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麻生さんの所信表明演説 1

麻生さんの所信表明演説があった。その内容については、専門家が詳しい解説をしてくれるだろうと思う。そこで、内容そのものには立ち入らずに、その主張の論理的側面に注目して、ある種の前提から論理的に導かれた帰結ではないかと思われる部分を探してみたいと思う。

論理的な語り方をしている部分というのは、その論理をはっきりと自覚して、相手を説得しようという意図があれば、自明だと思えることでも明確に記述して説明することが多い。しかし、そのような意図があまりなく、これは自明なことで言うまでもなく誰もがそう思う、という思い込みがあれば、そのことの前提をわざわざ言うことはないだろう。そのようなところが麻生さんの演説の中にないかも探してみたいと思う。

前提を語らないことは、何か論理的でないように見えるかもしれないが、論理的でないというのは、その導出の仕方が論理法則に反しているときに指摘できることで、自明の前提を置いていたとしても、そこから正当に導かれる論理を使っているのであれば、前提を語らずとも論理的であると言える。このように、麻生さんが語ることの論理的な側面を評価するという読み方をしたいと思う。もし麻生さんが論理的におかしなことを語っていれば、それは結論として主張されていることが信用しがたいということを意味する。しかし、麻生さんが正当な論理を使っているのであれば、あとはその前提となっていることが正しいのなら、その結論を確信を持って信じてもいいということになるだろう。

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by ksyuumei | 2008-09-30 10:06 | 政治

ブログ・エントリーのための覚え書き

いくつか気になっていることがあって、いろいろと資料を調べているのだが、なかなか考えがまとまらず資料も集まらないので書けないでいることがある。それを忘れないうちにちょっと記録しておこうと思う。


1 民主党の政策が財源の裏付けがないということについて

民主党が掲げている政策については、ばらまきだという批判が多く、しかもその財源の裏付けがないということが多く語られている。それが本当だろうかと思っていろいろとデータを探したのだが、あまり説得的に語っているものが見あたらなかった。何となくそうなのかなとは感じるが、世間で叩かれているほどひどいという感じがしなかった。あれだけ世間で叩かれているのだから、もっと確信を持って主張できるだけの材料がすぐに見つかると思ったのに。

どうも説得力に欠けるのは、民主党が主張しているような財源の移動が非現実的だということを具体的に語っていないことだ。そんなのは無理だという結論はたくさん見かけるのだが、このような具体的な問題があって出来ないとか、もっと具体的に語っている人がいないものかと思う。

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by ksyuumei | 2008-09-28 18:11 | 雑文

一般論的主張と現実解釈との整合性

内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがようやくパソコンで読めるようになった。記憶にあるように、ここに書かれた内容は「宰相論」に関する一般論がほとんどだった。その一般論を語る過程で、現実の「宰相」に当たるかもしれない麻生氏について少し言及しているというのがこのエントリーの印象だ。

ここに書かれている一般論に関しては僕はだいたい共感してその通りだと思う。しかし、麻生氏を評価しているように見える部分、


「麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。
私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。
だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。」


に関しては、この受け取り方(理解の仕方)によっては、自分とは反対の判断をしているのだろうかと思ってしまう。だが一般論からの論理的帰結としては内田さんが語ることが論理的には正しいようにも思える。自分は、論理的な判断ではなく、感情的な好き嫌いから麻生氏の曖昧さに対してマイナスの評価を与えているのだろうか。そのあたりの論理と現実の整合性についてちょっと詳しく考えてみたくなった。また、マスコミが麻生氏の曖昧さを批判する論調と僕の感じ方がちょっとニュアンスに違いがあるのも感じる。このあたりのことも、内田さんの主張をヒントに、そこにある違和感を説明できるのではないかとも感じている。

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by ksyuumei | 2008-09-27 11:51 | 内田樹

麻生新総裁誕生の評価について 3

毎日新聞の社説では、その表題に「理念も政策もなき勝利」と書かれているように、総裁選に対する評価はかなり明確に出ているものと思われる。冒頭にも次のように書かれている。


「内閣支持率低迷が続き、福田氏は自ら衆院を解散して総選挙に臨む自信がなかった。そこで総裁選をにぎやかに実施して国民の関心を自民党に引きつけ、その勢いで総選挙に突入する--。再三指摘してきたように、総裁選はこんな演出を意識したものだった。

 だが、福田氏や自民党が期待したように「わくわくする総裁選」だったろうか。そうは思えない。」


これは、もしも「わくわくする総裁選」だったら、そこには国民を引きつける魅力ある要素があるはずで、それこそが理念や政策に通じるものだという論理的な展開があるのだと思われる。理念や政策が明確に語られなければ、今まで利権を握っていた人物の不透明な私益は改革されずに残るだろう。そうであれば、その利権に関係ない人々はどうして「わくわくする」ことなど出来るだろう。

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by ksyuumei | 2008-09-26 09:57 | 政治

