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論説文の主張を形式論理で理解する 2

前回のエントリーでは朝日新聞が社説で展開していたグルジアでの紛争の問題を考えてみたが、田中宇さんの「米に乗せられたグルジアの惨敗」という記事が同じ問題を扱っていて、違う視点を提出しているのを見つけた。社説では一般的な前提として分かりやすい事柄を置いて、どちらかというとロシアに対して道徳的な非難をしていた。しかしこれは社説と違って長大な論説になっているので、社説では語られていなかった特殊な事情も情報として提供されている。

社説での論説は、一般論としてはそうかもしれないが、そのような一般論では日本独自の国益に関しては何も見えてこないなというのが感想だった。だが田中さんの論説では、このグルジアの問題に関して、アメリカの影というものが強く意識されて、日本にとってのアメリカの存在というものも再考させられるきっかけを与えてくれるのではないかと思える。単純にロシアがけしからんことをしたという非難をするのは、ロシアに対する悪感情を持っている人にとっては、非難をすることで自分が勝ったような気分になり溜飲を下げるという効果はあるかもしれない。しかし、そのような感情を満足させたからといって、そのことが持つ意味を正しく理解したことにはならないし、感情的な反応の延長で国際的な関係を読んでしまえば判断の間違いにつながる恐れもあるのではないかと思う。感情的ではない、論理的に整合性のある解釈というものを田中さんの論説をヒントに考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-29 10:14 | 論理

論説文の主張を形式論理で理解する 1

論説文の主張というものを形式論理のメガネで見てみようかと思う。論説文というのは、事実を単に記述するだけのものではなく、そこに中心となる主張が発見できる。そして、それが論説であるということは、その主張が論理的に根拠づけられているということでもある。それが本当に根拠づけられているものであるか、形式論理を利用して考えてみようと思う。論説文の代表としては2008年8月25日(月)の朝日新聞の社説(「グルジア紛争―ロシアは全面撤退せよ」)を取り上げてみた。インターネットでは時間がたつと見られなくなってしまうので、これも一応全文引用しておこう。


「黒海沿岸の小国、グルジアに侵攻後そのまま居座っていたロシア軍が撤退を本格化させている。まだ一部の部隊が残っているが、ようやく事態収拾への一歩が踏み出された。
 この2週間余りの紛争が残したつめ跡は生々しい。ロシア軍とグルジア軍が戦火を交えた南オセチア自治州の村々では多くの住宅が破壊され、住民に多数の死傷者が出た。
 戦火を逃れた避難民は10万人余り。南オセチアを越えて侵攻したロシア軍によって、グルジア領内の鉄道は寸断され、港湾施設は爆破された。
 グルジアなどのカフカス地域はロシアと歴史的に縁が深い。だが、今回の軍事行動によって、ロシアへの不信や反発が世界に広がったことをメドベージェフ大統領は忘れてはならない。
 ロシア軍の侵攻を非難して、北大西洋条約機構はロシアとの対話のパイプを凍結した。旧ソ連による抑圧を経験したバルト3国やウクライナ、東欧諸国では反ロ感情が燃え上がった。
 グルジアの安定にとって懸念されるのは、領内に残るロシア軍の動向だ。
 ロシアは「撤退は完了した」としている。だが実際には南オセチア、アブハジア自治共和国の両地域に沿ったグルジア領内に「安全地帯」を設け、「平和維持部隊」の名目でロシア軍を駐留させ続けている。
 安全地帯の設立は停戦合意で認められている。だが本来は、紛争の当事者を除いた国際部隊を駐留させるのが筋だ。安全地帯から離れた都市で駐留しているが、これは合意違反だ。
 ロシアの影響力が強い南オセチアやアブハジアでは分離独立の動きが続いている。ロシア軍の駐留が長期化すれば、両地域での動きに拍車をかけ、問題を一層こじらせるだろう。
 混乱を避けるために、ロシア軍はグルジア領内から部隊を全面的に撤退させなければならない。グルジアの領土の一体性も尊重する必要がある。こうしたことについて国連安保理の協議でロシアは譲歩し、合意を急ぐべきだ。
 正常化のために米国や欧州諸国が負っている責任も大きい。
 米ブッシュ政権はこの間、ロシア非難のトーンを上げてきた。グルジアの親米派政権の土台が脅かされたことへの反発からだろう。だが、今はかつての冷戦時代ではない。「対テロ戦争」から世界経済の運営や地球温暖化にいたるまで、ロシアの協力が欠かせない問題ばかりである。
 欧州諸国が紛争仲介に熱心なのは、米ロ関係の悪化が欧州の安全保障に影響しかねないとの懸念からだ。
 領土問題へのロシアの姿勢には無関心ではいられない。日本政府はカフカス地域の安定のため、まず、全面撤退に踏み切るよう、ロシアに働きかけてもらいたい。」

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by ksyuumei | 2008-08-27 09:36 | 論理

