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論理的整合性が取れる問題とそうでない問題

中国が現在チベットに対して取っている政策的姿勢は、マスコミなどで与えられている普通の情報だけから考察しようとすると、その論理的整合性・すなわち「中国が正しい」という帰結を導くのは困難である。「中国は間違っている・けしからん」という結論を持っている日本人が大部分だろう。

マル激でも宮台真司氏が、素人の人たちが中国のとっている態度の合理性を理解するのは困難だというようなことを語っていた。それは、日本人にとっては、中国がやっていることがかつて日本軍国主義が中国に対してやっていたことと同じものに見えるからだ。

日本は、主観的にはアジアの解放をうたい文句にして、過渡的には侵略のように見えるかもしれないが、それは遅れたアジアの近代化を促進するために必要な行為であり、結果的にアジアを近代化して欧米列強の侵略を食い止めることが出来れば日本の行為は正当化されると考えていた。というのが、宮台氏が語る「アジア主義」の思想だと僕は理解している。

これは言葉だけで構築した論理としては正しいだろうと思う。しかし、実際に日本が中国で行った行為を振り返れば、そこにもともと住んでいた中国人の権利を侵害し、その土地から得られる利益を日本人が独占し、しかもその不当性を抗議するような中国人に対しては武力で弾圧をするというものだった。理念は立派かもしれないが、実際にやっていることがこんなことであれば、それは「侵略」だと非難されても仕方がないだろう。

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by ksyuumei | 2008-05-30 10:27 | 論理

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」への考察 2

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」についてその「(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―」を読んだ限りでの、佐佐木さんの主題と主張について、僕は次のようなものだと受け取った。


1 中国のチベットに対する侵略行為の正当化について、それは「中華人民共和国がマルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー的中華帝国>である」という点を考慮することが重要で、この前提から論理的に帰結される。

2 現代中国を理解するのに中華思想は重要ではあるが、それのみを理解の中心に据えることは出来ない。「中華思想一本で論じきれるほど現代中国の諸問題とりわけ政治的外交的軍事的諸問題は単純ではない」。


カギ括弧で引用しているのは、佐佐木さん自身の表現で書かれている部分で、この二つが、この長い文章の全体を貫いているテーマではないかと僕は理解している。

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by ksyuumei | 2008-05-27 10:29 | 雑文

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」への考察 1

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」について考えてみたいと思う。まずはそこに書かれている内容の理解に努力を注ぎたい。何らかの主張に対して、それに賛成するにせよ・反対するにせよ、その主張の内容を正確に受け取った上で自分の意見を提出しなければならないだろう。誤解を前提にして論理を展開しても、それは一つの別の見解にはなりうるだろうが、ある主張に対する関連のある主張にはなりえない。

佐佐木さんの主張は非常に多岐に渡り、しかも専門的な用語の使い方も多いので、そこで何が語られているかを正確に受け取るのは難しい。まずは細部にこだわらずに、大筋の主張において、本質的には何を語っているのかということを考えてみたいと思う。この理解にはかなり時間がかかりそうだが、まずは分かる部分と分からない部分をはっきりと分けて、分かったと思える部分が正確な理解になっているかを考えてみたいと思う。ポイントになるのは、論理的な言葉の使い方において、解釈が唯一に決定出来るかどうかで、それを考えたいと思う。解釈が複数出来そうな表現では、どの解釈が、前後の文脈から考えて妥当なのかという自分の受け取り方を考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-25 11:23 | 雑文

現代中国の実相

マル激の第218回 [2005年6月4日]では「今中国に何が起きているのか」というテーマでゲストに興梠一郎氏(神田外語大学助教授)を招いて議論している。ここで語られている現代中国の姿というのは、ある意味では驚くべきことばかりで、そんなふうになっているとは知らなかったというものが多い。これは、『中国 隣の大国とのつきあいかた』(春秋社)という本にも収録されていて、箇条書きにしてみると、次のような話題が語られている。


