<   2007年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧

加速度は見えるか?

我々は物理学でニュートン力学の法則を学ぶときに、力は加速度と比例することを教えられる。それは真理であることが確定しているもので、それをちゃんと確認することなく、言葉の上でそれが正しいものだと思い込んで覚えることになる。我々には加速度というものがちゃんと見えていないにもかかわらず、それが言葉として表現されているために、概念としてまず頭の中に生まれることによって、その法則があたかも現実に存在するような錯覚を起こしているように感じる。

教科書などには自然落下の説明とともに、簡単な実験が書かれているときもある。自然落下は地球の重力が常に働いているために、その力が加速度を生じさせ、時間とともに落下する物体の速度が大きくなっていく。これは、地球の重力が常に働いているという前提を認めれば論理的な理解は出来る。しかし、人間が引っ張ったりする現象なら、そこに力が働いていることが見るだけで分かるが、どの物質も地球が引っ張っているという「万有引力」は、見ただけでは分からない。これも言葉の説明の概念を理解した後で、現実をそのめがねで見ることによって理解するということになる。言葉の上だけでの理解になる可能性もある。

言葉の上で、その言葉の意味として概念理解をしているものは、実は本当の科学的理解ではないのではないかというものは他にもいくつか想像できる。例えば、地球が丸いことは現在の日本に住んでいる人はほとんど誰でも「知っている」。だが、地球が丸いことを確かめた人はどれくらいいるだろうか。この知識は、誰もが言葉の上で知っているだけではないのか。それは果たして科学的な理解といえるだろうか。

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by ksyuumei | 2007-12-21 09:54 | 雑文

関数は見えるか?

中学校の数学教育において関数の概念を教えることはかなりの難しさがある。関数の計算を教えるのはそれほど難しくはない。グラフと式の対応関係は方程式に還元できたりするので、一定の手順を覚えるアルゴリズムとして教えることが出来る。掛け算の意味がわからなくても九九を覚えておけば掛け算の答えを出せるように、関数の概念をよく理解していなくても、式からグラフを求めたり、グラフから式を求めたりすることは反復練習を積むことによって出来るようになる。

だが関数がいったいどのようなもので、どんな役に立つのかということの「意味」はなかなか伝えることが難しい。関数の理屈というか合理性を理解することはかなり難しいのではないかと思う。これは、関数というものが、目に見える直感的な理解が図れる対象ではないことが原因しているのではないかと感じる。

以前に負の数同士の掛け算が正の数になることの理解の難しさを考えたが、そのときに重要だと考えたのは、負の数というものが、それを実体的に示すような存在が現実に見当たらないことではないかということだった。思考の対象を具体的につかむことが出来ないために、負の数同士の掛け算が正の数になることは論理的に把握するしかなくなる。この論理的な把握というのは、どうしても複合概念の把握になるために、直感的な単純な理解が出来ない。これが難しさの根本にあるのではないかと思った。

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by ksyuumei | 2007-12-19 10:20 | 雑文

因果関係は見えるか?

因果関係というのは、<原因>と<結果>のあいだに結びつきがある、関係があるということを認識するものだが、これは認識論的にはかなり難しいことではないかと思う。単純に外界を像として反映しているだけでは関係という認識は出来ないからだ。因果関係では<原因>と<結果>という二つのものの結びつきを考えるが、一般に関係では二つ以上のものの結びつきというものを見なければならない。

この関係は、直接目に見える形を取っていない。つまり静止画像としてはそれを確認できないわけだ。時間的・空間的な隔たりを持った二つの存在が、何らかの結びつきを持っていると「見えた」時に、その二つの存在のあいだに「関係」が成り立つ。この「関係」は、直接像として認識できないので、どうしても論理の力を借りてそれが成立することを見なければならないのではないかと思う。

例えばインド洋の給油を継続させるためのテロ特措法を考えると、ここにはアメリカの強い意向が働いて、それを受け入れざるを得ない現政府が、国会の会期を延長して衆議院で再議決してでも通そうとしているように「見える」。これはアメリカと関係しているように「見える」。それもアメリカの圧力が<原因>として働いて、<結果>的に現政府がテロ特措法の成立を至上命題としているように「見える」。

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by ksyuumei | 2007-12-16 11:00 | 雑文

