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理解の道具としての形式論理 2

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」に書かれている文章を一つ一つ、論理的に理解するということを目指して細かく見ていきたいと思う。前回に続く文章で今回理解を図るのは、宮台氏の「権力の予期理論」に関係する文章だ。それは、宮台氏の説明によれば次のように語られる。


「概括すると、選好構造と予期構造の組に由来する、回避選択への圧力が存在するとき、この圧力を体験する者を服従者とする権力が存在すると見做します。」


この文章は、初めて読んだときには、何が書かれているのかさっぱりイメージがわかなかった。ここにはまず用語の難しさがある。「選好構造」「予期構造」「回避選択」という言葉が何を意味しているかを知らなければならない。上の文章は、論理としてはそれほど難しいことを語っているものではないが、この用語の難しさが理解を難しくしている。

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by ksyuumei | 2008-08-16 16:56 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 1

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」という「社会学入門講座」の最終回に当たる回はたいへん難しい。この内容は、宮台氏の『権力の予期理論』(勁草書房)という本の内容にも通じるもので、この本がまたとてつもなく難しい内容を持っている。

この難しさは、主としてそこで取り扱っている概念の抽象度の高さにあるのではないかと僕は感じている。あまりにも抽象度が高いので、それを思い描くイメージが頭の中に形成されない。概念が言葉の段階で止まってしまっているのを感じる。概念というのは、言葉で定義されているものを、言葉のままで記憶してもそれが運用できるようにならない。それに具体的なイメージが張り付いて、そのイメージの方がある種の変化をして、それを追いかけることによって思考が展開される。

この高度に抽象化された概念を理解するために形式論理が役立てられないかということを考えている。それはかつて大学生だった頃に、数学が語る抽象の世界のイメージをつかむのに記号論理と呼ばれる形式論理がうまく利用できたことから、数学以外の分野でも抽象度の高い理論の理解に形式論理が利用できないかと期待したいものがあるからだ。

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by ksyuumei | 2008-08-16 11:38 | 宮台真司

言葉の約束である論理がなぜ現実の合理的な理解をもたらすのか

かつては、論理は現実世界の反映であり、論理の正しさといえども現実にその基礎を持っているのではないかと僕は考えていた。ウィトゲンシュタイン的な、写像による現実世界の像としての論理空間というイメージを抱いていた。今ではそのような理解をやや修正している。論理の法則の発見のきっかけは、現実世界との対応だったのではないかと思うが、いったん論理の法則が理解されると、それの考察はもはや現実世界と関係なく行われる。それは言葉を対象にして考察することによって理解されるようになる。

論理というのは、現実の法則ではなく、言葉の法則であるという理解の方が今では自分のものになっている。論理の正しさも、言葉の使い方のルールとして合理的だからだと思える。だが、この合理性は論理によってそう言えることなので、論理の正しさを論理によって理解するというところにやや危うさも感じている。循環論法的な雰囲気を感じるからだ。

いずれにしても、言葉の法則だと思われる論理が、何故に現実世界の理解においても有効なのかということは単純には納得できないように思われる。現実を無視して抽象されている論理という言葉の世界が、どのようなつながりで現実を正しく反映することが出来るのだろうか。論理に従わなければ我々は合理的な思考を行うことが出来ない。目の前の事実を見たままに記述するだけでは、その今の見えている側面のことだけしか語れない。今見えていないことは思考の中に入ってこないし、過去や未来のように、今見ていないことも思考の中に入ってこられない。

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by ksyuumei | 2008-08-15 10:10 | 論理

仮言命題の真理値を巡る直感に反する解釈

形式論理学では、命題の真理値を用いてそれで数の計算に似たような論理の計算を考える。論理として正しいかどうかを、真理値を割り当てて、その値によって評価しようとするものだ。その命題が正しいとき、すなわち真であると判断されると真理値として1を与える。それが正しくない、すなわち偽であると判断されると真理値としては0を与える。1や0を与えるのは、命題の論理計算が、数の1や0の足し算やかけ算に相当するので便利だからだ。

<または>や<かつ>で示される命題の真理値は、元になるAやBの命題の真理値が決まると次のように考えられる。

  A  B  AまたはB  AかつB
  1  1    1      1
  1  0    1      0
  0  1    1      0
  0  0    0      0

これは<または>と<かつ>の日常言語的な意味とだいたい合うような感じがして受け入れられる人が多いだろう。<または>ではA,Bともに正しくないときに、<または>とは言えないという判断は賛成できるのではないだろうか。どちらか一方が成り立っていなければ<または>という接続語を使うのは変だという言語感覚だ。

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by ksyuumei | 2008-08-14 13:16 | 論理

