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汚染米問題に関する論理的な疑問

「<事故米転売>太田農相、事態軽視?「じたばた騒いでない」」という9月12日20時14分配信の毎日新聞の記事によれば、太田農水相は「「(汚染米から検出されたメタミドホスは)低濃度で、人体への影響はないと自信をもって言える。だから、あまりじたばた騒いでいない」と言ったそうだ。これは、太田農水相が言った言葉でなければ、たとえば農薬の専門家が解説したものであれば、ある意味で安心を与える言葉になっただろう。だが、これを太田農水相が言えば、それは結果的に影響がないのだから責任はないのだという、責任逃れの言葉にしか聞こえないだろう。

太田農水相がこのような発言をするというのは、政治家の責任というのをあまり自覚していないのだということを自らが語っているようなものになるだろう。農水省を監督するような立場にありながら、農水省が行ったミスを正しく追求できないことを伺わせるようなものだ。政治家としての資質を疑わざるを得ないと思う。このことから、以前の事務所費問題にしても、その責任の重さを自覚することは難しいのではないかと思われてしまうだろう。未だに説明責任を果たしていない。このようなことで話題になるよりも、まずは事務所費問題をきちんと説明することが大事だと思うのだが、それを国民も忘れずに注視していかなければならないだろう。

さて、汚染米問題は、食品会社が悪質であることはたくさんの報道からはほぼ明らかで、それを見抜けなかった農水省の責任も問われている。どこに最も重い責任があるかは、明らかにしなければならない問題であり、再発防止のためには重要だと思われる。だが、その責任の根幹にあるシステムの問題があまり報道されていないのに違和感と疑問を感じる。

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by ksyuumei | 2008-09-13 11:42 | 雑文

世界の存在とその認識

「世界」という言葉は非常に抽象的でありながら日常的にもよく使われる平凡な言葉だ。だがそれは高度に抽象的なので、それがどのような過程を経て具体的属性が捨象されているかに様々な違いが生じるだろう。ある人が考える「世界」と他の人が考える「世界」が概念において全く一致するということは少ないに違いない。自分が今考えている「世界」というものが、いったいどのようなものであるかを明確にするような表現がどの程度出来るだろうか。自分が考えている「世界」はどうやらこのようなものらしいということを表現してみることで、それに至る思考や論理が見えてくるようにならないだろうかと思う。

野矢茂樹さんのウィトゲンシュタインの解説を読んでいると、論理というものはそれについて直接語ることは出来ず、論理を使って思考したものを述べることによって示すことが出来るだけだという指摘がある。論理の正しさは論理によって説明することが出来ない。それは循環した説明になってしまう。論理的に正しいということは合理的に考えたことだと言える。だが、合理的な思考というのは論理に従った思考のことを指す。我々は論理の正しさをア・プリオリに認めなければならないのではないかとも思える。

かつての僕は、論理の正しさを何らかの現実との結びつきで語ることが出来ないだろうかということを考えていた。現実の存在の反映として、その存在構造が論理として捉えられるのだという考えだ。しかし、存在の多様性は、論理をそれと結びつけてしまうと、存在と無関係に成立するように見える命題論理の正しさが説明しきれない。野矢さんは、論理の正しさは言葉の使い方の正しさの判断だと語っている。しかしそれが何故正しいかは、言葉の使い方の正しさを、言葉で語るという自己言及的な循環したものがまた見えてくる。論理そのものの正しさはやはり語り得ないものになるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-09-11 10:20 | 論理

注目していた事柄のいくつかについて

山本一太氏が総裁選立候補を断念したというニュースがあった。残念なことだ。立候補に必要な20人の推薦人が集まらなかったという。以前に河野太郎氏が立候補を表明したときも20人の推薦人が集まらずに立候補そのものが出来なかった。そして、河野氏の時には、立候補が出来なかったことによってその主張をマスコミが取り上げることがなかった。

今回の山本氏の場合もその二の舞になるのではないかという可能性が高いので残念だ。自民党の総裁選が、単なるパフォーマンスではなく有意義な論戦を展開してくれるのではないかというわずかな期待が裏切られるのではないかという落胆を感じる。果たして他の候補だけで、現在懸案となっている本質的な問題が議論に上るだろうか。本質を論じれば、そこには利害の衝突が鮮明に現れる。そのような議論において、いろいろな立場から推薦された人間たちが、その立場を越えて本質を議論できるかどうかに疑問を感じてしまう。河野氏のように、はじめから特定の立場ではない、大きな観点から物事を発想する人間が議論に加わる必要があったのではないかと思う。

河野氏がブログで書いていたように、道路特定財源の一般化という問題がどのように総裁選の議論に登場するかに注目していこう。それが全く登場しないようであれば、そこに利害を持っている誰かの意向が、それを議論しない方向に働いたのだと解釈するしかないだろう。果たしてどうなるであろうか。

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by ksyuumei | 2008-09-09 10:00 | 雑文

自民党総裁選に立候補者が乱立する理由

民主党の代表選挙が小沢氏の対抗がなく、無投票で当選が決まりそうになったとき、マル激の中で宮台氏が元代表の前原氏に立候補を促したという話をしていた。それは形だけでも対立候補を出して民主主義の形態をとっているように見せるというパフォーマンスとしての立候補というものではなかった。民主党がどんな政党であるかを、有権者の前に明らかにするために、意見表明を広く知らしめる機会としてそれを利用すべきだという理由からのものだった。

