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ウィトゲンシュタインの哲学の基本理解とその応用

僕は、ウィトゲンシュタインの哲学の理解に対して、直接ウィトゲンシュタインの著作から学ぶのではなく、野矢茂樹さんや橋爪大三郎さんの解説から間接的に学んでいる。それは、ウィトゲンシュタインの哲学というのは、直接その著作から学ぶには難しすぎるからだ。それは短い命題の羅列からなっているのだが、そこに含まれる内容は実に豊富なものがあり、その意味を理解するには予備知識が大量に必要になる。

そのような予備知識の素養がなければ、ウィトゲンシュタインの文章を直接読んでも、何が書いてあるのかさっぱり分からない。これは、そのような素養を持っている人間の解説を頼りに少しずつ理解を進めていかなければならない。その解説者として信頼できる人が野矢さんと橋爪さんということになる。野矢さんは専門の哲学者であり、ウィトゲンシュタインに関する深い素養を元に、ウィトゲンシュタイン初心者にも分かるような解説を書いてくれる。橋爪さんは哲学者ではないが、社会学者としてウィトゲンシュタインの理論を応用するという面から示唆に富む解説を書いている。

野矢さんと橋爪さんの解説によって、ウィトゲンシュタインの大雑把な全体像を作り、その全体像を元に直接著作を読み進んだときに、そこに書かれていることの整合性が納得できれば、野矢さんや橋爪さんの解説も、ウィトゲンシュタイン自身の理論展開も、ともに整合性のあるものとして論理的な理解が出来るようになるだろうと思う。そして、これらの人々が、その著作に直接書いていないことに自分の考えが及んだとき、それは基本的な理論の応用問題を僕が解いているのだということになるだろう。

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by ksyuumei | 2007-11-22 09:50 | 論理

応用問題について

算数・数学教育では、「応用問題」というものが課されることがある。これは、基本的な計算技術を学んだ後で、その計算を実際に応用して答えを求めようとするような問題を考えるものだ。計算して答えを出すだけなら、これには深い理解はいらない。アルゴリズムを記憶しておいて、その手順に従って数字を操作すればすむことだ。そこには主体的な思考というものがないので、コンピューターという機械にも出来る事柄になる。

これに対し、応用問題を解くということは、実際の問題に対しその技術を適用することになる。このときも、いくつかの問題のパターンを公式化して、その公式に当てはめて計算をすることにすればある程度のアルゴリズムかが出来る。しかし、計算そのもののアルゴリズムと違い、どの公式が適用できるかという最初の判断においては、単に表面的な現象を見てすぐに決められるとは限らない。計算そのものであれば、そこにある数字を読んで、計算の記号を読むだけで次に何をするかが決まる。だが、応用問題のほうは、その問題が示している現実の構造を把握しないと、公式を適用するにしても、どの公式を当てはめるかという判断が決まらない。

さらに、この応用問題が公式化されていない新しい問題であった場合は、いよいよその構造の把握が大切になってくる。応用問題を解くということは、その問題を、何らかのアルゴリズムが適用できる形に作り変えることだといってもいいかもしれない。我々が直面する問題は、実際には具体的な応用問題であり、一般論を学ぶのはその応用問題に適切な答えを出したいからだといえる。応用問題の現れが顕著である数学の場合を取っ掛かりとして、一般論を現実の問題に応用して解答を得るということについて考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-11-21 10:29 | 論理

「猥褻行為」は存在するか

『社会学の基礎』(有斐閣Sシリーズ)という、大学の教科書として書かれた本の「行為と役割」という章を宮台真司氏が執筆している。ここでは行為の同一性に関して議論を展開しているのだが、二つの行為を比べてそれが同一であるか違うかという判断を3つのレベルにおいて考察している。

その3つのレベルは、<物理的レベル><遂行的レベル><帰責的レベル>として捉えられている。それぞれのレベルは視点の違う見方になるので、<物理的レベル>では同一だが<遂行的レベル>では同一ではないという判断も成り立つ。つまり、弁証法的な意味での肯定と否定が同時に成り立つという矛盾が見られる。これは「行為」というものが単純なものではなく複雑なものであることを意味している。