報道記事の形式論理的分析 1

インターネットで配信されている「「問題ない」太田農水相が辞任を否定 事務所費問題」(8月26日12時21分配信 産経新聞)という記事の内容を形式論理の観点から眺めて見ようと思う。形式論理の観点から眺めるというのは、そこに書かれている文章を「命題」として解釈してみようということだ。まずは全文引用しておく。


「太田誠一農水相の政治団体が秘書官宅に多額の事務所費を計上していた問題で、太田氏は26日、記者会見し、「問題は全くないと思っている」と述べ、辞任を否定した。
 町村信孝官房長官は26日午前、首相官邸で閣議前に太田誠一農林水産相に会い、この問題について説明を求めた。太田氏は「しっかりとやっている」と答えたという。
 この後、町村氏は記者会見で「政治資金の透明性確保はすべての政治家にとって大きな課題であり責任である。特に閣僚についてはより大きな責任があることは間違いない」と強調。その上で「事務所費の中にはいろいろな支出項目があり、秘書の自宅を事務所として届け出ていたからといって全部不正であるとは言い切れないのではないか」と述べ、太田氏を擁護した。進退については「そういうことをうんぬんする話ではない」と否定した。
 自民党の麻生太郎幹事長は26日午前、役員会後の記者会見で「個人事務所(の問題)なので説明責任は政治家個人に問われている」と述べ、太田氏自らが説明責任を果たすべきだとの考えを示した。
 一方、民主党の鳩山由紀夫幹事長は同日午前、都内で記者団に「臨時国会の開会前にお辞めになるしかないのではないか。福田康夫首相の任命責任も大きい」と述べた。」


まずはここから原子命題(複数の命題を結合したものではない)として取り出せるものを全部探し出す。以下のようなものが取り出せるだろう。

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by ksyuumei | 2008-08-26 17:50 | 論理

マルクス主義批判

僕にとってマルクス主義批判の内容は、ずっと長い間「官許マルクス主義批判」だった。それは三浦つとむさんが展開していた批判で、共産主義政党などの権威あるものが主張していた、権力からのお墨付きをもらったマルクス主義に対する批判というものだった。細かい内容には立ち入らないが、それは論理的にいえば、権威あると言われている正統的マルクス主義がいかにマルクスを「誤解」しているかという批判だった。マルクスやエンゲルスの主張に対する理解の間違いを指摘するという形での批判だった。

三浦さんはレーニンや毛沢東の弁証法に対する理解を批判していた。三浦さんには『レーニンから疑え』という著書があるけれど、当時誰もが正しいと信じて疑わなかったレーニンでさえも間違っているという批判はそれを発表するだけでもたいへんだった。三浦さんがスターリンの言語論を批判したときは、スターリンは当時の最高権威であり、言語学者でもないスターリンが語った言語に関する理論でさえも人々は正しいと信じて疑わなかったようだ。

後にスターリンはソ連でも批判されてその偶像はいっぺんに壊れた。今ではことさらスターリンが間違っているというのは声を上げて言うことではなく、ごくありふれたものとして受け止められているだろう。だが当時の雰囲気から言えば、キリスト教徒に向かってイエスが間違っていると指摘するようなものだったのではないかと思う。それは批判すること自体がけしからんことだと思われたようだ。

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by ksyuumei | 2008-08-24 14:51 | 雑文

理解の道具としての形式論理 7

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」で語っている「権力反射」と「権力接続」という概念は、全体の論理構造の中ではどのような位置を占めているのだろうか。この概念を運用して、その中に含まれている意味を引き出したとき、政治システムというものを捉える理論全体ではその論理的帰結がどのような意味を持ってシステム理論というものを見させてくれるのかを考えてみたい。

政治システムというのは、そもそも政治的決定といわれているもの(民主主義体制では多数者の意志が決定される)に社会の大多数の人々が従う現象のメカニズムを説明するものだった。人間には意志の自由があるにもかかわらず、決定に反する意志を持つものは少なく、大部分が決定に従うことによって社会は安定と秩序を保つ。これはシステムとしてある種のフィードバックを繰り返すことで、その秩序を保っていると考えるのがシステムの発想だ。

権力という概念は、この人間の意志に働きかけて、決定と外れるような意志を持とうとすると、それに対して制限をするような圧力として機能するものと考えられている。というよりは、そのような現象が見られたとき、その機能を発揮するものを権力と呼んでいるといった方がいいだろうか。そうすると、システムの中のループを構成し、フィードバックの道筋を作るものが「権力反射」および「権力接続」というものの概念と考えられるだろうか。この概念から引き出せる論理的な展開は、権力というものが個々の人間存在に働きかける個別的なものとしてまず抽象されていたのだが、それを社会全体にループを広げる契機として設定できるということが概念から引き出せるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-23 09:55 | 宮台真司

