<   2008年 08月 ( 30 )   > この月の画像一覧

形式論理における矛盾と弁証法における矛盾

形式論理で矛盾と呼ばれるものは、ある命題の肯定と否定が同時に成立するものを指す。これは形式論理では絶対に認められないものとなる。なぜなら、形式論理というのは命題の内容を問わずその形式のみに注目する視点を持つからだ。ある命題の肯定と否定が同時に成立するというのが、命題の内容に関係なく形式として成立するならば、それはすべての命題についても同等に成立するものとなってしまう。

否定というのは、形式論理においてはその肯定を判断したことが間違いだったことを示す。つまり、否定が成り立つならばその肯定は真ではない、偽であるということになる。だが、肯定も否定もいつでも成り立つというなら、その命題に関しては真偽が決定できない。それはいつでも真だと考えても良くなるし、いつでも偽だと考えても良くなる。真偽を考えることに意味がなくなる。

形式論理というのは、真なる命題のネットワークを構築することにより、真であるということの性質を持つ命題を導くことで合理的思考を行うものだ。それが真なる命題のネットワークが無くなり、あらゆる命題が真であってもいいし、真である命題が一つもないと考えても良くなるなら、何が合理的思考かということも決定できなくなる。論理そのものが崩壊してしまう。だから、矛盾という命題は、形式論理においては絶対に成立しないということが大前提になる。

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by ksyuumei | 2008-08-07 09:47 | 論理

形式論理における「二重否定の法則」と弁証法における「否定の否定の法則」

形式論理と弁証法では、そこで使われる「矛盾」という言葉に際立った概念の違いを感じるが、「否定」の概念についても微妙な違いを感じる。これは「矛盾」ほどその違いがあらわになっていないので、どちらも同じ「否定」ではないかと感じる人も多いのではないだろうか。しかし、形式論理における「二重否定」はまた元の命題に復帰するのだが、弁証法における「否定の否定」は元の命題に帰るのではなく、元の命題が発展した形での命題に復帰することになる。ここに両方の「否定」の概念の違いが現れている。

一言で言ってしまえば、両方の概念の違いは「視点」の違いとして記述できる。弁証法というのは、基本的に「視点」をずらすことによって現実の中で新たな発見をもたらそうとする発想法だ。それに対し、形式論理というのは、形式論理が正しくなるような世界を構築し、その世界の中では厳密に言葉通りの約束が成立するということを要求する、言葉の使い方に厳密な意味を与えようとする一つの理論体系だ。

形式論理は、その体系が完結していることを要求するので、体系の中で定義されたものが途中で変化することを許さない。あくまで固定的に対象を設定して、その固定した静止の中で成立する法則性を求める。しかし、弁証法は、現実に対して有効な発想をもたらそうとするために、現実の多様性や変化を許容するような論理を設定しなければならない。それはある事柄を固定的に設定したのでは、変化や多様性を受け止めることが出来ない。そのため、いつも「視点」をずらすことによってその変化や多様性を受け入れる余地を作り出す。だから「否定」も絶対的な「否定」ではなく、「視点」によっては「否定」にならない「否定」である場合がある。そこに僕は両者の違いを見る。

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by ksyuumei | 2008-08-06 18:42 | 論理

仮言命題の妥当性

現実の具体的な論理の展開においては、そこで使われる仮言命題は具体的な内容を持ったものになる。内容を捨象されたAとBで表されるようなある命題を使って「AならばB」という形の仮言命題を使って論理を展開することはない。このように抽象的に表現された仮言命題は、一般的には妥当性を評価することが出来ないからだ。AやBの具体的な内容によって、それが正しくなるかどうかが決まってくる。

「独身ならば結婚していない」というような仮言命題を考えてみよう。これは誰が考えても100%妥当な仮言命題として判断される。それはどうしてだろうか。これはある人物、たとえばAさんという人がいて、彼が独身だということが確認されているとする。そうするとこの仮言命題とあわせて

