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思考の展開という概念運用のための「行為」の概念

宮台真司氏が「連載第一三回:「行為」とは何か?」で提出する「行為」については、すでに一回説明されたものである。その時は、外に現れる客観的観察の対象としての「行動」に対して、意味的な要素をもつものとして「行為」が定義された。つまり、「行動」としては同じだと見なされても、その意味が違う場合があり、「行為」としては違うという判断がなされるときがあるというわけだ。

「行為」の同一性の判断には意味の判断が伴うので、「行動」の同一性の判断よりも難しくなる。「行動」というのは、外に現れた形で同一性が判断できるので、客観的な測定可能なデータで同一性の判断ができるだろう。時間や位置情報を測定してデータとし、それが同じであれば「行動」としては同じだと判断することが出来る。ある意味では、そこにこめられた「意味」を捨象して、意味に関係のないデータで判断するのが「行動」だともいえる。「行為」と「行動」は、それぞれの概念が互いに否定あるいは補完の関係にあって概念が確定される。ソシュールの指摘にかなうような性質を持っている。

この「行為」の概念は抽象的ではあるがイメージはしやすい。意味が理解できれば、「行動」は同じだが「行為」としては違うということも想像できる。宮台氏は、「馬鹿だな、お前は」というような言葉を言うことが、その意味の違いによって「愛情表現という行為」になったり「軽蔑の行為」になったりすることを指摘していた。これが「行動」としては同じだが、「行為」としては違うというイメージだろうか。もちろん、意味が同じだと見なされたときに「行為」も同じだという判断がされる。

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by ksyuumei | 2008-07-19 13:27 | 宮台真司

「社会統合」の概念

宮台真司氏が「連載第十二回:社会統合とは何か?」で解説するのは「社会統合」についてだ。これは、「社会」の「統合」について説明しているものと考えられる。この二つのうち「統合」のほうは「二つ以上のものを合わせて一つにすること」と辞書的には説明される。この言葉に特に専門的に特別な意味は含まれていないように思われる。

しかし「社会」という言葉には、その視点の違いによってさまざまな異なる見え方があるように思う。その見え方の違いによって「社会統合」の概念が違ってくるだろう。「社会」というものをどのようなものとして見るかで、その「統合」すなわち「何によって構成されているか」という、何が合わさって一つの「社会」という存在が見えているのかというイメージが違ってくるだろう。

仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが、社会科学について語るとき、社会というものの難しさは、個人の感覚がそのまま拡大して社会の法則性が予測されることがないということだと指摘している。社会は個人の延長として見通すことが出来ない。目の前に見ている事実から、ある種の判断をしても、それは特殊な側面を見ているだけで、社会全体を見ていることにならないことが多いということだ。個人に当てはまることが必ずしも社会には当てはまらない。社会を見るには、全体を把握するための道具が必要で、板倉さんはそれを「統計」というものに見ていた。

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by ksyuumei | 2008-07-18 10:17 | 宮台真司

機能的側面から見た「制度」の概念

宮台真司氏が「連載第十一回:制度とは何か?」で語るのは「制度」という言葉の概念だ。これの辞書的な意味は、「社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり」というもので、「ルール」という言葉で言い換えることの出来るものだろう。ルールは、明文化されているものもあるが、ある種の表現で語られるものという実体的な側面を持っている。

この辞書的な概念は、そこに制度があることを判断するために観察に用いるのは便利だ。人間の行動がある種のルールに従っているように見えるところで、そのルールが個人的なものではなく、社会全体に行き渡っているように見えれば、そこに「制度」が存在することが分かる。そして、その従い方を観察すれば、具体的な「制度」の中身も観察することが出来る。観察という行為において、実体的な概念は、観察したものがそれであるかどうかという判断に役立つ概念になる。

しかし、実体概念は、それがどのような論理展開で変化していくかを見るのはなかなか難しい。実体というのは、もともと変化しない固定的な姿をしているから実体として捉えることが出来るものだからだ。実体面を見ている時は、その対象は変化せず同じものにとどまる。論理が展開する様子を反映してくれない。

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by ksyuumei | 2008-07-17 00:49 | 宮台真司

「偶発性」の概念とそれが二重であることの理解

宮台真司氏が「連載第十回:二重の偶発性とは何か」で説明するのは「二重の偶発性」というものだ。ここで語られている「偶発性」という言葉は辞書的な意味に近い。それは基本的には「必然性」に対立するものとして理解される。宮台氏の言葉で言えば、可能性としては他のものでもあり得たのに、たまたま(偶然)そのようになっているというような現象が起こっているのを「偶発性」と呼んでいる。