「行為」というものは、物理的に現れた現象にすべての属性が読み取れるのではなく、そこに人間が意味を与えることによって「行為」として受け取ることが出来る。つまり、物理的には同じように見えても、その意味が違うという受け取り方をすれば「行為」も違うという理解をするわけだ。この意味の問題に関連して「行為」は3つのレベルでの解釈が出来るものだと思われる。

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by ksyuumei | 2007-11-21 10:28 | 雑文

トートロジー(同語反復)という論理法則

カール・ポパーの「反証可能性」という言葉を、必要条件と十分条件という観点から考えてみようと思っている。「反証可能性」という概念は、その考察の対象が「科学である」ということに関して必要条件となるが十分条件ではないというようなことを考えている。ポパーの考察の対象は、科学を装ってはいるが科学ではないという、誤解と錯覚を与えるようなものだったので、「科学ではない」と結論できるような必要条件が問題となったのではないかと思われる。

それに対し、板倉聖宣さんが提唱した仮説実験の論理(手順)は、「科学である」ということの十分条件を与えるものだと思われる。この違いが、科学の認識においてどのように関わってくるかを考えてみようかと思った。

それで「反証可能性」に関する資料をいろいろと眺めていたら、論理学が科学ではないということの根拠にこの考察が役に立つと思った。特に、トートロジーと呼ばれるものは、論理的には絶対に正しいと考えられているものなのでまさに「反証可能性」は無いといえるものだ。論理における「反証可能性」の問題は、何か言い逃れをするようなごまかしではなく、絶対的に正しいものだから「反証可能性」が無いという特殊な面を持っている。それは似非科学を名乗っているのではなく、科学とは違う種類の真理を語っている。

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by ksyuumei | 2007-11-16 10:23 | 論理

数は実在するか

以前のエントリーで、負の数を実体的に表す物質的存在はないという議論をいくつか展開したが、存在論というのは現実に対して何らかの考察をするときに前提となる重要なことではないかと思う。この存在論の発想が違ってくると、それを基礎にした論理展開も微妙にずれてくるように感じる。特に歴史的事実などの存在をめぐっては、「存在した」「存在しなかった」という判断は、存在論のあり方にかなり規定されるのではないかと思われる。

僕にとって負の数は概念として創りあげたものというイメージが強かったので、そのままの形では実在しないというのはほぼ自明のことではないかとも感じていた。しかし、概念として捉えた物事が、そのままの形では実在しないと結論してしまうと、すべての概念はそのままの形では実在しないのだから、概念と実在との結びつきが考察できなくなってしまう。実際には、現実の存在から正しく抽象されてきた概念と、空想的に概念を結びつけて実在と関係なく創りあげた概念があるだろう。

この両者をどのようにして区別するかということが問題になる。数に関して言えば、自然数というのは文字通り自然の対象に基礎を置いた数であり、実在する物質的存在を観察し抽象して創りあげた概念というものになる。それに対し負の数は、実在の対象の性質を概念として取り出し、その反対の概念と結びつけて新たに概念操作として創りあげた概念というものになる。ここに直接の実在と結びつかない契機が存在すると僕には思える。

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by ksyuumei | 2007-11-12 10:38 | 哲学一般

原則を貫く政治家としての小沢一郎氏 1

小沢一郎氏の辞任会見から始まった一連の混乱が収まりかけてきた今、改めてこの騒動は何だったのかということを整理してみたいと思う。小沢一郎氏は、僕自身は余り好きなタイプの人間ではなかったが、宮台真司氏が高く評価していることもあり、政治家としては優れている人物だろうとは思っていた。真のマキャベリストというような表現を宮台氏は使っていたが、理想の実現のためには、あえて不人気なことであろうとも実現していくというところが「豪腕」と呼ばれる所以なのだろうと思っていた。

小沢一郎氏には、原則を貫くという政治家として最も大事な資質があると僕も感じている。だが、この一連の騒動においては、原則を貫くという面よりも、ある種の利害の計算で「大連立」を画策したというふうに、政治家ではなく「政治屋」として小沢氏を非難するようなニュースにあふれていた。

