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『論理哲学論考』が構想したもの4 ラッセルのパラドックスの解決

ウィトゲンシュタインが語るラッセルのパラドックスの解決は、数理論理学を勉強してきた人間にとっては実に意外な展開での解決になる。ラッセル自身は、タイプ理論というものを創設して、パラドックスの原因となるものを排除することでこのパラドックスを解決している。数理論理学的には、この方が「解決」という感じがする。

しかし、ウィトゲンシュタインの方法は、野矢さんの解説を読む限りでは「解消」と言ったほうがぴったりくるような感じがする。ラッセルのパラドックスは、論理を、パラドックスが生じるように解釈したことに原因があるのであって、そのように解釈しなければ、パラドックスではなくなってしまうというのがウィトゲンシュタインの発想のように感じる。

このような発想は、『論理哲学論考』の全体を貫いている基本的な発想のようにも見える。『論理哲学論考』では、哲学問題を思考の限界を越えたことにまで解答を見出そうとするものだと指摘することで、そもそもそれが問題にもなり得ないという事を示そうとしている。人間は、解答が得られるような問題にのみ思考を展開させるべきだというのが基本的な発想のように見える。

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by ksyuumei | 2007-10-14 11:16 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの3 「事実」と「事態」(現実性と可能性)

ウィトゲンシュタインは、現実の「事実」というものから出発して、まだ現実化してはいないが、その可能性があるものを見るということを思考の働きとして想定しているように感じる。人間の認識の積極面を思考というものに見ているようだ。そして、思考の限界を考えるということは、我々がどのくらい正しく現実を捉えられるのかということを求めることを意味するだろう。現実を出発点にするというのは、あくまでも現実の世界がどうなっているかに我々の関心があるのだという意識ではないかと思う。

この、現実の世界を出発点にするというのは、一般論としては納得がいくものだ。空想的な出発点を置いても、それが現実に有効かどうかは分からない。現実が出発点だというのは、現実に有効性を持ち、それが現実の我々の指針になるという点で重要なことだ。しかし、一般論としてはよく分かることではあるが、実際に現実を出発点にして思考の展開を探っていくというのは、具体的にどうしたらいいかというのは難しい。

現実には、目の前に見ている事柄が「事実」であるのか、それとも空想的な観念の中だけに存在する「可能性」であるのかを決定するのは難しい。いや、それは「可能性」すらも否定される「非存在」であるかもしれない。

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by ksyuumei | 2007-10-13 10:57 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの2 可能性の世界としての論理空間

ウィトゲンシュタインは、現実世界を出発点として、そこから思考の原理を引き出そうとする。この現実世界は、「事実」を集めたものとして想定され、物という「個体」を集めたものとは考えられていない。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、「我々はただ物や性質に出会うのではない。性質を持った物たちに、つまり事実に出会っているのであり、そうでしかあり得ない」と書いている。

物や性質を切り離すことが出来るのは、それらを思考の対象にした後であり、原初的な体験としては、物と性質は不可分のものとして・「事実」として目の前に現れる。だからこそ現実世界を出発点にするなら、世界を「事実」として捉えなければならないということになるのだろう。

目の前に現れた現実世界は、我々に見える一側面を「事実」として記述することが出来る。しかし、我々に見えている「事実」だけが世界のすべてになるかというと、事はそう単純ではない。小さすぎるものや大きすぎるものは、我々には「事実」としては感じられない。空気の存在や地球が丸いことなどは視覚で感じることが出来ない。これは直接感じることの出来る「事実」ではない。しかし、今では誰もが空気が存在していることや、地球が丸いことを知っているし信じている。

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by ksyuumei | 2007-10-11 10:39 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの1 事実とその対象への解体

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を頼りに、ウィトゲンシュタインが構想した世界の全体像の把握というものを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのような天才と同じ考えをもつというのは、かなり無謀な目標のように思われるかもしれないが、先駆者に対して2番手としてそこについていくというのは、難しさは半減どころか数十分の一になってしまうのではないかと僕は思う。一度つけてくれた道筋をたどるのは、道のないところを開発していくのとは難しさがまったく違うのである。

僕は数学を勉強していた学生時代に、すでに確立された数学を勉強するなら、時間はかかるかもしれないが必ず出来ると思っていた。そのための有効な方法として数理論理学を見つけた時はとても喜んだものだった。これさえあれば、既存の数学の理解は必ず出来ると思ったものだ。