   Aさんは独身だ。
   独身ならば結婚していない

   故にAさんは結婚していない

という推論が成り立つ。これは絶対的に正しい。Aさんが結婚しているかどうかを戸籍を確かめなくても結論することが出来る。現実に観察をして確かめる必要がなく、論理的な判断によって断言できる。これはどのような理由からそう言えるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-05 09:40 | 論理

論理学における仮言命題と日常言語における仮言命題

仮言命題というのは、「AならばB」という言葉で表現されるような命題のことで、Aを前件(前提)と言い、Bを後件(結論)などと言う。この仮言命題を論理学、特に形式論理学で扱う時は、AやBの内容については全く触れることはない。形式論理は、命題の内容に関係のない、命題が置かれているその位置によって論理的な意味がどうなるかを考えるものだから、命題の内容は捨象される。しかし、現実に日常言語を使って論理を進める場合は、内容を捨象した仮言命題を使うことはない。日常言語での論理の展開は、特定の内容を持った仮言命題を駆使して論理の流れを作っていく。

このあたりの違いは、論理学を専門にしていない人にとってはかなり違和感のあるものではないかと思う。日常言語とかけ離れているように見える形式論理が、それほど役に立ちそうな感じがしないというイメージもそのあたりから作られるのではないかと思う。しかし両者の違いを正しく受け止めると、形式論理というのは、単純ではない論理の流れを把握するのにかなり役に立つということが分かってくるのではないかと思う。

それを二つの側面から考えてみたいと思う。一つは、日常言語を使う時の前件肯定式と呼ばれる、形式論理における推論規則だ。これは、形式論理における妥当な推論として認められているもので、日常言語における推論では最も多く使われているのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-04 21:29 | 論理

「言語の構造に支配される思考」という時の構造とは何か

内田樹さんによれば、現在の社会というのは構造主義的な発想が当たり前になってきた時代だという。我々は構造主義を知らなくとも、構造主義であればこのように発想するというような考え方を自然に持つようになっている。それは内田さんによれば次のように表現されている。


「今の私たちにとって「ごく自然」と思われている振る舞いは、別の国の、別の文化的バックグラウンドを持っている人々から見れば、ずいぶん奇矯なものと映るでしょう。(だから「ここがヘンだよ日本人」というような批判的コメントがほとんど無限に提出できるわけです。)
 それどころか、同じ日本人であっても、地域が変わり、世代が変われば、同一の現象についての評価は一変します。半世紀後の日本人から見たら、今の私たちが何気なく実践している考え方や振る舞いの方の多くは、「21世紀初め頃の日本社会に固有の奇襲」として回想されるに違いありません。
 ですから、今、私たちがごく自然に、ほとんど自動的に行っている善悪の見極めや美醜の判断は、それほど普遍性を持つものではないかもしれない、ということを常に忘れないことが大切です。それは言い換えれば、自分の「常識」を拡大適用しないという節度を保つことです。」


ここで内田さんが語っていることは、現代日本人の多くが賛成する「常識」ではないだろうか。そして、この常識は確かに構造主義的な発想から生まれてくるものだ。何らかの構造の支配によって生み出された常識であるから、その構造が違えば違う常識が生まれるだろうことが予想される。だからそれは「それほど普遍性を持つものではない」。

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by ksyuumei | 2008-08-04 09:41 | 構造主義

構造主義における「構造」そのものの概念を求めてみる

僕は、構造主義における「構造」という言葉にこだわって、その概念をつかむことが難しかったが故に構造主義についてもよく分からないものというイメージでいた。これが数学的な構造、たとえば代数的構造などと呼ばれるものだったら、それほど苦労せずに理解できただろう。しかし、数学でいう構造は、わざわざ「主義」という言葉をつけるような曖昧なものではないはずだ。それは全体性を支配する基本になるものであり、それをつかんだ人間は、その数学分野における適切な公理を選ぶことが出来る。

構造主義は、主に社会科学の分野で語られたり、ソシュールの言語学で語られたりしていた。だから、それが全く数学と重なるような「構造」の概念を持っているとは思えなかった。もしそうであるなら、社会現象や、言語現象などを数学と勘違いしているだけではないかと思っていたものだ。三浦つとむさんが構造主義を批判するように、ありもしない妄想の影響で人間社会が支配されているとする観念論的妄想にしか見えなかった。