1 鄧小平体制や江沢民体制は、ずっと金持ちよりの路線でやってきたために、かなり階層分化が進んでしまった。貧乏人(農民と下層労働者)はいつまでも貧乏なままだ。

2 中国には流動性がない。1958年に出来た戸籍に関する法律によって固定化されている。農民は都市の市民になれない。教育も社会保障も戸籍のあるところでしか受けられないので、都市にとどまって高い賃金のもとに働くことは出来ない。農民はいつまでも低所得のままになる。

3 現在の体制は官僚や企業家にとって都合が良く、彼らは大きな利権を持っている。親の官僚が権力を使って子どもに儲かる商売を回す。独裁国家の独裁権力が金儲けも独占しているので、彼らだけが儲かる構造になっている。

4 労働者はすべて国家のコントロールのもとにあるので、賃金は安く押さえ、労働争議も鎮圧してくれる。そのため外資にとっては、効率のいい労働市場となっている。

5 警察の腐敗。居住地以外から来た人は臨時居住証を持っていなければならないが、それを持っていないことを摘発されると罰金を払う。これが警察の金づるになっていて、狙われることが多い。そのときのトラブルで殴られて死んだ人間もいるが、それは闇に葬られてしまう。

6 国有企業はその生産と就業人口はともに30%にしか過ぎないのに、それへの投資や銀行融資はそれぞれ60%、70%に上っている。まったく効率の悪い金の使い方をしている。やがて破綻することは目に見えているが、国家の財政収入のほとんどが国営企業からのものなのでそれを見捨てることが出来ない。

7 出稼ぎ労働者への賃金未払いがある。これは直接労働者を抱える末端の企業よりも、最上位にある企業の責任が大きい。そこが金を払っていないことが多い。そしてその企業はたいていが政府系だという。


これらの事実を見ると、その権力の腐敗ぶりのひどさにあきれてしまう。そして、そのような社会体制のもとで、底辺の労働者・農民が、いかに惨めな生活を強いられているかという理不尽も感じる。まさに「けしからん」ことのオンパレードといった感じだ。

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by ksyuumei | 2008-05-24 22:46 | 雑文

チベット問題の合理的な理解

チベット問題を合理的に理解するということは、中国の姿勢・態度を理解してそれを是とするということではない。むしろその逆で、チベットに対する中国の姿勢・態度は明らかに間違っていると思われる。しかしそれにもかかわらず、中国には間違っているという自覚がない。論理的にはおかしいと思われる理由でチベット支配の正当性をごり押ししているに過ぎないように見える。

中国はかなり多くの部分で論理的に正当だと思われる行動をしているのに、チベット問題に限っては、かなり無理をしてでもエゴイスティックな自分の利益を守ることに固執しているのだろうか。それは結果的には世界的な不人気を呼び、自らの利益を守る方向に働かないのではないかと、論理的には考えられるのに、その可能性を考えることが中国政府の目からは完全に消えている。この非論理性が、中国内部ではなぜ正当化されるのか。その合理的な理解をしたいというのがこの考察の目的だ。

中国はもともとそういう国なのだと受け取ってしまうと、合理的に思考する必要はなくなる。「嫌な野郎だ」という感情的な反応で終わってしまう。それを、結果的におかしいと思われる行動の中にも、なるほどこの原因があればこのような行動に結びつくのも無理はない、と合理的な理解が出来るように論理を構築したいと思う。そのような論理が見つかれば、その原因を取り除けば問題は解決すると思われるからだ。変なことをする人間も、もともとその人間が変なのではなく、普通の状態であれば合理的で納得できる行動をするという前提で考えるのが合理的な理解だろうと思う。変な行動に結びつくのは、そこに普通ではない何らかの原因があると思われるからだ。その論理的な結びつきが、チベット問題における中国には、どのようなところにあるのかを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-23 10:23 | 雑文