宮台氏の提言は、前原氏個人の利益のためというものではなく、小沢氏の無投票当選で、民主党が具体的にどのような政策を持っている政党であるかが見えにくくなった時にこそ、それを明確に示すために強い主張を持っている人間が立候補すべきというものだった。それは、前原氏個人の主張が民主党の主張とイコールであるというわけではない。だが前原氏が強く主張することで、対立候補がその主張に答えなければならない義務が生じる。それを通じて民主党という政党が本来どのような政党であるかが明らかになることが重要なのだという考え方をしていたように感じた。長い目で見れば、それが民主党の利益になり、ひいては民主党で中心をしめる人間としての前原氏にとっても利益となるだろうという計算だ。

結果的には民主党の代表選は誰も小沢氏に対立する候補が出てこなかった。宮台氏はこれをたいへん残念なこととして捉えていたようだった。せめて小沢氏が代表として民主党がどのような政党であるかを明らかにするような分かりやすいマニフェストを出してくれることを願うだけだ。党内の融和を優先するあまり、はっきりしない曖昧な言葉遣いでマニフェストをまとめるようであれば、派閥に遠慮して明確な政策を打ち出せなかった福田内閣とどこが違うかという批判を浴びてしまうだろう。

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by ksyuumei | 2008-09-08 09:33 | 政治

比例代表選出の議員が離党した場合は議員辞職が当然だ

渡辺秀央、大江康弘両参院議員が離党届を提出し新党「改革クラブ」を結成したニュースが報じられたのは8月の終わり頃だったが、続報として議員辞職したというニュースは未だに報じられていない。これに対して、民主党の小沢一郎代表は1日の記者会見で「「比例票は党に投じられたものだ。党籍を失ったときに、その身分を失うのが論理的には当然だ」と述べ、渡辺氏らが党を除籍(除名)されれば議員辞職すべきだとの考えを示した」というニュースがあった。この「論理的には当然だ」という見解に僕は賛成する。

だが当の渡辺氏は「「民主党にはお世話になったし、私も民主党国会議員を生み出す役割を果たしてきた。けじめをつけるという県連の立場も分かる」と語ったが、議員辞職については「必要性がない」と否定した」そうだ。「論理的には当然だ」と思われることに反対し、「必要性がない」という判断をしている。これは果たして正しいのだろうか。ニュースでは、これ以上の説明が報じられていないので、「必要性がない」という根拠が語られていない。これは何か根拠づけることが出来るのだろうか。渡辺氏がこの根拠を語っていれば、それを批判あるいは評価することも出来るのだが、何も語っていないときはどう判断すべきだろうか。

一つには説明責任を果たしていないということで、説明していないこと自体が根拠がない恣意的な判断だと批判されても仕方がないと評価する立場がある。僕自身はそのような評価をしているのだが、議員辞職のことには触れずに、民主党が政府与党に反対する姿勢への疑問とともにこの離党を語って、かえって評価しているように見える論評もあったりする。民主党の反対の姿勢に抗議することと、比例代表選出の議員の離党とは、一方が評価されるからもう一方が許されるという関係にあるとは思えないのだが、もし渡辺氏が直接語っていない根拠が、このようなものにあるとすれば、それは論理的に考えてどう判断されるべきか、ちょっと考えてみたくなった。

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by ksyuumei | 2008-09-04 09:53 | 政治

福田首相辞任の理由

福田首相の辞任の理由はいろいろなレベルから考察することが出来る。その気持ちのレベルから言えば、「嫌になった」「意欲が無くなった」ということを理由に挙げることが出来るだろう。しかし、この理由で納得していたら、人間というのは気持ちしだいでどうにでも行動してしまうという前提を認めることにもなる。最終的な気持ちはこのようなものであったとしても、そのような気分に至る過程として、福田首相と同じ立場に立てば、大部分の人(日本人と言った方がいいだろうか)が同じような気持ちになるだろうなというような、客観的な理由が見つからないものだろうか。どのような出来事が意欲を失わせる作用を持ったのか、それが伺える報道を捜してみようかと思う。

宮台真司氏の社会学講座にもあったように、人間の行為の選択というのはどのような予期を持っているかということがその決定に大きな意味を持つ。この予期は科学的な法則性の認識に裏付けられていることもあるが、たいていは経験や習慣から「こうなるのではないか」という予期を抱くのではないかと思う。福田首相に起こった様々な出来事の中から、もうこれではやっていけないというような予期を生み出すような要素としてどのようなものがあるのか、納得できるような理由を捜してみよう。

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by ksyuumei | 2008-09-03 10:02 | 政治

「何故」を追い求める論理学

昨日、福田首相の突然の辞任発表があった。お昼のニュースでは、防災の日の大規模な訓練で指導者として活動する姿を見たばかりだったので、この突然の辞任劇とのつながりが整合的に理解できなかった。「辞任発表があった」という事実は、その記者会見などの映像で直接理解することが出来るものの、それが「何故なのか」という他の事実とのつながりが読めなかった。このつながりを見つけるには論理の助けがなければならないだろう。

何が原因で辞任という決断に至ったのか。いかなる理由があれば、辞任を決意したのも無理はないというような理解が出来るのか。辞任という事実と、それに先行する他の事実との論理的関連性というのは、事実を眺めていれば自然に発生してくるものではない。Bという事実が発生したとき、それに時間的に先行するAという事実がいつも原因になり理由になるというわけではない。「AならばB」という仮言命題が成立することが前提となって、先行するAという事実が起こることがBという事実が起こる必然性をもたらすという理解がされる。論理的な理解には「AならばB」という仮言命題の理解が必要になる。

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by ksyuumei | 2008-09-02 10:01 | 論理