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集団自決という現象のディテール(細部あるいは末梢的なこと)

夜間中学には日本語学級という、日本語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日本へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日本語の授業を受けるために必要な日本語の会話を学習するためのクラスになっているが、発足のころは違っていた。

日本語学級が発足したころは、戦後長いあいだ戦地になっていた中国などから、さまざまな事情で帰れなくなっていた人々が引き揚げてきたことがきっかけだった。いわゆる「中国残留孤児」という呼び方をされていた人々は、幼いころに中国に取り残されてしまったため、日本人でありながらまったく日本語が話せない・理解できないという状況にあった。

これらの人々が日本へ引き揚げて、日本で生活を始めたときに、生活のために必要な日本語を学ぶ場所がなかった。そこで、夜間中学がとりあえずそのような日本語の教育機関として選ばれ、日本語学級というものが設置された。だから、夜間中学の日本語学級は、そもそもの発足のきっかけは、引揚者の日本語学習の問題からであり、教科学習のための基礎的日本語を学習するという問題ではなかった。そのような特殊な事情のある夜間中学校の日本語学級では、中国からの引揚者がたくさん学んできた。その関係者の一人であるNさんの体験談を聞く機会が先日あったのだが、その中で旧満州における「集団自決」の問題が語られていた。

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by ksyuumei | 2007-10-30 09:33 | 雑文

存在の問題の難しさ--その弁証法性

「『論理哲学論考』が構想したもの8  複合的概念が指し示すものの存在」のコメント欄に、Kさんという方からのコメントが送られてきた。僕は、このコメントを見たとき、最初は「揚げ足取り」をしてきたのではないかという印象をもった。だから、このコメントを反映させる必要はないかなとも考えていた。

しかし、よく読み返してみると、「揚げ足取り」という最初の印象を示すような直接の言葉というのが見つからなかった。「揚げ足取り」というのは、辞書によれば「《技を掛けようとした相手の足を取って倒すところから》人の言いまちがいや言葉じりをとらえて非難したり、からかったりする。」と説明されている。これは単純な対象を指し示して、実体として指摘できるような「名」ではない。その現象を分析して、このような性質を持っているという判断がされたときに、「揚げ足取りだ」と表現される複合概念になっている。

だから、「揚げ足取り」というのは、直接これだといって言葉を指し示して判断できるものではなく、「言い間違い」や「言葉尻」というものを分析して判断しなければならないものになっている。それを僕は、読んだときの自分の印象から最初は判断した。これは、その前のコメントに「罵倒」を表す言葉が含まれていたので、それとの関連から、「存在」という言葉の意味の二重性を捉えて「揚げ足取り」をしに来たのではないかという印象を持ったからだ。

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by ksyuumei | 2007-10-25 10:09 | 哲学一般

「存在」という属性

野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示すことが出来る単純性を持った「対象」に当たるものだけだったように思われる。この真に存在するものが示す事実から切り出されるものが「対象」であり、それを表現する言語が「名」と呼ばれた。

「名」は対象の像として存在するので、それが「名」として存在するためには、本体である「対象」の存在を必要とする。この「対象」の存在は、「名」の前提となるもので、存在そのものを何らかの方法で証明したりすることが出来ない。存在そのものに関しては、ウィトゲンシュタイン的な表現を使えば「語りえぬもの」ということになるのではないだろうか。野矢さんの表現を借りれば、それは「示されるもの」と捉えなければならないのではないかと思う。

存在が証明されないものであるなら、それは経験的なものではなくなる。つまり経験を越えたものとして、ア・プリオリ(先験的)に所与のものとして我々の前に現れていると受け取らなければならない。このア・プリオリ性を直感的に納得するのはかなり難しいのではないかと思う。思い込んでいれば存在することになるのかという問題があるからだ。

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by ksyuumei | 2007-10-24 10:22 | 哲学一般

「事実」とその「解釈」について

沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映させるつもりはない。しかし、少しの疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてくるというメンタリティは考察に値するものだと思う。