新しい数学を開発するには天才的な能力が要るけれども、出来上がった数学を学ぶのであれば、論理的に正しいと確信できる手順を根気よく丁寧にたどっていけばいいだけだと感じていた。僕は、子どものころは数学の研究に従事して生活することが夢だったけれど、研究・開発するだけの天才性はどうやらなさそうだということに気づいてからは、それを学習することはかなりうまく出来ていたので、その経験を教育に生かせないかと思い、教師になったというところがある。

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by ksyuumei | 2007-10-09 10:45 | 論理

論理の正しさはア・プリオリ(先験的)なものか?

僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと思っていた。ヘーゲルが言うように、「理性的(論理的)なものは現実的であり、現実的なものは理性的(論理的)である」と思っていた。

現実と論理の一致は確認できるものであり、論理の正しさの源泉も現実の存在にあると思っていた。しかし、論理の正しさの確信は少しも揺らぐことがないものの、その正しさの根拠を現実に求めるという考察はなかなか説得力のあるものにならなかった。論理が現実と一致するから正しいというよりも、論理に従って考察したことが現実との一致を見て、その正しさを示すといったほうが感覚にぴったり来る。論理の正しさが現実によって証明されるというよりも、現実を捉えた認識の正しさが、論理に従うことによって示されるという感じだろうか。

論理の正しさは、考察に先立ってすでに前提されているという感じがする。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、論理を語りえぬものとしている。それはあることを考察する中で示されるものであり、その正しさは語りえぬものとしてア・プリオリに受け入れなければならないものと語っている。論理というのは、本当にそのようなものなのだろうか。

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by ksyuumei | 2007-10-08 23:04 | 論理

属性の帰属先としての存在

シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないかと思う。たぶん、どちらも自分が論じたい側面・あるいは視点というものが相手に伝わっていないのだろうと思う。

だから、これから述べることは、シカゴ・ブルースさんが語ることへの批判や反論ということではなく、僕がいったい何を論じたかったのかということを伝えるものにしたいと思う。シカゴ・ブルースさんが書いたエントリーについての理解と評価はすぐには出来そうにないので、まずは自分が語りたかったことをまとめてみて、その後でじっくりとシカゴ・ブルースさんの文章を読ませてもらいたいと思う。

だから、シカゴ・ブルースさんの文章への直接の言及をこのエントリーは含まないのだが、一連の流れの中にある一文ということでトラックバックを送らせてもらおうと思う。なお、僕が複数のブログで同じエントリーをアップしているのは、一つには記録のようなものという意識で行っているものだ。また、トラックバックをlivedoorのブログで送るのは、ここのブログでのみ、コメントやトラックバックを受け付けていることに理由がある。読みづらいという点については、改良できるところは努力していきたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-10-08 13:05 | 論理

貧困で幸せはあり得ないか?

今週配信されているマル激では貧困の問題が議論されている。現代日本の深刻な問題は、「格差」ではなくて「貧困」だという指摘がそこではされている。この指摘は非常に説得力のあるもので、問題が「格差」ではなくて「貧困」だと設定しなおされれば、それは僕にとっても深刻な自分の問題として迫ってくる。「格差」であれば、そんなものはあまり関心のない現象に見えてくるが、「貧困」というものは、今はその中に落ち込んではいないものの、将来的・あるいは子どものこれからの人生を考えた場合、それに直面する恐れというのは深刻に感じるところがある。

マル激の中では、「貧困」と「貧乏」は違うということも話されていた。「貧困」は、人間にとって基本的な衣・食・住の問題で、生活困窮に陥るほどの窮乏生活に陥ってしまうことを意味するものとして語られていた。それに対して「貧乏」というのは、単に金がないという現象を指すだけのものとして語られていた。

「貧困」というのは、必然的に人間性を破壊するものとして捉えられていた。だからこそ、「貧困」で幸せはありえないという判断も生まれてくる。それに対して、「貧乏」は、たとえ金がない状態であろうとも、それを補う社会的なネットワークさえあれば、「貧乏」の中にいても幸せだということがありうる。この指摘は論理的にとても面白いものだと感じた。

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by ksyuumei | 2007-10-05 09:50 | 雑文