「ノーミソの目」で見る

「ノーミソの目」という言葉は、仮説実験授業研究会でユニークな発表をしていた徳島の新居信正さんがよく使っていた言葉だ。僕は、新居さんが語っていた「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉が、自分の体験ともぴったり合ったこともあって、この言葉が特に印象に残っていた。

僕は数学の試験問題を解くときに、答案用紙が真っ黒になるくらいに書き込みをしていた。これは、自分が頭の中で考えたことをほとんどすべて書き込むようにすると、考えたことを客観的に眺めることが出来るような感じがして、書かないで頭の中の思考をめぐらせるだけにしたときよりも多くのことが発見できるような気がしたからだ。その体験を、「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉は、まさに適切に言い表していると思った。

また、計算をしているときも、計算の過程をすべて書き込むようにしていた。しかも、どの数式がどのように変換されたかがすぐに分かるように、計算した数式のすぐ下に変換された結果の式を書き込むようにしていた。このようにすると、うっかり計算を間違えたときもその事にすぐ気が付くようになる。今から振り返ると、誤謬論としても合理的だったように思う。間違いをすべて避けるということは出来ないのだから、間違えたときに、その間違いを容易に発見できて、間違いを避ける手立てを持つということが誤謬論においては重要だろうと思う。

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by ksyuumei | 2007-12-15 11:02 | 雑文

我々は同じものを見ているのか?

『科学理論はいかにして生まれるか』(N.R.ハンソン・著、講談社)という本の冒頭に、二人の観察者が同一の対象を見ているのかどうかという議論が語られている。細胞を観察する微生物学者の例はちょっと難しい。それは「細胞」というものの厳密な定義を僕がよく知らないからだ。だから、二人の生物学者が、一方は観察した対象を「細胞である」と判断し、もう一方が「細胞でない」と判断した場合、自分はどちらに見えるかということを判断することが難しい。この場合は、定義の曖昧さから、二人の見たものが同じであるかどうかという判断も曖昧になる。

もう一つの例の、ケプラーとティコ・ブラーエの例はもう少し考えやすいだろう。この二人が「明けゆく東の空に同一のものを見ているだろうか」という問いを著者は提出している。これは、細胞の場合と違い、天体という対象は、目に見える実体を「個体」(他のものと区別できる存在)として指し示すことが出来るので、細胞よりも単純な対象として捉えることが出来る。だから、同じであるか違うものであるかを考えやすいだろうと思う。

ケプラーとティコの場合は、視点を違えると「同じである」とも「同じでない」とも、両方とも主張できてしまう。つまり弁証法的な矛盾が生じる。それを写真的な映像という視点で眺めてみれば、二人の目が捉えた映像を比べてみれば「同じである」と結論できるだろう。視覚に異常がなければ、二人の見たものの映像はぴったり重なると考えられる。だからこの二つは「同じもの」だという判断が生まれる。

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by ksyuumei | 2007-12-11 10:12 | 哲学一般

思考と言語の関係

ウィトゲンシュタインは、思考の限界を確定するために、言語の有意味性の限界を確定しようとした。言語表現において、それに有意味性を与えるという行為が、人間が思考をしているということを示していると捉えていたのではないかと思う。このあたりは、言語表現の基礎には人間の思考があり、ひいては認識がなければならないという三浦つとむさんの言語過程説にも近いものを感じる。

だが、ウィトゲンシュタインが語るのは、言語の基礎にある認識一般ではなく、あくまでも思考の展開と関係のある認識だけだ。現実化していない可能性を表現するという面における言語の機能を思考の展開と結び付けて、可能性を表現することこそが思考の現れであると考える。もし認識一般を取り上げるなら、可能性を扱う像の操作だけではなく、対象を受動的に反映するという像の性質についても言及しなければならないだろう。しかし、ウィトゲンシュタインには言語のその側面での議論はないようだ。

思考の限界と言語の限界を厳密に一致させようとすれば、それが1対1に対応するという構造を示さなければならないだろう。認識と言語の関係を考えると、認識は表現の基礎になっているものだから、それを表現する言語との関係でいえば、認識の領域のほうが言語の表現の領域よりも広いだろう。言語にならない、言語に出来ない認識というものが存在することが予想される。

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by ksyuumei | 2007-12-08 11:12 | 言語