麻生新総裁誕生の評価について 2

朝日新聞の社説では、麻生新総裁誕生についての評価は、慎重に断定を避ける言い方をしているように見える。「耐用年数が過ぎたか」というふうに疑問文の形で語っている。これは反語的に、「耐用年数は過ぎた」のだという断定的な評価だと受け取った方がいいのだと思うが、反語的なレトリックを使うことによって、ベタに受け取る人は「どっちなのだろう」と迷うかもしれない。朝日新聞の基本的姿勢からいえば、もはや「耐用年数は過ぎた」のだと判断してもいいと思うのだが、ちょっと中途半端な言い方のように聞こえる。

本文の内容では、「自民党は政権政党としてもはや耐用年数を過ぎたのではないか。そんな批判が説得力を持って語られている」と書いている。説得力があるという判断をしているのだから、もう自民党ではだめだと言い切ってもいいのではないかと思われるのだが、中立の立場を守らなければならないということなのだろうか、そういう言い方をしていない。

過去に対する認識については


「官僚との癒着、税金の巨額の無駄遣い、信じられない年金管理のずさん、薬害エイズや肝炎の隠蔽(いんぺい)……。効率的で有能と思われてきた日本の行財政システムが機能不全を起こしたかのように、不祥事が止まらなくなっている。

 国土を開発し、豊かな生活を育むはずだった公共事業は、いまや800兆円の借金となって国民の肩にのしかかる。人口が減り、経済はいずれ縮小に転じるかもしれない。そのなかで格差を縮め、世代間の公平を保ちつつ豊かで平和な暮らしを守ることが本当にできるのか。」


という文章から伺えば、日本をこのようにどうしようもなくガタガタにしたのは自民党政治の責任だと主張しているように見える。だから当然のことながら、このような自民党にはもはや政権担当能力はないと判断しても良さそうなのだが、「自民党に政権を託し続けていいのだろうか」という問いかけをするだけでやはり断定的には語らない。左翼的立場を自他共に認めるのならば、ここはきっぱりと断定するべきだと思うのだが、基本的にはポピュリズムに従い、左翼的言説が人気があるときはそのように振る舞うというだけなのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-09-25 10:14 | 政治

麻生新総裁誕生の評価について 1

自民党総裁に麻生氏が選ばれて、新聞各紙はそのことについての社説を書いている。出来レースと言われ、総選挙用のパフォーマンスに過ぎないと言われていたこの総裁選だが、予想以上の大差で麻生氏が勝ったことによって、その出来レースぶりとパフォーマンスだけの内容があからさまに分かるようになってしまった感じがする。

そのせいかもしれないが、各紙の社説では「こうあるべき」というべき論と、「こうして欲しい」という願望を語る論調が多かった。この二つは確かに大切な要素ではあるが、主張としてはリスクの少ない平凡な一般論ではないかと思う。「べき論」は、その政策を具体的に語り、民主党との違いを明確にすべきというものが多いが、これは誰が考えても「そうすべき」と言える内容であまり目新しいものはない。願望にしても、べき論で「そうすべき」だということを実現して欲しいという語り方が多い。

誰もがそう考えることを主張するのであれば、そこに間違いが入り込むリスクは少ない。そして、現実がその願望通りにならないときは、そのような主張をした方に間違いがあるのではなく、希望を実現しなかった方が非難される。論説による主張としてこれほど安全なものはないだろう。それに対して、この麻生総裁誕生を評価するという主張になると、その評価は今後の動向によって正しいか間違っているかが判断される。間違った評価をすれば、主張としては批判されるリスクがあるだろう。だが論説をリードする立場の新聞の社説では、あえてこのリスクを冒すべきだろう。そのような評価を語っている部分を社説の中から探し出し、その評価の論理的正当性というものを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2008-09-24 09:28 | 政治

デカルトの偉大さ

ウィトゲンシュタインが考えたような命題の集まりである世界の全体が、どのようにして広がっていくかという過程を考察しようとして哲学史を調べている。哲学に革命的な進歩をもたらした発想は、ほとんどの場合それまで自明だと思われていたことを疑い、世界像というものを新たに作り直すことによって哲学というものを革新しているように見える。

特に、方法的懐疑というものによってすべてのものを疑い、確実な真理を求めたデカルトに関心を持って調べている。調べているいくつかの哲学史の書物の中で、入門書的な『初めての哲学史』(竹田青嗣・西研:編、有斐閣アルマ)という本の中にちょっと気になる記述があった。板倉聖宣さんは、良い入門書は根源的な問題について書いてあるので、専門書のような細かい記述を求めるのでなければ、その分野の最も大切な本質が学べるようなものが入門書の中にこそあると語っていた。内田樹さんも、入門書の中にこそ誰も扱わないような、しかも誰もが疑問に思うような大きな問題が語られているといっていた。