報道に対する批判は、小沢氏自身も語っていたが、神保哲生氏も「小沢辞任会見を見て」というエントリーの中で「どうも報道されている内容とはちょっと趣が違うように私には聞こえました」と書いている。宮台氏も、このことを語ったマル激の中で、NHKの報道などはデタラメですということを語っていた。小沢氏が優れているという高い評価と、マスコミで報道されている小沢氏の姿が、どうしても整合性のとれた形で理解できないのを感じる。すべての間違いが小沢氏ただ一人に集中しているように語られている現状が果たして正しいものなのかというのを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-11-11 16:35 | 政治

囚人のジレンマ--信頼への裏切りがもっとも利益になるという皮肉な判断

ゲーム理論で有名なものの一つに「囚人のジレンマ」と呼ばれるものがある。これは詳しくは「囚人のジレンマ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で紹介されているが、簡単に要約すると次のようになるだろうか。

共犯だと思われる二人の被疑者AとBの取調べにおいて、二人において次のような条件が提示されたとする。

・A,B二人とも黙秘し、自白しなければ少ない物証によって二人は懲役2年の刑になる。
・どちらか一人が自白し、もう一人が黙秘した場合は、自白したほうは情状酌量されて反省の意を示したと受け取られ懲役1年に減刑される。しかしもう一方は、反省の意を示していないと判断され、懲役15年の厳罰に処される。
・A,Bどちらも自白したなら反省の意を示したという情状を考慮して、その罪に応じた処罰として懲役10年が言い渡される。

このとき、二人の囚人AとBはどのような戦略を立てることが利益を最も大きくするか(あるいは損害を最も少なくするか)ということを考えるのがゲーム理論の問題となる。

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by ksyuumei | 2007-11-09 09:32 | 雑文

自己実現幻想の弊害--いつまでも子どもから脱しきれない若者たち

内田樹さんが「人生はミスマッチ」というエントリーでたいへん面白い文章を書いている。このエントリーの冒頭で内田さんは次のように書いている。


「リクルートの出している「RT」という冊子の取材が来て、「高校の先生に言いたいこと」を訊かれる。
中高の現場の先生には基本的に「がんばってね」というエールを送ることにしている。
現場の教師の士気を低下させることで、子どもたちの学力や道徳心が向上するということはありえないからである。
現場の教師のみなさんには、できるかぎり機嫌良くお仕事をしていただきたいと私は願っている。
人間は機嫌良く仕事をしているひとのそばにいると、自分も機嫌良く何かをしたくなるからである。
だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。
それは「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。」


学校という現場にいる人間として、たいへんありがたい応援の言葉をもらったようで嬉しく感じるし、その基本的な発想に共感するものだ。教師という職業の人間に出来ることは高が知れている。その中で何を一番大事にしなければならないかという発想で、内田さんが語る「「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。」ということは、たいへん共感できることだ。

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by ksyuumei | 2007-11-08 09:26 | 内田樹

支配という現象の論理的考察

今週配信されているマル激のゲストは岡田斗司夫さんで、ダイエット問題から入ったその話はたいへん面白いものだった。岡田さんは、100キロ以上あった体重を50キロも減らしたダイエットで有名になったが、その方法論がたいへん論理的で説得力のあるものだった。岡田さんという人は、その話の展開が非常に論理的な説得力を持った展開をする人だと感じた。

さっそく岡田さんの本を求めて読んでみようと思って本屋へ行ったのだが、ダイエット関係の本は売り切れていて手に入らなかった。代わりに『「世界征服」は可能か?』(ちくまプリマー新書)という本を手に入れた。これがたいへん面白かった。論理的な書き方をしているのでたいへん分かりやすく、そこにちりばめられたユーモアたっぷりな表現が、飽きさせずに最後まで読ませるという効果を生んでいた。

面白おかしく軽く読ませるこの本だったが、そこに書かれている内容は決して軽いものではなく、「支配」という現象の本質をついているものではないかと感じた。「世界征服」などというものは、空想的な物語の中にしか登場しないから、笑い飛ばしてしまえるようなものだが、現実に「侵略」と呼ばれているような「悪」は、この「世界征服」という喜劇に近いものがあるように感じる。「世界征服」なら非現実的な、ある種のユーモアを感じて笑い飛ばせるものが、「侵略」という現実は悲惨でまじめに向かい合わなければならないものになる。しかしその本質はかなりよく似ている。

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by ksyuumei | 2007-11-01 10:16 | 雑文