「東シナ海ガス田問題」における中国政府の政策への批判

マル激の238回[2005年10月14日] の放送では「まちがいだらけの東シナ海ガス田開発問題」というテーマでゲストに猪間明俊氏 (元石油資源開発取締役)を招いて議論していた。これがたいへん面白い議論で、マル激の紹介文には次のように書かれている。


「東シナ海のガス田開発をめぐる日中対立に解決の兆しが見えない。先の日中局長協議で日本側は、中国側が開発したガス田が日本が主張する権益境界線をまたいでいる可能性があるとの理由で、共同開発、地下のデータ提供、中国による開発の中止を求めている。
 しかし、石油・天然ガスの探鉱開発の実務に40年携わってきた猪間氏は、境界線については日中双方に言い分があるとしても、日本の要求は国際的基準や業界の常識からはずれたものだと懸念する。また、日本にとっては日中中間線の東側での共同開発を受け入れることが日本がこの海域に眠っているかもしれない資源を手に入れることのできる唯一の道であり 、中国が既に巨額の費用を投じているガス田にこだわればその機会を逸するとも主張する。
 なぜガス田をめぐる日中対立は続いているのか。なぜ中国側が提案する共同開発ではいけないのか。日本側が意図的に対立を長引かせている面はないのか。ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている東シナ海ガス田開発問題の深層を探った。」


専門家から見れば非常識な要求を日本が突きつけている理由は何だろうか。そこに戦略的な合理性はあるのか。上の紹介文からは、日本の外交姿勢が、日本の利益を損なうのではないかという懸念が語られている。もしこの外交政策の方向が合理的な思考から出てきたものでないなら、それは「煎じ詰めれば」中国に対して「けしからん」という感情で対応しているに過ぎないものと解釈できるのではないだろうか。上の文中には「ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている」という言葉がある。これは、嫌いな中国を非難して貶めることで溜飲を下げるということにならないだろうか。もしそうであれば、好き・嫌いで外交政策を考えていることになるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-22 10:22 | 雑文

前提の違いが結論に与える影響

自民党の河野太郎衆議院議員のブログに「大本営発表と提灯持ち」という興味深い一文を見つけた。これが論理的な観点から面白いと思うのは、河野さんが反論している厚労省の言い分というのが、形式論理的には必ずしも間違っているとは言えないのだが、年金の議論の全体の中でその主張を位置付けてみると、河野さんが言うように「省利省欲をごり押ししてきた」と判断するのが妥当のように思えてくるからだ。

それだけを個別に取り上げれば、論理的には必ずしも間違っていないのに、年金議論の全体の中で、年金の運営をいかに整合的に行うかという観点から見ると、それは国民一般の利益になるのではなく、厚労省の利益をもたらすような利権を生み出すことに寄与する議論になっている。国民の利益にはならないような主張が展開されている。

ある種の主張をもたらす論理をたどってみると、その前提としている「事実」の解釈が一つに決まらないため、どれを前提としての「事実」と設定するかで、結論としての主張が変わってくる。そのような主張の場合は、たとえ正反対の結論が得られて、双方がそれを主張していても、どちらかに決定するというのが難しい場合がある。現在の段階ではどちらも認めて、それぞれに一理があると言わざるを得ないときもある。内田樹さんが主張していた、現在中国政府の政策を批判している人たちが、「「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない」という判断は、それに反対する見解も、今の段階ではともに両立する主張になるのではないかと思う。なぜなら前提とする「事実」を確定することが難しいからだ。おそらく反対の主張は、前提とする「事実」に違いがあるのだろうと思う。これが確定したときに、どちらの主張が正しいかが決定するのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-21 09:57 | 論理

内田樹さんの2008年04月21日のエントリーの論理的な分析

内田樹さんが2008年04月21日に書いた「中国が「好き」か「嫌いか」というような話はもう止めませんか」というエントリーについて、この文章の内容を論理的にどう受け止めるかということを詳しく考えておきたいと思う。