竹田さんと西さんのこの入門書も、板倉さんや内田さんが語る良い入門書の性格を持っているもののように感じた。これは単に、専門的な細かい知識を、ちょっと薄めて分かりやすく並べただけの入門書ではないように感じる。ここには、哲学というものに潜む根源的な問いが込められているように感じた。そこでデカルトに関する記述についてもちょっと気になるようなものが目についたというわけだ。

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by ksyuumei | 2008-09-21 11:46 | 哲学一般

誰が優れた人物なのか

二十歳前後の学生の頃、自分の教養を高めたいと思い、そのためにはどのような学習をすればよいかを考えたことがあった。とにかく優れた人物が語ることを理解して、それを通じて教養を高めるということがいいのではないかという結論に達した。しかし、どの人物が優れているかというのは、その時点ではどうにも判断が難しかった。そこで世界の名著と言われているものを片っ端から読んでいこうと思ったものだ。

手始めに手に取ったものが文学全集だった。数学科だったにもかかわらずと言おうか、あるいは数学科だったからこそ教養と言えば文学かなと思ったのか、世界や日本の文学全集から手当たり次第に読み始めた。世界の方では、ホメロスやダンテから始めて、ゲーテやシェイクスピア、バルザック、ロマン・ロランなどを読みあさっていた。最も気に入ったのはドストエフスキーで『罪と罰』は何度も読み返したものだった。

日本の作家では夏目漱石が気に入った。それまでは数学や自然科学系の本しか読まなかったので、最初は小説を読むのが苦痛だったが、一冊なんとか読み通すことが出来ると、後はそれほど苦に感じず読むことが出来た。最初に読んだ小説は志賀直哉の『暗夜行路』だったが、これは読み終えるのに一ヶ月くらいかかっただろうか。『罪と罰』を読む頃にはかなり慣れてきたのでこの分厚い本も2,3日で読むことが出来た。

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by ksyuumei | 2008-09-19 09:51 | 雑文

世界を広げるための発想・思考

世界というものを命題の集まりであると考えたとき、最も基礎的な命題から他の命題が論理的に導かれるという構造になっていたら、つまり公理的体系になっていたら、その世界は全体像の把握が容易に出来るだろう。数学というのはユークリッドの幾何学を第一歩として、そのような公理的体系を作り出して発展してきた。

このような公理的体系は、その全体像の把握が容易ではあるが、そのことは逆にその世界が完結したものであることも示している。それは完結した世界であるから、もはやそれ以上の広がりを持つことはない。まだ定理として真理性が確定していない事柄であっても、それはまだ確定していないだけであって、それの発見によって世界が広がっていくことはない。それはすでに世界の中にあったものだがまだ知られていなかっただけというものになる。そうでなければ全体像の把握というものにならないだろう。

ゲーデルの定理によって、自然数の公理系にはそれが真理であっても証明することの出来ない命題が存在することが証明された。そのような命題は、未知なるものとしてその発見が自然数の世界を広げることにはならないだろうか。これは、ある特定の命題が、いろいろと調べている内に証明不可能であることが発見されたということなら、その知識が世界に新たな特徴を加えてその広がりをもたらすかもしれない。しかしそれは今ある公理系の世界を、全く違う新たな公理系として違う世界を考えることになり、世界の拡張として捉えるかどうかは微妙なものになるだろう。

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by ksyuumei | 2008-09-18 09:47 | 方法論

自民党政権の構造的欠陥

第388回のマル激では飯尾潤氏(政策研究大学院大学教授)をゲストに招いて、自民党政権の評価をしていた。その中で面白いと思ったのは、自民党政権には構造的な欠陥があるということだった。たとえば、自民党政権のもとでは赤字がふくらんでいくという現象が見られたのだが、それは与党というシステムの欠陥がもたらしたものであると飯尾さんは説明していた。

自民党は長期にわたって政権党だったことによって、内閣における大臣職というものが、その専門的な能力によって指名されているということになっていなかった。大臣職は、当選回数によって、その功績に報いるために与えられるものとなっていった。当然のことながら大臣になったからといって、その省庁を指導し国家全体の利益の正当性を第一の基準にして判断するなどという能力を持つ人間が大臣になるということは稀だった。結果的に、官僚をコントロールして省庁の仕事をまっとうに進める大臣ではなく、官僚にコントロールされて、その省庁の利益を代表する存在となっていった。

大臣がこのような存在になっていくことによって、実は各省庁がその力を恐れて意向を伺うような存在が、大臣ではなく「族議員」と呼ばれるようなある種の力を持った議員になっていった。この「族議員」というのは、省庁に不祥事があったときに責任をとる立場にはない。責任をとるのは大臣であり、「族議員」は、省庁に影響を与え、その決定に関与するにもかかわらず責任をとらなくてすむ。このような存在がその力を行使し、自らの望む方向に各省庁の動きをコントロールしようとすれば、国家全体の観点から考えるよりも個人のエゴからの視点で考えるようになるだろう。

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by ksyuumei | 2008-09-17 10:03 | 政治