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国語的文章読解と論理的文章読解

野矢茂樹さんの『論理トレーニング』(産業図書)という本で改めて論理について考えている。野矢さんは、この本の冒頭で「「論理」とは、言葉が相互に持っている関連性に他ならない」と述べている。論理とは、極めて言葉に深いかかわりのあるものなのだ。だから、論理を学ぶということは言葉を学ぶということでもある。

しかし日本の学校教育では、論理の一端を数学で学ぶものの、文章を学ぶ国語においては論理というものはほとんど顔を出さない。国語において学ぶのは、ほとんどがその文章の味わいを感じる鑑賞の側面に限られている。題材としても文学的作品(文章による芸術作品)が圧倒的に多い。たまに説明文が題材にされることがあっても、その説明文がどのような論理構成で説得力をもっているかということは話題にされることがない。

僕は論理に強い関心を持っていて、言語学などにも惹かれるものを感じていたが、高校までの国語で学習した内容はほとんど関心がなく、むしろ嫌いだった。その文章読解は、ほとんど感性の範囲でなされており、なぜそのように読まなければならないのかという解釈に合理性を感じていなかったからだ。ほとんど感性でそのように感じなければならないという押し付けを感じ、自分の感覚で自由に読むということを邪魔されている感じだった。自分は何故に模範解答と違う読み方をするかということが気になっていた。それは自分の感性を否定的に受け止めなければならないことなのかと不満に思っていたものだった。

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by ksyuumei | 2008-01-31 09:51 | 論理

解像度の問題

マル激トークオンデマンドに『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の著者の福岡伸一さんがゲストで出ていたときに、福岡さんが語っていた「解像度」という言葉が印象に残っている。解像度の高い画像では、より細かい部分が鮮明に表現される。福岡さんは、「解像度を上げた」という言い方をしていたが、それは、今までは目に見える範囲の見方で直感的・素朴に捉えていたものを、よりミクロの世界のメカニズムにおいて解明したというふうに僕は解釈した。

その解像度を上げた表現は「動的平衡」というもので、これは福岡さんの著書のタイトルにもあるように、生物と無生物のあいだを分かち、それを区別する指標となる。動的平衡の素朴な表現は、弁証法の教科書にもよく載っているように、生物に対してそれを「同一のものであって同一でない」と表現するものだ。この弁証法的矛盾を実現しているものが生物だという捉え方は、古代ギリシアの時代からあっただろうと思われる。

生物が同一のものであるという捉え方は、個体としての全体は他の生物から識別される同一性を持っているという判断がなされるからだ。私は私であって、他の人間になることはない。ポチと呼ばれる私の犬は、昨日も今日もポチであり、明日もポチと呼ばれる同一の個体であるだろう。ある日突然ポチが、まったく別の個体であるタマになったりはしない。

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by ksyuumei | 2008-01-29 10:00 | 方法論

運動における弁証法的矛盾

三浦つとむさんは、『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の中で、ヘーゲルは「ゼノンの詭弁(パラドックス)」に正しい解答を与えたとして、次のヘーゲルの言葉を引用して運動における矛盾の説明をしている。


「この矛盾はあちこちに見受けられる単なる変則とみなすべきでなく、むしろその本質的規定において否定的なるもの、あらゆる自己運動の原理であって、この自己運動は、矛盾の示現以外のどこにも存しない。外的な感性的運動そのものはその直接的定在である。あるものが運動するのは、それが今ここにあり、他の瞬間にはあそこにあるためばかりでなく、同一の瞬間にここにあるとともにここにはなく、同じ場所に存在するとともに存在しないためでもある。人は古代の弁証法論者とともに、彼らが運動の中に指摘した矛盾を認めなければならないが、これは、運動はそれゆえに存在しない、ということにはならない。むしろ反対に、運動は存在する矛盾そのものである、ということになるのだ。」
(ヘーゲル『大論理学』)