敵対的矛盾の考察

弁証法的な矛盾に関して、非敵対的矛盾というのは現実に観察できる・現実に存在する矛盾としてとらえられていた。それは視点をずらしたときの見え方を並べることで、二つの主張が対立して矛盾を形成しているように見えるけれど、違う見え方を述べたのであるから形式論理的な矛盾ではない。つまり肯定と否定が同時に成り立っているという現象が現実に現れているわけではない。形式論理的な矛盾というのは、決して見つけることが出来ない。なぜならば、肯定が正しくないときにのみ否定が主張されるというのが形式論理だからだ。それが同時に成り立つようなら、それは否定の定義に反するのであって、その現象を否定とは呼ばない。

実際には、非敵対的矛盾として提出されているものはすべて視点の違いで解釈できる。三浦つとむさんは非敵対的矛盾を調和する矛盾と呼んだが、これは現実存在というのは、視点を変えれば違う見え方をするというのを「調和」と呼んだのだと思う。三浦さんは「前進している」と同時に「前進していない」という矛盾を、ベルトコンベアと反対方向に移動するという例で実現する敵対的矛盾の例を『弁証法はどういう科学か』で提出していた。

この矛盾は対象としてはつまらない矛盾だが、視点の違いを考えるのは適当にやさしい例となっている。歩いている本人から見ればそれは前進していると考えられる。しかしそれを外から眺めている人にとっては、ベルトコンベアの流れの方が早ければ後退しているように見えるし、ちょうど同じ早さなら静止しているように見える。いずれにしても前進してはいないと言えるだろう。だがこれは同時に同じ視点で実現しているのではない。それぞれの視点で見るとそう見えるというだけで、形式論理的な矛盾になってはいない。

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by ksyuumei | 2008-08-12 09:39 | 論理

論理計算における真理値と正負の数の計算におけるマイナスの数との類似

数学においてマイナスとマイナスのかけ算というのは、直感的に理解するにはたいへん難しいもので、ここで躓く子供が多いのではないかと思う。このかけ算の規則は、ルールとして覚えてしまえば何でもないもので、それほど覚えにくいものではない。だが、この記憶が定着しないというのは、何か変な気持ち悪さがあって、どうしても「マイナス×マイナス」が「プラス」になるということに納得できなくて、その自分の気持ちを認めてやりたい気分が、この単なるルールの記憶を困難にしているのではないかと思う。何か変だと思うことがらが記憶できないというのは、きわめて人間的で自然なことではないかと思う。

マイナスとマイナスのかけ算に関しては数学史の上でもなかなかこれを認められなくて苦労したということが伝えられている。これは直感に反する結果として提出されるのでそれを正しいものとして覚えるのが気持ち悪いのではないかと思う。数学史の上では、マイナスの数を借金として想像することが多かったようで、これとの連想で考えると、借金と借金をかけ算してプラスになる、すなわち財産になるというのは明らかにおかしいと感じる。

これは実はかけ算の意味を間違えているので、よく考えれば借金と借金はかけ算してはいけないことが分かるのだが、直感的に浮かんでくるマイナスの数のイメージが借金しかなければこのような想像が浮かんでくるのも無理はない。数学における計算は、計算そのものとして考えるときは、借金というような属性が無くなってしまうのだが、マイナスの数は、プラスの数の反対のものとして導入されたりするので、それを想像するにはどうしてもプラスの反対になるものとあわせて考えないと、マイナスの数そのものが頭に浮かんでこない。その概念がつかめないのだ。

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by ksyuumei | 2008-08-11 23:07 | 論理

抽象と数学・論理との関係

小室直樹氏は『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済新報社)という本の中で、幾何学・ニュートン力学・経済学などが、その対象を抽象することに成功したことで論理的表現が出来るようになったことを語っている。

幾何学はそれまでは実際の役に立てる実用的な技術として存在していた。面積を測ったり、角度を測ったり、具体的な問題の解答を得るための計算をしたりというようなことが幾何学の主な仕事だった。それを公理的な論理体系としてまとめたのがギリシア人であり、ユークリッドの幾何学と呼ばれるものだった。これが論理体系としてまとめられた理由の一番のものに、小室氏は、「幅を持たない直線」や「位置情報のみで大きさを持たない点」などの抽象的な概念の成立をあげている。

これらのものは現実には存在しない。抽象的なものとして頭の中でのみそれを見ることが出来る。これらの対象は論理に革命をもたらした。現実の存在であれば、よく観察すればするほど多様な性質が見えてくる。しかし抽象的な存在は、その側面だけを見て他を無視するという「捨象」を行うので、多様な他の面は考える必要が無くなる。そうすると完全に論理のルールに従う対象としてそれを見ることが出来るようになる。抽象という行為は、論理だけに従う対象を見出し、現実を全く考えずとも、論理の世界だけで真理を求めることを可能にした。

