<   2008年 06月 ( 23 )   > この月の画像一覧

もし、言語化する以前の概念が存在するとして、果たしてそれの差異を認識できるか?

言語化する以前の概念というのは想像することがたいへん難しい。どのような概念を思い浮かべても、その概念を示す言葉が頭に浮かんできてしまうからだ。何か分からないがぼんやりと頭に浮かぶようなもの、というものが想像できない。言語のあふれる世界の中で生まれて育った僕には、言語のない世界などは想像を絶するものだ。なぜなら、想像の対象でさえ、それは言語によって思考しているからこそ想像できるのだと言えるかもしれないからだ。概念は、言語化するからこそその差異を認識できるのであって、言語化する前のラベルのない概念は、混沌として差異を認識できないのではないだろうかという思いが消えない。したがって、概念をまず捉えて、その後に言語で名付けるという過程はありそうもないような気がしている。我々は対象を言語で名付けることによってその概念も同時に獲得しているというソシュールの考えが正しいような気がしている。

その想像が困難な「何か」としての名付けられない概念は、どうしたら想像可能になるだろうか。それは、名付けられるまではどこまでも「何か」としか表現できない概念だ。この「何か」は、名付けられる以前に、果たして僕の認識の中に「あらかじめ与えられた概念」として存在することが可能かどうか。それは名付けることが出来ず、「何か」としてしか表現は出来ないが、「何か」だという認識を持っていたら、「あらかじめ与えられた概念だ」ということが出来るだろうか。

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by ksyuumei | 2008-06-30 09:24 | 言語

示差的であることは言語の本質か

みつひろさんという方から「ソシュールの命題(主張)の論理的理解」というエントリーのコメント欄に、「示差的」ということに関するコメントをもらった。このコメントは、「示差的」という言葉の意味を理解するにはたいへん分かりやすい指摘になっている。「示差的」というイメージは、おそらくここで語られているような内容を指すのだろう。言語のもっている「差異」のイメージが、その概念理解をもたらすということは納得できる。

これはこれで納得できるものの、ある種の引っかかりも感じた。それはこのエントリーの表題にもあるように、「示差的」という性質は、言語の現象を事後的に観察して得られる解釈なのか、それとも言語現象にはなくてはならない、それを欠けばもはや言語としての性質を失うというほど重要な「本質」なのか、という問題だ。ソシュールは、この「示差的」という性質を「本質」として捉えているように感じる。それならば、僕も同じように、これを「本質」だと感じられるだろうか。

「本質」に対立する言葉に「現象」というものがある。「本質」でない性質は「現象」を記述しているだけと解釈される。それは事物の一面的な真理ではあるが、全体を貫く強い真理ではなく、末梢的な・捨象してもいいような真理として捉えられる。「本質」という概念を理解するのに、このような対立的な「現象」という概念の理解が役立つというのは、ソシュールのいう、言語が「示差的」であるということの一つの証拠にもなっているような気がするが、事実としてそういうこともあるなあという理解では、それはまだ解釈の段階にとどまる。それが確かに真理であるという確信に至るには、論理的な整合性をもう少し詳しく確認する必要があるのではないかと思う。それを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-28 10:06 | 言語

ソシュールの命題(主張)の論理的理解

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』には次のようなソシュールの言葉が引用されている。


「もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。」


これは一つの命題として考えられる。この命題は仮言命題の形になっており、「ならば」でつながれている。この仮言命題は、「ならば」の前の条件が成り立つとき、必ず結論が成立すると言えるだろうか。つまり、この仮言命題は真であるということが論理的に確認できるものになるだろうか。それを考えてみたい。

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by ksyuumei | 2008-06-27 00:47 | 言語

日本語を学ぶことは日本的なもの(考え方・感覚)に同化することを伴う

僕は夜間中学に勤務をして今年で18年になるが、その間大部分を日本語を教えるということをしてきた。夜間中学には外国籍の人が多く、まずは普通の会話が出来るようにして、日常生活が送れるようにしなければならないという要求がある。そのために、本来は義務教育の中学校では教えない日本語を教えるようになっている。

この日本語教育はすでに長い歴史を持っているのだが、昔から言われてきたことは、彼らの外国人としてのアイデンティティを大事にしなければならないという主張だった。日本語を教えることは現実的な要求からなので仕方がないが、その事によってアイデンティティを失わせて、日本に同化させるような結果になってはいけないということだった。これは一理ある考え方だが、「同化させる」という内容をどう捉えるかで、もしかしたら不可能な遂行的命題になっていないかということが疑問として湧いてきた。