現実の我々の世界は「偶発性」に満たされている。必然性を洞察できる科学的真理もあるが、それは特定の対象にのみ適用できるもので、大部分は偶然そうなっているとしかいえないだろう。この偶発性に対して人間は意味の機能を用いてそれを理解しようとする。宮台氏は「偶発性に対処して選び直しを可能にする、否定性をプールする選択形式」を意味の機能として捉えて、我々の世界理解を説明している。現実には否定された他の可能性を選びなおすという機能を通じて我々はいま目の前にある世界を理解しようとする。

我々の思考が論理の展開などというものを経ずに、目の前の現象を単純に受け止めて、それを刺激として反応するだけであれば意味の機能は必要ない。本能的な対応のメカニズムがあれば十分だろう。しかし人間は単に刺激に反応するのではなく、意味を経由して現実に対処する。これが過去の記憶からの学習や、未来の予測からの「予期」を形成するきっかけとなる。意味の概念から選択の持続の理解が生れ、それが過去や未来の概念を生み、人間の世界認識が深く広くなっていく変化をもたらす。

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by ksyuumei | 2008-07-16 09:57 | 宮台真司

機能的側面に注目した「宗教」と「他者」の概念

宮台真司氏が「連載第九回 予期とは何か?」で触れていた「宗教」と「他者」の概念についてもう少し詳しく考えてみようと思う。宮台氏は、ここで「宗教」について「宗教とは、前提を欠いた偶発性を、無害化して受け入れさせる機能的装置です」と語っている。

ここで言う機能とは、「そのままでは不安を惹起する」「前提を欠いた偶発性を「世界体験」や「現にある社会」からかき集めて、「神」や「英雄」に帰属し、理解と儀式の対象にすることで不安を鎮める」というものだ。この宗教の定義(概念)は、極めて一般理論的な言い方ではないかと思う。あらゆる宗教に対してこの言い方が当てはまり、それは文脈自由なものとして、機能的側面を語りたいときに有効となる。つまり、宗教という概念を論理展開のための道具として使うには扱いやすい概念となっているだろう。

しかしこの概念は、一般理論的であるがゆえに、普通の日常用語としての宗教というイメージだけを持っている人には、なんでこれが宗教なんだという引っ掛かりがあるのではないかと思う。日常用語としての宗教は、このような抽象された言い方ではなく、いつでもある特定の宗教と結びついたイメージで語られるのではないだろうか。それはキリスト教であったり仏教であったりするだろうが、宗教というのは、そのような具体性のイメージが普通は強く出てくる概念ではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-07-15 23:22 | 宮台真司

信頼の本質としての「予期」の概念

宮台真司氏が「連載第九回 予期とは何か?」で語る「予期」という概念を考えてみたい。この回の講座では「予期」のほかにも重要な概念がいくつか提出されているのだが、まずは「予期」という最重要な概念について、その明確なイメージをつかむことに努力してみようと思う。

この「予期」はもちろん社会学という学問における専門用語で術語と呼ばれる学術用語になる。したがって、日常的に使用する辞書的な意味を持つ「予期」とは概念が違うだろうと予想できる。いつものように辞書的な意味をはっきりさせて、それをさらに抽象して、システムを考える上での「信頼」をより明確にさせうるような概念として「予期」というものの本質的な意味をつかんでみようと思う。

「予期」を辞書で調べてみると、「前もって期待すること」と書かれている。まさに文字通り「予」という言葉を「予定」「予想」などに使われている「あらかじめ」「前もって」などという意味で解釈し、「期」という言葉を、「期待」という意味で解釈している。辞書的な意味は、「信頼」のときもそうだったが、やはり個人が持っている認識との関連でイメージされているように思う。「前もって期待する」というのは、個人の心の働きとしてそのような現象が想定されているように感じる。これを社会学で取り扱う概念として利用するには、個人ではなく、社会における「予期」として概念化する必要があるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-07-15 09:45 | 宮台真司

社会における「合意」と「信頼」(個人の場合とどう違うか?)

宮台真司氏は「連載第八回 社会秩序の合意モデルと信頼モデル」では、「合意モデル」と「信頼モデル」という考察で、社会が持つ秩序(確率的に低い状態が実現すること)の出発点となるものを考えている。

社会が定常性という秩序を持つのは、ある種の状況の変化が特定の選択肢をめぐってループする関係にあるものとして、特定のものが現実化することによって確率的に低い状態が定常的に維持されるからだと考えるのがシステムの考え方だと僕は理解した。このループは、そのどの状態が出発点になろうとも、ループである以上は、いったんその流れが生じれば安定的に定常性を保つようになる。だから、ある意味ではどこが出発点でもかまわないのだが、論理的な整合性が理解できる出発点として「合意」と「信頼」というものが想定されているように感じる。