僕は、宮台真司氏や仲正昌樹氏の左翼批判に共感するところがあるのだが、特に宮台氏が語る「左翼の嘘」という指摘に重要なものを感じている。これまでの左翼の言説には、プロパガンダとして役に立つのであれば、少々疑わしい「事実性」であってもそれを宣伝して言語ゲーム的な「事実」にしてしまったものがあるという指摘だ。もっとも分かりやすい例が、今日本にいる在日朝鮮人と言われる人々の大部分が、強制連行された人たちの関係者だというものだ。これは、専門家の間では完全な間違いであるということが言われているようだ。

戦前に日本を訪れた多くの朝鮮人たちは、強制連行という形で来た者たちよりも、日本で何とか一旗上げようという気持ち出来た人々が多かったと宮台氏は言う。それは、本国での産業が廃れてしまった国内では食っていくことさえ困る状態だったので、何とか食うことだけでもできないかという気持ちで訪れたという人々が大部分だったということだ。戦前の日本が移民を多く排出したのと同じ状況だ。

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by ksyuumei | 2007-10-22 10:07 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの8  複合的概念が指し示すものの存在

ウィトゲンシュタインの世界においては、「事実」から切り出されてくる「対象」は単純なものに限られていた。それは、その「対象」の像として設定される「名」という言語表現が、論理空間を作る要素として取り出されるからだ。現実世界から論理空間を作り出すとき、それが一定の手順・アルゴリズムとして確立していなければ、全体像を把握することが出来なくなる。論理空間は、全体像を把握できなければ、その思考の展開の限界を見ることができなくなる。全体像の把握という目的からは、「対象」の単純性は不可欠の要請のように思われる。

ウィトゲンシュタインの世界においては、存在するものは単純なものに限られている。言葉を言い換えれば、単純なものとしての「対象」の存在は、世界の前提として設定されていると言えばいいだろうか。これに対して、複合的概念(論理語によって定義される概念)が指し示すものは、それが存在するように見えても、存在とは判断しないというのがウィトゲンシュタインの考え方なのではないかと思う。

この捉え方は、かなり直感と対立する違和感を感じるものではないかと思うので、直感とうまく調和するような理解のしかたを考えたいと思う。あまり厳密な言い方ではないが、「対象」というのは、現実に直接指し示すことが出来る存在を表現したときに、「名」として登場するという感じがする。それに対し、論理語のように「名」ではないものは、直接指し示すのではなく、状況を解釈したときに認識の判断として表現されるもののように感じる。

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by ksyuumei | 2007-10-21 11:32 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの7  対象の単純性について

ウィトゲンシュタインが「対象」の単純性について語っていることを理解するのは案外難しいのではないかと感じる。それは、存在という属性をどう捉えるかということと深く関わってくる。

「対象」というのは、世界を構成する「事実」から切り出されてきた要素として登場する。「事実」としての世界の現れがまずあり、それを捉えた人間が、「事実」を分析してその中から構成要素としての「対象」を取り出す。そして、その「対象」を表現する言語を「名」と呼んだ。この「名」が、現実の「対象」の像として働くことになり、これを言語表現としてつなぎ合わせて命題を作り、それが言語的に意味を持つものであるとき、それを「事態」と呼んで可能性を表すものとした。

「名」の結合によって作り出された「事態」を集めた集合は「論理空間」と呼ばれ、これこそが思考の限界を考察するためのベースとなるものになった。このとき論理語については、否定の「ない」や接続詞の「または」「かつ」「ならば」などは「名」ではないという理解の仕方をした。「名」ではないというのは、それと直接結びつく「対象」という実体がないということを意味する。つまり、実体としてこの言葉を体現するようなものは存在しないと考えている。

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by ksyuumei | 2007-10-20 10:35 | 論理

論理語「ならば」の考察--必然性あるいは因果律について

論理語「ならば」について野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』で語っているのは、その真理領域の関係についてだ。「AならばB」という命題があったとき、Aを真理とする状況である真理領域が、Bを真理とする状況であるBの真理領域にすべて含まれているなら、Aが真理であることからBが真理であることも帰結する。

つまり、AとBの真理領域が、集合としての包含関係にある時は、この「ならば」の命題は特別な事情にあることになる。Bの真理性は、それを直接確かめることなく、Aの真理性を確かめるだけで成立する。つまり、Aが成り立つなら「必然的」にBも成り立つという関係になっている。あるいは、Aを原因としてBが結果的に起こるという因果関係を語るものにもなっている。

