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システムの「秩序」という概念

宮台真司氏は「連載第四回:秩序とは何か?」では「秩序」という概念を説明している。この概念も、普通に辞書的に受け止めている「秩序」という言葉の意味と、宮台氏がここで語っている意味とでは大きな違いがあるのを感じる。

「秩序」という言葉が普通に使われる場面では、そこに望ましいと評価される規則性があるのを感じる。つまり「秩序」には価値評価が伴っているという感じがする。「秩序」がないと判断される場合は、それは価値が下がったように評価され、何とか「秩序」の回復を図るというふうに考えたくなる。

「秩序」は安定をもたらすと考えられる。「秩序」のある経済は我々の日常生活を安定させ、安心して物を買ったり売ったり出来る。「秩序」のない経済は、たとえばインフレがひどくなった状態を想像すれば、物を売るにも買うにも、どこでそれをすればいいのかという判断が分からなくなり、人々の生活は困窮する。ひどく困った状態が「秩序」の乱れから帰結される。

この「秩序」にまとわりついたイメージは、実は特定の文脈にくっついたイメージかもしれない。「秩序」そのものには価値的判断は本質的なものではなく、もっと一般性を持った特長が抽象されて、「秩序」の本質を押さえたような概念が「一般理論」の対象となるべきだと考えることも出来る。このような発想で提出された「秩序」の概念が、宮台氏がここで語っているものではないかと思われる。

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by ksyuumei | 2008-07-08 10:21 | 宮台真司

「システム」概念の難しさ

宮台真司氏は「連載第三回:システムとは何か?」の中で「システム」というものについて語っている。「システム」については、これまでも何度か考えてきたが、その概念をつかむことの難しさを今でも感じている。

「システム」という言葉を辞書で引くと「制度。組織。体系。系統」などという言葉が並んでいる。そのイメージは、それを構成する要素相互の間に関係がつけられていて、全体が一つのまとまったものとして機能する「全体性」を持ったものが「システム」と呼ばれているもののようだ。

「身分制度」などという制度を考えてみると、それは社会における一つのルールのようなものとして現前する。生まれつき決まっている「身分」というものがあって、社会の中の誰もがその「身分」にしたがって生きていく。「身分制度」という「制度」としてのシステムは、誰もが「身分」に従って生きるという社会の秩序を維持する機能をもっている。個々の「身分」の人々の振舞いを規定する「身分制度」は、全体として社会のある秩序を維持するものとして働く。このようなイメージがシステムというようなものになるだろうか。

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by ksyuumei | 2008-07-08 00:44 | 宮台真司

「近代」と「一般理論」の概念

宮台真司氏の「連載第二回:「一般理論」とは何か」では、「社会」という概念に続いて、「近代」と「一般理論」の概念について解説されている。この二つの概念も、辞書的な意味としてはぼんやりとイメージできるものの、明確に他のものと区別してこうだ、というような概念をつかんでいるとは言いがたい。これらの概念を明確につかむことは出来るだろうか。

宮台氏は現在の日本を「近代成熟期」と呼んでいて、戦後の高度経済成長期までを「近代過渡期」と呼んでいる。イメージとしては、物の豊かさが飽和状態に達したかどうかで区別するという感じになるだろうか。また「近代」がスタートしたのは明治維新からという漠然とした理解もある。明治以前の江戸時代は「近代」ではないという理解だ。それでは、「近代」とそれ以前の決定的な違いはどこにあるのだろうか。

板倉さんの『日本歴史入門』(仮説社)では、江戸時代は「身分制度の時代」と呼ばれ生まれつきで生き方が決まってしまう時代と捉えられていた。それが明治維新以後になると、一応は個人の努力によって運命を切り開いていける時代になった。学問による立身出世が可能な時代になっている。江戸時代だったら、どれほど有能であろうとも有力な家系に生れなければその才能を生かすことは出来なかった。しかし「近代」になった明治には、それまでなかった「自由」がかなり生れたという感じがする。

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by ksyuumei | 2008-07-07 09:54 | 宮台真司

宮台真司氏が提出する新たな概念

宮台真司氏が書いた「社会学入門講座」から、その科学性を評価してみようと思ったのだが、残念ながら法則性とそれから導かれる予想を読み取ることが出来なかった。これが読み取れなければ、板倉さんが言う意味での「仮説実験の論理」による「科学」の判定が出来ない。おそらく社会学における法則性は、その概念の難しさから来るのであろうが、簡単につかめるものではないのだろう。自然科学であれば、原子論や力学法則はその表現されたものが分かりやすいのだが、社会学では概念の難しさのせいで法則性が提出されたとしても、その意味を理解するのが難しいのではないかと思う。