僕のエントリーにコメントを寄せてくれた佐佐木さんという方が「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」というページでこの文章に関連した主張を展開していたからだ。佐佐木さんの文章はかなりの長さで、しかも内容が多岐に渡っているので、それをまず理解するのも大変だ、だから、まずは内田さんの短いエントリーを自分なりに確認しておこうと思う。その上で改めて佐佐木さんの文章も読んでみたいと思う。

文章の読解というのは、論理の範囲であれば、誰が判断してもそのようにしか読めないという結論が得られるだろうと僕は思っている。人によって解釈が違ってきてしまう部分というのは、論理だけでは読み取れない、現実とのかかわりのある「事実」の判断が入り込んでくるのではないかと思う。内田さんの文章で、論理の範囲で結論付けられることは何かを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-19 23:50 | 内田樹

論理の前提としての「事実」と現実解釈の真理としての「事実」

野矢茂樹さんが解説するウィトゲンシュタインの発想を考えてみると、「世界」を「成立している事柄」という「事実」から出発していることが分かる。しかし、ウィトゲンシュタインは、この「事実」が何故に「事実」なのか。つまり、どうやってそれが実際に成立していることであるかを確かめるすべについては何も語っていないように見える。ウィトゲンシュタインにとっては、その事がらが「事実」であるかどうかは所与のことであり、関心はそれを使って展開される論理のほうにしかない。「事実」の確認の仕方については何も語っていないようだ。

ウィトゲンシュタインは、原理的には「事実」を現実に100%確認することは不可能だったと考えていたのではないかとも思う。現実を観察して、その現象を言語によって表現するとき、それが本当に現実を反映した表現になっているかどうかは、常に解釈の余地を残すだけに確定しないのではないかと思う。

たとえばある人物を親切で温かい心の持ち主だと受け取って、それが「事実」であると判断したとする。しかし、実はある利害関係から、そのように振舞っていたほうが得だという場合もある。また、以前は本当に親切で暖かかったけれど、困難な状況が訪れて、とても他人のことなど心配していられなくなって今は親切で暖かくなくなっているかもしれない。「事実」は勘違いがあり得るし、変化して違ってしまうことがある。

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by ksyuumei | 2008-05-14 10:28 | 論理

ウィトゲンシュタインによるラッセルのパラドックスの解決

ウィトゲンシュタインの基本的発想は、野矢茂樹さんに寄れば、ウィトゲンシュタインの関数概念ではラッセルのパラドックスが生まれるような自己言及文は言語の意味として無意味になってしまうということだ。それは論理形式からは排除されるので、論理的な言い方ではないということになる。このことを解釈すれば、ラッセルのパラドックスは、言語の機能としての論理を、その適用範囲の限界を越えて適用したために、不都合が生じたという感じになるだろうか。ラッセルのパラドックスは、言語適用の間違いによって引き起こされた無意味な命題に意味を与えてしまったということになるのではないかと思う。

基本的な発想はこのようなものだと思われるが、フレーゲ・ラッセル的な記号論理に親しんできたものとしては、この発想を納得するのはなかなか難しい。都合が悪いから排除したというような、ご都合主義的な解決に見えてしまうからだ。ラッセルのパラドックスは、言語の意味としてちゃんと理解できる。だからこれが論理形式としては無意味になるということが納得できなければ、ウィトゲンシュタインの解決もすんなりと腑に落ちるというわけに行かなくなる。

ウィトゲンシュタインの発想は、あくまでも現実の「世界」を出発点にしているところがフレーゲ・ラッセル的な発想と違うところだ。フレーゲ・ラッセル的な発想は、現実から抽象された論理世界を出発点にしている。それは現実世界の存在物である対象が抽象された、世界の部品からスタートして、それを組み合わせて論理的な表現である命題が構成される。

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by ksyuumei | 2008-05-11 10:48 | 論理