数学の構造は、それが人間が構築したものであるが故に揺るぎないものとして設定できるが、現実に存在する構造はすべて現象に対するある解釈に過ぎないという感じがしていた。そのような構造を見ることにそれほどたいした意味があるのだろうかという疑問をずっと持っていた。すべてを数学として見てしまうことは、数学の抽象性に数学のすばらしさを感じていた人間としては、わざわざその抽象性のすばらしさを殺すものではないかという気がしていた。

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by ksyuumei | 2008-08-03 23:50 | 構造主義

人間の社会における「交換」の意味

『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)には次のような記述がある。これも、ある意味ではレヴィ・ストロースのすごさを伝えるものであるが、社会という、自然科学の対象とは全く違う性格を持ったものを、どう認識するかという見方を語るものとして貴重なものだと感じた。特に、自然科学畑の出身である自分には、このような観点はなかなか持ちにくいのを感じるだけに特に印象に残った。ちょっと長いが引用しておこう。


「レヴィ・ストロースは「社会」を交換の全域的なシステムととらえる。交換の価値は単にそこで交換されるものの価値ではない。それは自己とは異なるものとしての他者の存在を想定すると同時に、自己をそうした他者と結びつける行為である。区別し、かつ関係づけるその行為は、まさに言語によるコミュニケーションにも比せられべき一種のコミュニケーションなのだ。
 この交換の重要性について、再三にわたって繰り返されるレヴィ・ストロースの主張は私が以上の紹介の中では特に強調しては取り扱わなかったテーマの一つである。これが重要ではない、ということではない。私はこの主張の正しさには全く疑問を抱いていない。むしろこの主張を認めた上で、私が紹介しようとしたのは、レヴィ・ストロースが近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則をこうした全域的な交換のシステムに関係づける、その仕方であった。
 近親相姦の禁止の普遍性は、人間が社会を持つという事実の普遍性と同義である。禁止はそれの裏返しでもある積極的な規定とともに、総体として、交換の全域的なシステムに対応している。もちろんこうした禁止や規定は、婚姻という個々の出来事を規制する規則である。しかし、それがすべてではない。これらの規則は、個々の出来事を規制することを通して一つの全域的(global)な体系を生成する。それらはそれらが生成する全域的(global)な体系の、局所的(local)な表現なのである。レヴィ・ストロースが示そうとしてのはこれであった。」


「「社会」を交換の全域的なシステムととらえる」のは、抽象として妥当だろうかという疑問がちょっとわいてくる。「交換」という人間の行為の一部で社会全体を代表できるものなのか。「交換」という行為こそが、人間を人間たらしめ、社会の必要性を説明する最重要なものになるのかどうか。数学系としては、このあたりに論理の飛躍がないかどうかが気になる。この論理の流れを埋めるスモールステップは発見できるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-03 13:37 | 雑文

レヴィ・ストロースのすごさ

構造主義を語るときに、人類学者のレヴィ・ストロースは絶対に欠かせない重要な人物となっている。「親族の構造」の解明こそが、構造主義の歴史における金字塔として紹介されている。だが、今までの僕は、このレヴィ・ストロースの業績に対して、いったいどこがすごいのかということが分からなかった。確かに、世界で初めて構造というものに注目してその理論をまとめたという先駆者性は認めるものの、それは単に一つの解釈を提出しただけではないのかという思いがあった。

インセスト・タブーと呼ばれる近親相姦の禁止の習慣を、それは女の交換というものを生じさせるためだという、人々を驚かせるような意外な理論を提出したところにすごさがあるとも思えない。だいたい、この理論の正しさを僕はよく分かっていないので、これが本当に正しいと確信できなければ、この理論を提出したことのすごさというものが実感としてわいてこない。これは本当に正しいのだろうか。正しいと言われているから、何となく正しいのかなという感じを持ってしまうが、これは論理的にそのような結論が明確に出るのだと、論理の流れを構築できるものなのだろうか。