そこで社会学の科学性はひとまず置いておいて、宮台氏が語る社会学の学術用語としてのさまざまな言葉の概念について詳しく考えてみようと思う。その概念がうまくつかめたときに、もしかしたら社会学において、その科学性を評価できるような法則性の表現にぶつかるかもしれない。

宮台氏は、「連載第一回:「社会」とは何か」という講座では、表題にあるように「社会」という概念について解説している。これは辞書的な意味では誰でも知っているようなありふれた概念だが、社会学ではもっと深みのある複雑な内容を持った概念として提出されている。

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by ksyuumei | 2008-07-07 00:07 | 宮台真司

社会「科学」の可能性

自然科学の分野が「科学」であるという共通理解は、自然科学系(日本では理科系、宮台氏の言葉でいえば数学系)の人間にはだいたい共有されている認識だと思う。それは、板倉さんが語る意味での「科学」という概念で考えても、確かに「科学」だと納得できるものだ。

自然科学で対象になるものは一般的な抽象的存在になる。物質の運動の法則を理論化しようとしても、それは目の前にある具体的な物質にのみ当てはまる経験的な法則ではない。その物質がこのように運動したからという経験を記憶しておいて、この次もたぶんこうなるだろうというような形で記述されるものではない。

運動を考察する力学では、物質一般としてある「質量」を持った対象について成立する法則を求める。もっとも単純で考えやすいものは、その質量が1点に集まった「質点」というものを想定して、その質点にかかる力を考察する。「質量」や「質点」という概念が、力学の対象を一般的に扱うことを可能にし、その概念操作としての思考が力学のさまざまな命題を発見させ、それを「仮説」として考える。その「仮説」が常に成り立つ命題であるという「実験」を考案して、「仮説実験の論理」を経ることによって力学の「仮説」は、現実的な真理(相対的真理)となり「科学」になる。

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by ksyuumei | 2008-07-06 10:13 | 科学

心理学や言語学は「科学」になりうるか

ソシュールは言語学を科学として確立したといわれている。それまでの事実の寄せ集めを解釈していただけの言語理論を、科学という理論体系として打ち立てたと評価されているのだろう。この解釈学から科学への飛躍は、その研究対象として「ラング」というものを提出したことに求められている。「ラング」の発見こそが言語学という科学を生む基になったというわけだ。

「科学」という言葉の概念は、人によってかなり違うところがあるだろう。僕は、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんからその概念を学んだ。その概念は、「科学」と科学でないものを明確に区別し、科学の有効性をはっきりと分からせてくれるものとして、僕は板倉さんが語る以外の概念で「科学」を捉えることが出来なくなってしまった感じがする。そこで、板倉さん的な概念でソシュールが語る言語学が果たして科学になるものかというのを考えてみたいと思う。

板倉さんが考える「科学」というのは、「仮説実験の論理」というものを経て、それが一般的・普遍的な真理であるということが確立された命題あるいは命題群(理論体系)のことを指す。「科学」というのは、現実の対象に対して成立する「真理」を意味する。そして、その真理は一般的・普遍的であることが特徴で、ある時間・場所・対象がたまたまそうであったという偶然成立した真理とは区別される。

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by ksyuumei | 2008-07-05 21:35 | 科学

言語の「価値」という概念は、思考の展開にどのような新しさをもたらすか

内田さんが語るソシュールには言語の「価値」という概念が登場する。この「価値」は辞書的な・日常的な意味とは違うものを含んでいる。そこには新しい概念が表現されている。この「価値」という言葉によって新たに発見された概念は、思考の展開においてどのような利用のされ方をしているだろうか。そして、この概念があるおかげで、言語現象の複雑な側面がよりはっきりと見えてくるということがあるだろうか。もしそのような有効性をこの概念がもたらすなら、人間は新たな概念を生み出す言語によって、現実世界を人間に理解できる形で切り取ったといえるのではないだろうか。

さて「価値」というのは、それが何か貴重な、人間にとって大事だと思えるような性質を持っているというときに「価値がある」という言い方をする。だから、「言語の価値」という言い方を辞書的に受け取ってしまえば、「言語がいかに貴重で大事か」ということを指し示すものと解釈されてしまう。しかし、このような意味ならばわざわざ新たな概念として考える必要はない。辞書的な、それまであった概念で理解していても十分だ。

ソシュールが語る「価値」は、それが個別的な性質として大事だとかいう感覚を生むものとして捉えられているのではない。つまり、自分にとっての個性的な「価値」を語っているのではない。社会の中で、誰もがそれを欲するというとき、多くの人がそれを欲望するということが確認されるとき、その対象は、他の欲望されないものよりも「価値がある」という判断をされる。この「価値」は、他の存在との比較によって相対的にそれが高いか低いかが判断されるものとして想定されている。