内田さんが語る構造主義では、現実の社会がどうなっているかは、現実のそれを観察することで解釈できるが、それがなぜそうなっているかという出発点は決して知りえないものとして、こうなっているからそうなのだとしか言えないものとして提出されていた。ただ、原理的には決して解明できないものの、その出発点としての「零度」の探求が構造主義であるとも語られていた。これは、フィクションとしての、数学で言えば公理のようなものを設定して、論理の展開のために便宜的にそう考えてみて、もしそれで論理的整合性が取れるなら、そのようなものを「モデル」として設定することで、現実の一側面の理解を深めようとしているように思われる。

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by ksyuumei | 2008-07-15 00:43 | 宮台真司

選択前提理解のための「自由」の概念

宮台真司氏は「連載第7回 選択前提とは何か」の中で「自由」の概念について詳しく説明している。これは「選択前提」という言葉の理解のために、その「選択」が「自由」に選べるということの意味の理解が必要だからだ。「自由」に選べないような、これしか選択肢がないというような「選択」は、本来の意味での「選択」とは呼べないからだろう。

この「自由」については、三浦さんも何回も紹介していたが、ヘーゲルの「必然性の洞察」という言葉が「自由」の本来の意味(概念)であるという理解がある。「必然性」というのは、「必ずそうなる」ということであって、そこには「選択の余地はない」というニュアンスもある。そうすると「自由」もないのではないかという感じもしてくるのだが、この「自由でない状態がもっとも自由である」という、それが「自由」の最高段階だという認識は、弁証法的な把握であり、現実を深く広く認識したものだと思われる。

必然性を洞察することが出来る人間は、何らかの行動において、自分が操作したい対象がどのような必然性に従うかをよく知っている。自分の目的に合うように対象を操作したいと思ったとき、その目的では絶対に操作できないという必然性が分かれば、賢い人間なら目的の方を変更するだろう。あるいは対象をそのままにせずに、目的を達成できるように対象に手を加えて変化させるというようなことを考えるだろう。あくまでも目的達成にこだわって、無理やりにそれを扱うということはない。

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by ksyuumei | 2008-07-11 09:50 | 宮台真司

「構造」という概念

宮台真司氏が「連載第六回 構造とは何か」で説明している「構造」という概念について考えてみよう。まずはこれの辞書的な意味から生まれてくるイメージを考え、その概念を考えてみよう。そして、宮台氏が説明する概念が、それとどのような面で重なるか、どのような面で違うかということを考えてみたい。

「構造」という言葉は、辞書的には「仕組み」と言い換えられることがある。これはその対象の部分的な要素がどのように組み合わされているかということを見たときに、その組み合わせ方を「仕組み」と呼ぶことがある。部分と部分を実体的に見るのではなく、その関係を捉える見方になる。「構造」は対象の全体に渡るものだが、それは部分の間の関係として我々には直接見えるものとなる。

また「構造」には、それが容易には崩れないというイメージがある。あるいは、容易に崩れるようなことがあっては困るものに対して「構造」を考えることが多いといえるだろうか。建物の構造などは、それが簡単に崩れてつぶれてしまうようならたいへん困ることになる。それこそ地震などが起こってもそれに耐えるくらいに強い「構造」が求められるといえるだろう。

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by ksyuumei | 2008-07-09 10:08 | 宮台真司

社会システム理解のための「意味」「行為」「コミュニケーション」という概念

宮台真司氏は「連載第五回 社会システムとは何か」では「社会システム」というものを説明している。これは、宮台氏が考察しようとしているシステム一般を表す「定常システム」に対して、それが社会の中に見つかるという意味での特殊性を持っている対象として考えられている。社会の中、すなわち人間が関わって構成されるシステムは、人間存在とは独立に存在する物質的で機械的な「定常システム」とはその性質を異にする。

人間と独立に存在するシステムは、意志の問題が介在しないので、外から観察することによってシステムの働きを記述することが出来る。宮台氏は、対流の現象や排水のときに出来る渦巻きの現象をその例としてあげている。水を熱すると、その熱い部分と冷たい部分との作用で「対流」が起こり、それは熱している限り存在しつづけるという「定常システム」になっている。このシステムは、外からその熱量や温度を観察することによって、何が起こっているかを記述することが出来る。システムであるから、それが安定的に繰り返されるループになることも記述することが出来る。排水の現象に関してもそうである。

しかし、これが社会に存在するシステムの記述になると、外から観察するだけでは、そのシステムを完全に記述することが出来ない。自然現象と違って、人間が行うことは、それが物理的に記述できる「行動」として観察されて、行動面では同じように見えても違うものと判断されることがあるからである。そこにはある種の意味が読み取れるために、行動としては些細な違いだ(末梢的だ)と思われるのに、意味として大きく違ってくるという判断がされて、同一ではないと判断される。このように意味を伴う行動を宮台氏は「行為」とも呼んでいた。

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by ksyuumei | 2008-07-09 01:00 | 宮台真司