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by ksyuumei | 2008-08-11 09:40 | 論理

敵対的矛盾と非敵対的矛盾の形式論理による理解

弁証法的な矛盾というのは、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)によれば「対立を背負っている」ということが本質的な特徴として語られている。弁証法的な矛盾は、現実に存在する対象をさして矛盾と呼んでいるので、これも、現実の対象が「対立を背負っている」という現象をさして、その現象に対して矛盾という言葉を適用している。

矛盾という言葉の元になった中国の話に出てくる現象は、想像上のもので現実のものではない。そしてそれは決して現実のものにならないという点で弁証法的な矛盾ではない。形式論理的な矛盾と呼んでいいものだろう。それは人間の判断の中にだけ存在する観念的な対象だ。

矛盾の元になった話では、

・どんな盾でも突き破ってしまう矛
・どんな矛にも破られない盾

という二つのものが出てくる。この矛と盾に対して、「その矛でその楯を突いたらどうなるか」、という質問をしたときに、答えに困ってしまったというのが「矛盾」という言葉の始まりとされている。その矛は、どんな楯でも破ってしまうのだから、当然その楯を破るはずだと考えたいのだが、しかしその楯はどんな矛にも破られないのだから、破られてはいけないということになる。あちらを立てればこちらが立たないという困った状態になる。

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by ksyuumei | 2008-08-09 16:44 | 論理

グリーンピースへの扱いのどこが不公平なのか

さえきさんという方から「現代社会で論理に対立するのは非論理ではなく感情だ」というエントリーのコメント欄に、「「その前提となることが恣意的で公平さを欠く」という根拠が、いまひとつわかりませんでした」という疑問を呈するコメントをもらった。「公平さを欠く」という判断は、僕の中では論理的に求められた結論として確固としていたのだが、説明があまりうまくいっていなかったようでわかりにくくなっていたようだ。もう一度「不公平」という観点がクローズアップされる形でこの問題を考えてみようと思う。

僕が「不公平」を感じた一番の理由は、グリーンピースへの扱いと、横領を告発されていた調査捕鯨の関係者への扱いの違いがあることだ。公平ならば同じ扱いがされなければならないだろうというのが僕の判断だった。それは、両者とも起訴を前提とした捜査の対象とするのか、あるいは、両者とも犯罪としての立件が難しいので今回は捜査の対象としないという扱いだ。現実には両者の扱いが全く違うものになったが、この違うものになったという判断が、僕には論理的に納得できないので、ここに「不公平」を感じるのだ。

「法の下の平等」という原則的なルールがある。これは、行為として同じだと考えられるものに対しては、その同じだという判断から、同じ法的な処置をすべきだという原則的ルールだ。この原則に違反する例外も時にあるが、そのときはそれが例外であること、「法の下の平等」よりももっと重い他のルールで原則が破られるということが整合的に説明できなければならない。

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by ksyuumei | 2008-08-09 11:03 | 社会

現代社会で論理に対立するのは非論理ではなく感情だ

宮台真司氏の社会学的な言説の中には、原初的な社会では誰もが同じ感情を有していたので、誰もが同じ判断をしていたというものがある。これはある意味では、思考のルールというものがはっきりと決められていて、そのルールに従った思考の流れしか持てなかったということを意味するだろう。レヴィ・ストロースが発見した婚姻の規則なども、それに従うことが当然という感情しか持っていない人々は、そこから外れる選択肢があることなど想像もしなかっただろう。このような態度は、ルールに従った思考という意味でたいへん論理的ではあるが、それはなぜそのように考えるかという反省を全くもたらさないので、論理そのものを意識することはない。

それに対して現代社会では、もはや誰もが同じ感情を持つということがほとんどない。どの問題に対しても多様な感情が見られ、それから生まれる反応のどれが正しいかということを意識せざるを得なくなっている。その意味では、現代社会では論理を意識しなければ正しい判断が出来なくなっているといっていいだろう。原初的な社会では、誰もが同意する結論に達するのはたやすかった。それが客観的に正しいかどうかは置いておくとしても、社会的な合意が得られるという意味での正しい解答を求めることはたやすかった。

現代社会では、思考を展開して得られた結論が正しいか否かは論理的に正しいかを判断して理解される。だが、人間が思考を展開するときに、論理に従わない思考の展開というものが出来るかどうかを考えると、人間は無意識のうちに論理的な法則に従わずにはいられないということがあるのではないかと思う。非論理的な思考を展開することの方が難しいのではないかと感じるときがある。

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by ksyuumei | 2008-08-08 09:58 | 社会