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by ksyuumei | 2008-07-04 10:14 | 言語

新しい概念の獲得は思考の展開にどのような影響を与えるか

ソシュール的な発想で考えれば、言語は、混沌として区別のはっきりしない現実に対して、言語で表現することによって概念の差異をはっきりさせ、現実にある構造を持ち込んでそれを理解しようとする。言語の発生と同時に、現実の対象を概念的に捉えることも可能になり、それが思考の対象ともなると考えているようだ。

それを言語で捉える前は、それが存在していたとしても、その言語を持たない人間にはそれが見えていない。devilfish という言葉を持たない人間には、devilfish という存在は見えていない。従ってそれを考察の対象にすることも出来ない。思考の展開には言語が必要だというのは、野矢茂樹さんが語るウィトゲンシュタインの発想でもあった。三浦つとむさんは、かつてヘーゲルを説明した文章で、思考の展開というものを概念の操作で説明していたように記憶している。概念を操作するとしたら、そのラベルとしてつけられている言語を操作することにもなり、ウィトゲンシュタインが語る「論理形式」に従った操作のようなものになるのではないだろうか。違う側面から思考というものに切り込んださまざまな発想が、最終的には似たところに落ち着くというのは、それが真理である可能性が高いのではないかと思う。

概念の獲得は、思考の展開に影響を与え、豊富な概念を理解している人間は、現実を広く深く捉えて思考することが出来るようになるだろう。そして概念が言語を通じて理解されるとしたら、語彙を豊かに持っている人間ほど思考も豊かになるといえるのではないかと思う。この語彙というものは、現在生きている我々は、言語の意味も言語を通じて教育される。その概念の理解は、現実の経験を通じてやられた方がより深い理解が出来るようになるだろうが、言語なしに経験を反省して言語を作り出すというやり方ではなく、まず言語としてのある言葉の提出があって、その言葉の意味を理解するために経験に助けを求めるという順番になる。

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by ksyuumei | 2008-07-03 09:58 | 雑文

他人の原稿に赤を入れることの容易さ

マル激の中で、神保哲生さんが何かの折に「他人の原稿に赤を入れるというのは誰でも出来るんですよね」というようなことを語っていたことが、妙に印象的で頭に残っている。これは神保さんが経験的にそういうことがよくあったということで語っていたことだった。

記者の原稿というのはデスクに回されていろいろと修正されて完成するのだが、そのときの修正に赤ペンが使われるので、それを「赤を入れる」などと言う。これは、そのままの原稿があまりよくないので、よりよいものに修正するというニュアンスで受け取ると、「赤を入れる」方が元原稿を書いた記者よりも優れていると考えたくなる。しかしそうでないことも多いという。

取材力も文章表現能力も記者のほうが上でも、その元原稿に赤を入れるのは可能だという。そして、それは決して恣意的に、デタラメに修正して「赤を入れる」のではなく、ちゃんとした方針に添って修正できるという。この方針は、必ずしもジャーナリズムの原則にのっとったものではなく、商業的に「売れるニュース」になるような方針で修正するとなれば、元原稿を書いた記者のほうがジャーナリストとしてはるかに優れていても、その方針に従った正しい修正が出来るということだ。

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by ksyuumei | 2008-07-02 09:55 | 雑文

原子概念誕生の瞬間を想像してみる

原子論というのは、「すべての物質は非常に小さな粒子(原子)で構成される」という主張の事を指す。これは今では科学的に正しいということが証明され、すべての科学者はこのことを前提として科学的な考察をしている。だから「原子論」については、それが正しいということや、その正しさが確立されてきた歴史というものはいろいろと解説してくれる資料は多い。

僕の尊敬する板倉聖宣さんも、『原子論の歴史(上)(下)』(仮説社)という本で原子論の正しさとその「論」の歴史については詳しく書いている。だがここで想像したいのは「論」の正しさではなく、「論」の意味を正しく受け取るための「原子」の概念がどのように誕生してきたかということだ。

「目に見えないほど小さい」とか「すべての物質の構成単位としての極限的なもの」であるとかいう「原子」のイメージがどのようにして生まれてきたのかということを想像したい。これはそのような問題意識で書かれた解説はまったく見つからなかった。「原子論」の正しさを解説する本はたくさんあるけれど、その元になった「原子」という言葉の概念はどのようにして獲得されたかということが書かれているものは見つからなかった。それで仕方がないので自分で想像してみようと思う。この想像が、ソシュールが語る「言語と概念は同時に生まれた」ということの理解に何らかのヒントを与えるのではないかと思うからだ。

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by ksyuumei | 2008-07-01 09:59 | 雑文