「同化」ということを、一切の日本的なものを排除して、あくまでも自分の国のものの考え方の枠を守っていくという純粋なものと捉えると、日本語の学習はまったく出来なくなってしまうのではないかと感じるようになった。ソシュールが語るように、言語というのは、それを学ぶことによって認識の仕方や思考の仕方に大きな影響を与え、その言語を使うことによって世界が変わるような経験をする。そして、それが意識せずに行われるところに、その言語を自由に扱うという現象が見られる。意識的にその言葉を使うことを考えながら話している時は、実はそれはその言語を自由に扱っていることにはならない。

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by ksyuumei | 2008-06-26 09:59 | 言語

素人がソシュールを学ぶ意義

僕は、日本語教育に携わり、専門としていた数学も数理論理学という、どちらかといえば言語学に近いものだった。その意味ではソシュールを「言語学」の象徴と考えれば、僕はまったくの素人とは言えないかもしれない。だがソシュールを専門に勉強してきたわけではなく、ソシュールに関する知識も乏しい。ソシュールが語ったことを直接読んだこともない。すべて誰かの解説を読んだだけだ。その意味で自分を素人と呼んでもいいだろうと思っている。

このような素人が、何か専門領域にかかるような事柄を学ぶということにどのような意義があるかを考えてみたい。一つ思いつくのは内田樹さんが、自分の専門外のことについて語るときによく言っていたことだが、素人の目が専門家が見逃していたところに注目することがあるという意義だ。内田さんは、『街場の~』という名前の著書がいくつかあるが、そこで語られているのは、専門家は最初から自明の事としてあまり顧みない、ほとんど解説しないことについて自分は考えるということだ。そのようなことを「まえがき」などに書いている。

内田さんが入門書を書くのもそのような意識からだ。専門家の書いた入門書は、ある程度予備知識がある人が全体をまとめるような感じで、要約しているような入門書になる。教科書的と言えばいいだろうか。そのような入門書は、教科書であるから、誰かが教えてくれなければよく分からないところが多いだろう。

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by ksyuumei | 2008-06-25 10:14 | 言語

解釈(仮説)はどのようなときに事実(真理)となるか

現実に起こったある出来事を観察したとき、それが確かに「事実」であると判断できるのは、二項対立的な問いに明確に答えられるかどうかで決まる、と僕は考えた。グリーンピースをめぐる事件において、彼らが鯨肉の荷物を「持ち出した」か「持ち出さなかった」かという二項対立的な問いには「持ち出した」と明確に答えることが出来る。だから、「持ち出した」ということは「事実」だと判断できる。

これに対して、その行為を「窃盗だ」「窃盗でない」という二項対立的な問いを立てると、それに対しては明確に答えることが出来ない。「窃盗だ」という解釈も出来るし、「窃盗でない」という解釈も出来る。どちらか一方の解釈をする余地がなければ、これは「事実」として確定するが、それが出来ない時は「事実」にはならない。「解釈」の段階にとどまる。

この両者の違いは何に由来するのだろうか。それは「持ち出した」という言葉の概念(意味)と、「窃盗だ」という言葉の概念(意味)の違いからそのような判断の違いが出てくるように思う。「持ち出した」という言葉が正しいかどうかの判断には、その行為者の意図というものを考慮する必要がない。外から観察する行動面だけで判断が出来る。物理的な情報データのみで結論が得られる論理展開がなされていると考えられる。

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by ksyuumei | 2008-06-24 09:52 | 雑文

事実(真理)と解釈(仮説)をどう区別するか

マル激では、神保哲生・宮台真司の両氏がその週のニュースについてコメントをする時間が最初にある。本編の議論に入る前に、今日本で起きているさまざまな出来事の中で、流通している情報とその解釈に対して、それは違うのではないかという注意を向けるようなコメントをそこではしている。今週もいろいろなニュースを扱ったが、それに共通するものとして、「事実と解釈」というものが頭に浮かんできた。さまざまなニュースの中で、そこで語られていることのどれが「事実」で、どれが「解釈」に過ぎないものなのかを見分けるリテラシー(読解能力)が重要ではないかと感じた。

「事実」というのは論理的に言えば「真理」と重なるものだろうと僕は思う。それは、それを言語として語る命題と、その命題の内容が現実に成立しているということから、「事実=真理」だと判断される。それに対して、「解釈」のほうは、現実に成立しているかどうかがまだ決定されておらず、現実に成立している事柄を、我々がどう受け止めているかという、我々の認識の方を指す概念だ。