レヴィ・ストロースは有名で、誰もがそのすごさを口にするから、何となくすごいと思わないといけないような気がしてくるが、実感としてそういう気持ちになれないので困っていた。何とかしてそのすごさを実感したいと思ったが、レヴィ・ストロースの解説書をいくつか読んでもなかなかすごさが伝わってこなかった。しかし、『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)を読んで、ようやくそのすごさを実感することが出来た。この本の第二章を浜本氏が執筆しているのだが、そこで語られている「親族の基本構造」の解説を読んで、初めてレヴィ・ストロースのすごさを感じることが出来た。

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by ksyuumei | 2008-08-02 23:19 | 雑文

政治的決定に人々が従うための源泉としての「権力」の概念

宮台氏の「社会学入門講座」での、いよいよ最後に登場する「政治システム」の概念の理解に向かいたいと思う。「政治システム」とは「連載第二二回:政治システムとは何か(上)」によれば「社会成員全体を拘束する決定──集合的決定という──を供給するような、コミュニケーションの機能的装置の総体」というものになる。「政治」については、様々な側面が見られることだろうが、その機能に着目して、秩序維持のメカニズムを解明したい社会学(システム理論)では、このような定義(概念化)が妥当だろうと思われる。

この「政治システム」が講座の最後に登場するというのは、それなりに社会の構造を反映しているのではないかと思われる。政治こそが、現代社会の安定的な秩序の維持に決定的な要因を与えているようにも思われるからだ。現代社会というのは、慣れ親しんだ他者だけではなく、匿名の大多数の見知らぬ他者とつきあっていかなければならない社会となっている。そのような他者がどのように振る舞うかは、全く白紙の状態であれば予想もつかない不安なものになる。社会の中で、安定した秩序ある生き方ができるようには思われない。

そのとき、大多数の行動を支配する政治的決定に信頼ができるのであれば、現代社会の様々な人々の行動の現れに信頼を置くこともできる。政治的決定は、個人的な口約束とは違い、それを守るべきだということがすべての人々に了解されているもっとも信頼の高いルールである。社会の秩序を説明するのに、もっともふさわしいシステムとなるだろう。これが最後に説明されるということで、最初の方にあった問い「社会とは何か?」ということも、この概念からの連想で、「政治的決定が守られるシステムを持っている」社会を、安定した社会と呼ぶことができるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-02 15:54 | 宮台真司

「特定人称性/汎人称性/奪人称性」の概念

「連載第二一回:法システムとは何か?(下)」の終わりの部分で、宮台氏は、ルーマンの「法的決定手続が予期の整合的一般化」をもたらすという考えがはらんでいる問題を解決することを目的として、表題にあるような「特定人称性/汎人称性/奪人称性」という概念の説明をしている。これが、本当にそのような目的にかなってるのかということを論理的に理解してみたいと思う。

論理的に理解するということは、現象を観察して、宮台氏が主張するような事実を見つけて納得するということではない。つまり、ある事実を知ることによって「そうだなあ」というふうに思うのではないのだ。宮台氏の主張は、あくまでも論理的な流れとして、ある種の推論の帰結として提出されているという理解をすることだ。

このような論理的な理解をするには、仮言命題と呼ばれるものが大切になってくる。仮言命題こそが論理的な推論を明らかにする道具なのだ。宮台氏が大前提としている出発点となる命題が何なのか。それが仮言命題の最初の前件となるものだ。そしてその前件を持つ命題は、どのような法則性を持っているか。その法則性が、確かに仮言命題として妥当に導かれるものであれば、最初の結論は論理的に理解できる。宮台氏が語る主張の最後に当たる部分(目的とするルーマンの不備を解決するという主張)は、単純な仮言命題で導かれるものではなく、複雑な仮言命題の鎖でつながれているものだと思われる。その鎖を、一つ一つのつながりが納得できるように解きほぐして論理の飛躍を埋めることで、その論理の流れを理解しようと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-01 11:30 | 宮台真司