として暗記して正しさを獲得するのではなく、誤謬に至る過程を理解することで、「なぜそれが正しいのか」ということを理解するものだった。

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by ksyuumei | 2008-10-09 09:30 | 誤謬論