だから解釈の方は、それが「事実」として確認されれば「真理」と呼ぶことが出来る。「事実」はわれわれの外の世界に対する判断であり、「解釈」は我々の頭の中(認識)に対する判断だと言っていいだろう。

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by ksyuumei | 2008-06-24 00:26 | 雑文

内田樹さんの分かりやすさ 10

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』では構造主義の四銃士としてレヴィ・ストロースを解説している一章がある。レヴィ・ストロースは、構造主義においては最も重要な思想家の一人として語られることが多い。構造主義の考え方を使って大きな成果を上げた人として有名だ。しかし、レヴィ・ストロースが何をして、そのどこがすごかったのかというのは分かりにくい。

レヴィ・ストロースは親族の持つ構造を明らかにしたといわれるのだが、この理解がなかなか難しい。レヴィ・ストロースが語る言説というのは、現実に存在する親族の現象を説明する解釈としては成り立つような気がする。しかし、それ以外に解釈がないかといえば、解釈するだけならいくらでも別の解釈を持ってくることが出来るような気がする。そうであれば、レヴィ・ストロースが語る言説こそが、親族の意味を明らかにした、つまりそれが真理であるということの理由があるはずで、その理由を整合的に納得できれば、なるほどレヴィ・ストロースが言うとおりだと理解できるだろう。

レヴィ・ストロースの語る命題が真理であるならば、それは科学的に証明されなければならないのではないかとも感じる。そういう見方をすると、どうもレヴィ・ストロースの言説に科学性をあまり感じないことから、それが真理であるということがなかなか理解できないのだという気がする。レヴィ・ストロースは、親族の現象(特に婚姻に関するもの)を取り上げて、それらに共通する構造を図式化することに成功した。しかし、図式化できたということそのものから、それが真理であるという結論は出てこない。図式化したものがなぜ真理なのか。それを納得したいと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-22 12:48 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 9

内田さんは『寝ながら学べる構造主義』の中で、ロラン・バルトの「作者の死」という概念を説明する。この概念は、非常に分かりにくいものだと思う。この概念に最初に僕が出会ったのは、これを批判する三浦つとむさんの文章でだった。

三浦さんは「東西粗忽長屋物語」という比喩でこの批判を語っていた。落語の粗忽長屋物語では、行き倒れになった死骸が、長屋の熊さんに似ていて、その当の熊さんが死骸を抱いて、自分に対して「しっかりしろ」などと声をかける。そうすると、確かに目の前に見ている死骸は「熊さん」つまり自分だけれど、それを抱いて介抱しているのは誰だということになる。眺められている存在の自分と、眺めている存在の自分とが二人いるのはどういうことなのかということが哲学的な問題として生じてくる。

これを形式論理的に解釈すれば、自分が二つに分裂することはないという前提で考えて、一方が自分であれば他方は自分ではないという結論になる。実際に存在する人間が二つに分裂することはないから、落語の粗忽長屋物語の熊さんは、死骸を抱いているほうが本物で、死骸になった人物は、熊さんに似てはいるが別人であると結論しなければならない。そうでなければ形式論理的な矛盾を生じてしまう。

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by ksyuumei | 2008-06-21 13:43 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 8

内田さんは、フーコーによる狂気の考察を『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)の中で解説をしている。これをウィキペディアの「ミシェル・フーコー」などで見ると次のように書かれている。


「フーコーは『狂気の歴史』(1961年)で、西欧世界においてかつては神霊によるものと考えられていた狂気が、なぜ精神病とみなされるようになったのかを研究する。彼が明らかにしようとするのは、西欧社会が伝統的に抑圧してきた狂気の創造的な力である。第2段階は、先に概観した知の変化についての考察が中心となる。この考察は、もっとも重要な著書である『言葉と物』(1966年)にしめされている。」


ここに書かれていることは間違っているとは思わない。たぶんその通りなのだろうと思う。しかし、ここに書かれている内容を具体的に思い浮かべることの出来る人間は、すでにフーコーについて何らかの知識を持っている人間だけだろう。「狂気の創造的な力」というものを、この言葉だけから思い浮かべることが出来るだろうか。もし思い浮かべることが出来たとしても、それは辞書的な意味にとどまるだろう。あるいは、「何とかと天才は紙一重」というような俗っぽい言い方から想像するような「狂気の創造性」が浮かんでくるだけなのではないか。

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by ksyuumei | 2008-06-19 09:51 | 内田樹