ウィトゲンシュタインの論理空間

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの論理空間というのは、意味を持つすべての命題を寄せ集めたものというイメージで読み取れる。ウィトゲンシュタインは、これらの命題を「事態」と呼んでいたようだ。この「事態」は、まだ現実化されていないものもたくさんあり、そのイメージが人間には想像可能だということで「意味がある」とされているように思う。

この、想像可能な「事態」の中で、実際に現実化されているものを「事実」と呼んで、これこそが「世界」であると定義されている。「世界」というのは、現実と対照されて、その主張する事柄が現実に発見されるものだ。つまり、その命題が真理であることが確認される命題が「事実」と呼ばれる。「世界」は、物の集まりではなく、「事実」の集まりであって、それは真なる命題の集まりであるというのが『論理哲学論考』の主張だ。

この「世界」の定義は、思考の限界を定めるためにウィトゲンシュタインが設定したもので、そう考えなければならない強制はない。「世界」を物の集まりだと考える見方もあってもいいだろう。しかし、そのときはウィトゲンシュタインがやったような、思考の限界を言語の限界として考察するということがうまくいかなくなるだろうと思う。定義というのは、そのようなもので、「世界」をあらかじめそのように設定しているからといって、先験主義(アプリオリズム)に陥っているわけではない。これは、考察の目的を達成するための設定であり、仮説としての出発点だと意識されている。

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by ksyuumei | 2007-10-04 10:24 | 論理

先験主義(アプリオリズム)の間違い

シカゴブルースさんから「マイナス概念の形成」というトラックバックをもらった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で語っている、「マイナスというものがそもそも想像上の対象である」ことと、それを現実の中に探しても、それが「存在しない」ので、直感的な把握が難しいのだという主張への反対の見解を語っている。

シカゴ・ブルースさんは、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」ということの判断から、僕が「マイナス」という言葉の意味から上のような結論を引き出したことを、現実の経験を媒介にしない、何か先験的な判断のようなものという受け取り方で、「先験主義(ア・プリオリズム)的な解釈」と呼んでいるように思われる。しかし、先験的な判断は、「主義」にまで徹底されてしまうと間違えるだろうが、個々の場合においては、経験するまでもなく確かだと判断できることもある。それが論理的判断であり、論理的判断をすることは、決して先験主義という「主義」ではない。

また、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」というものも、無条件にそれを肯定することは出来ない。もし、このことを無条件に肯定してしまえば、それこそ間違った「先見的判断」として「先験主義」に陥ってしまうのではないかと思われる。「ことば」はそれがまったく新しい実体に対する命名であった場合は、もちろん現実がまず第一にあって、そこから概念が引き出され、それに命名されるという順番になるだろう。しかし、「ことば」の洪水の中で育っている現代の我々においては、まず「ことば」の意味が先行して後に概念が形成され、その概念に合致する現実を発見するという逆のコースも存在する。

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by ksyuumei | 2007-10-03 09:53 | 論理

微分が運動の表現であることについて

微分という数学の計算が運動の表現であることは、ある意味では自明のことだとも思われる。それは、ニュートンが自らの力学の解析に利用するために発明した計算であり、ニュートン力学は、動力学として運動の解析をするものだからだ。だから、その生まれてきた過程を見れば、微分が運動を表現している、それは位置情報の関数を微分することによって速度が得られ、速度を微分すれば加速度が得られるというように、運動を表しているものと受け取ることが出来る。

だが、微分が運動の表現であるということをこの意味で知っているというのは、知識としてそれを把握しているということにしか過ぎないのではないかと僕は感じる。マルクスは、エンゲルスが「数学に通じた人」と呼んでいたが、マルクスが残した数学に関する論文が「数学手稿」(大月書店)として本になっている。これを見ると、微分が運動の表現であるということを、実感として述べようとしていたのではないかと感じるところがある。以下、それを考えてみようと思う。

板倉さんが指摘したように、運動というのは、論理の言葉で記述しようとするとどうしても矛盾したような表現が入ってしまう。ゼノンのパラドックスは、その矛盾した点を鋭く突いたものになっている。この、ゼノンのパラドックスの表現との類似性も微分という計算が持っているのではないかと僕は感じる。

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by ksyuumei | 2007-10-02 09:56 | 論理