不可能性の証明

大学生の頃に夢中になって考えていたパズルに次のようなものがあった。5行5列の正方形の形に並んだ黒い点がある。

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この黒点を一筆書きのようにして線で結ぶのだが、そのときに縦と横には線を引けるのだが、斜めに引いてはいけないという制限を設ける。上のような正方形の形に関しては解答は簡単に見つかる。たとえば次のようにすればよい。

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by ksyuumei | 2008-08-22 23:24 | 論理

理解の道具としての形式論理 6

今回宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」の中で取り上げるテーマは「権力反射」と「権力接続」という概念だ。これはかなり複雑な概念で、しかも高度に抽象的なものだ。それゆえ理解をすることがたいへん難しい。

この概念は「権力源泉の社会的配置」を考察するための道具なのだが、権力を可能にする何らかの圧力をもたらす力であるところの「源泉」というものが、社会においてはどのように複雑に絡み合っているかで、その権力が人々に「回避的選択」を選ばせるという効率に関係してくる。強大な権力の源泉において、その力が「反射」するというニュアンスと、「接続」するというニュアンスがどう違うかを理解し、それが社会の成員という大多数の人々の間でどのようにつながっていくかという複雑さをイメージ出来なければならない。それが出来たとき「権力反射」と「権力接続」の概念が理解できたと言えるだろう。

さて「反射」というイメージで最も分かりやすいものは鏡による光の反射のような現象だろうか。このとき我々は「反射」という言葉で何を表現しているだろうか。光は障害物がなければまっすぐ進む性質を持っている。だが鏡に当たった光はそこで鏡によって進む方向を変えられる。この進行方向の変化ということが「反射」という表現のニュアンスで大事なものになるだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-22 10:03 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 5

さて前回引用しておいただけの宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」の次の文章の考察をしてみよう。


「以上の復習を纏めると、権力を可能にする了解操縦とは、相手の了解において「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ことだと言えます。人称性の操縦による「抵抗の宛先の不在」も「抵抗の宛先の分厚さ」も、回避的状態への否定的選好を強める働きをします。」


この文章で重要なのは、「回避的状態への否定的選好を強める働きをします」という主張が、論理的に導かれていることを理解することだ。それは現実の権力現象を観察して、観察した結果として「そのように見える」と主張しているのではない。もしそれが観察の結果に過ぎないのであれば、そのときはそうだっただろうが、それが普遍的な法則性を持っているかどうかは分からないとしか言えないだろう。帰納的推論は、「そう見える」ということから「そうだ」という結論を引き出そうとするもので、これは仮説以上のものはもたらさない。しかし、演繹的推論によって論理的に導かれた結論は普遍性を持つ。

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by ksyuumei | 2008-08-21 09:39 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 4

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」で次に論じられている「権力の人称性」ということの意味を考えてみようと思う。これは「最も重要な了解操縦」と書かれている。

宮台氏の権力論では、直接の物質的な力そのものを「権力」と呼んでいるのではなく、服従者が理想状況と考える選択を選ぶことが出来ずに、現状の条件での次善策を選ばざるを得ないときにそこに権力現象を見て、それを可能にする何かを「権力」と呼んでいた。そして、その何かは「選好構造」と「予期構造」によって表現されていた。この何かは、実体として提出できるものではなく、そのような「回避選択」をもたらすような装置として機能的に捉えられているように思う。

この装置をうまく働かせる、つまり権力者の意図を実現させるように服従者の「選好構造」と「予期構造」を操縦することが「了解操縦」と表現されている。これは、「選好構造」と「予期構造」を確定すれば、そこから必然的に「回避選択」が出てくるように構造を作り上げるということだ。この構造の構築が「了解操縦」といわれている。

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by ksyuumei | 2008-08-19 10:02 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 3

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」に書かれていることで、今回は「宮台理論の特徴は、権力が服従者の了解(選好と予期)に即して定義されることです。了解の正しさは問われません」ということの意味を考えてみよう。

宮台氏の「権力の予期理論」では、「選好」と「予期」とはいくつかの選択肢で与えられる。最も単純なものでは、肯定と否定との選択肢が与えられ、それのいずれかを選ぶかということで「権力」の体験が語られていた。最も望ましいと思える選択肢が選べず、現実の条件ではそれが最も不利益にならないというものが選ばれる。選好の最適なもの(理想状態)と、現実に圧力を受けて予期から選択される次善的なものとがずれる。このずれに「権力」の体験を見ようというのが宮台氏の理論だ。

強盗に襲われたときに、ピストルで撃つと脅され、金を出せといわれる体験をしたとする。このとき、撃たれずに金も出さないということが理想の選択だが、これは現実ではあり得ないだろうと予期する。現実に最もありそうなものは、金を出さなければ撃たれるというものだ。その状態は大きな不利益になるので、せめてそれを避けるためにでも金を出すという選択を取らざるを得ない。こう判断するのが「権力」の体験だと考える。自分の利益になる方を選びたいという意志に反した行動を取らざるを得ないという圧力が「権力」として感じられる。

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by ksyuumei | 2008-08-18 09:59 | 宮台真司