三浦さんがゼノンのパラドックスを「詭弁」と呼んでいるのは、そこに矛盾が表現されているからで、その言説が間違っている・あるいはでたらめだということから「詭弁」と語っているのではないだろうと思う。むしろ、現実の運動の持っている矛盾を指摘した言葉として論理的な重要性を持っているからこそそれはパラドックスという呼ばれ方をしているのだと思う。

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by ksyuumei | 2008-01-25 10:32 | 論理

空気と文脈

宮台真司氏が「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」という文章で


「携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。」


と語っている。文脈というのは、前後の文章の関係や、それが表現する現実とのかかわりから、見ただけの視覚的世界を越えた意味を読み取ることを指す。単に見たものから直接引き出される感情に寄りかかるのではなく、それが意味するもの・隠された伝えたいものを読み取ることが文脈を読むということになる。

したがって文脈というのは、そこに書かれた文章に関するある種の予備知識を必要とし、しかも論理的につながりのある事実を想像できなければ読めないものとなる。すぐに分かるものではなく、何度も読み返してやっとほのかに見えてくるようなものになる。このようなものに対して、若い読者は「自分が拒絶された」と感じるのは、自分の知らないことを元に話されていることに対して排除されていると感じるのだろうと思う。

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by ksyuumei | 2008-01-22 10:13 | 雑文

他者への伝達

2回ほど前のマル激トークオンデマンドでは、生物学者の福岡伸一さんがゲストに招かれていた。そこでなされていた議論の中心は生命についてなのだが、それ以上に印象に残った言葉は、福岡さんがスキーを習ったときのエピソードだった。そこに、教育というものの最も大切な要素である「他者への伝達」の本質が語られていたように感じたからだ。

福岡さんがスキーのインストラクターについて習ったときに、まずは見本のように滑って見せて、さあこのようにやってくださいというようなことを言われたらしい。しかし、自他ともに認める運動音痴の福岡さんにしてみれば、「見たように身体を動かす」ということがいかに難しいことであるかが、インストラクターには伝わらない。

だから、もちろん見たような動きでは滑れないのだが、それを見てインストラクターは、「どうしてこんな簡単なことがあなたにはできないのですか?」というような目で福岡さんを見ているように感じたという。ここにある「他者への伝達」の難しさを、福岡さんは次のように解説していた。

インストラクターになるような人は、子どものころからスキーがうまくて、おそらく基本的なことはそれほど苦労せずに習得してしまったのだろうと思う。つまり、どのような過程を経れば、基本的な動作が合理的にうまくいくかという過程を自覚することが出来ないのではないか。無自覚に過程を通過した人間は、その過程を他者に説明することが出来ないのだ。その事をやって見せることは出来るのだが、それがどんなメカニズムで動いているかということは説明できないのだ。

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by ksyuumei | 2008-01-20 15:27 | 雑文

ノーミソの目で映画を見る

評判になった映画がようやくケーブルテレビにも回ってきたので、年末年始にかけていくつか映画を見ていた。このところ「同じものを見ているか」というテーマでいろいろなことを考えてきたので、その応用として、ノーミソの目で見る映画というものを考えてみようと思う。目に入ってくる映像が同じでも、その映像が何を意味しているかということは、それを見るそれぞれのノーミソの目に映る像によって違ってくる。そんな観点から評判になったいくつかの映画を考えてみようかと思う。

ただ、映画鑑賞としては、まずはその映画に入り込んで登場人物に感情移入し、その映画を主体的に味わうということが前提になって、その後で振り返ってノーミソの目で見てみればということになる。主体的に味わうことが出来なければ、映画そのものの評価がかなり難しくなるのではないかと思う。その時は、なぜ主体的に感情移入ができないのかということが問題として現れてくることだろう。

以前に夜間中学を舞台にした、山田洋次監督の映画「学校」というものがあった。これは当時の日本映画ではかなりの大ヒットになり、多くの人に感動を与えたものだった。しかし、実際に夜間中学に通っていた生徒の大部分は感動をする人は少なかったようだ。僕は夜間中学に転勤して2年目くらいだったので、一般の鑑賞者と変わらずこの映画を感動して見ることが出来たものだった。

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by ksyuumei | 2008-01-07 09:52 | 映画