野矢さんは、この真理領域の関係以外のことについては「ならば」については語っていないので、これ以上のことについて考えようとするのは、ウィトゲンシュタインが直接考えたことかどうかは分からない。必然性や因果関係については、僕が考えることなので、ウィトゲンシュタインがこのように考えたかどうかは分からないので、ウィトゲンシュタインが構想したことという考察からははずしておいた。「ならば」の解釈については、形式論理的には非常に難しいところがあるので、僕の関心のある部分を自分なりに展開してみようと思う。

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by ksyuumei | 2007-10-19 10:01 | 論理

弁証法における矛盾

shさんという方から「『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない」のコメント欄に、弁証法における矛盾という概念に対する違和感を語るコメントをもらった。僕も形式論理からスタートした人間だけに、若いころは弁証法が語る矛盾に大きな違和感を感じていた。

形式論理における矛盾は現実に存在することはあり得ない。それは、存在を否定する形でその定義がされているからだ。ある命題の肯定と否定というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えばその真理領域が反転している。同時に現れるような真理領域になっていない。もし、これが同時に現れるようなら、形式論理ではそれは矛盾とは呼ばない。

弁証法では、この矛盾が現実に存在することを主張する。形式論理に反したこの主張は、合理的思考を放棄したものとして若いころの僕には感じられたものだった。つまり、弁証法というのは、理屈っぽい言い方で相手を丸め込もうとするような詭弁に過ぎないというのが最初の印象だった。それが変わったのが、三浦つとむさんの弁証法の解説を読んでからだった。

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by ksyuumei | 2007-10-17 10:20 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない

野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』の中で、否定を表す「ない」について、それが現実に「対象」を持たないことを指摘していた。これは現実に「対象」を持たないので、「対象」の像として定義されている「名」ではないこともそこで指摘されている。「ない」は、「名」の結合として作られる論理空間の中の「事態」を作らないというわけだ。

論理空間の中の「事態」は、現実の「事実」から切り出された「対象」の像である言語を結合して作られる可能性を指す。これは、現実の「事実」から切り出されるのであるから、存在しているという肯定判断を前提としている。否定判断というのは、そのような肯定判断を、像としての言語の結合で作り出したとき、現実にそれに対応する「事実」が見つからなかったときに、その可能性が現実性でなかったということで否定判断として提出される。

否定判断においては、その真理領域が現実に見出せないという「ない」が本質的なものになるだろう。ないものを「対象」にすることは出来ないので、否定語「ない」には「対象」が存在しないという判断になり、「名」ではないという判断になる。否定語「ない」は論理空間の真理領域に対する操作となり、命題の真偽を問題にする「論理」としての顔をあらわしてくる。これが操作にあたるものだということから、そのア・プリオリ性(先験性)も引き出される。この操作を2回行うことは、真理領域を反転させることを2回行うことに等しく、それは経験によらず、もとと同じ真理領域を示すことになるので二重否定は肯定と等しくなる。これが形式論理的な法則になる。

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by ksyuumei | 2007-10-16 10:22 | 論理

『論理哲学論考』が構想したもの5 論理空間における否定

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』では、否定の「ない」という言葉は「名」ではないという考察がされていた。つまり、否定表現に相当するような「対象」が現実に存在しないということが指摘されていた。否定は、「事実」から「対象」が切り出され、その「対象」の像である言語を結合させて作った可能性が現実に見出せなかったときに、論理的判断として否定判断の「ない」が生じる。可能性を考察できなければ否定判断も出来ないという関係にある。

この否定判断の特徴をもっと際立たせて考察するために野矢さんは「点灯論理空間」というものを設定する。それは二つの明かりaとbだけが実体として存在する空間で、可能な「事態」としては、その明かりが「点いている」「点いていない」という二つの状態のみが語られる空間だ。可能な事態は次の4つに絞られる。

1  aが点いていて、bが点いている。
2  aが点いていて、bが点いていない。
3  aが点いていなくて、bが点いている。
4  aが点いていなくて、bも点いていない。

上の4つは、普通に否定表現を使って「事態」を表現しているが、否定表現というのは、それに対応する「対象」を現実の中に持たないので、現実の「事実」から切り出された「対象」から構成される論理空間にはそのままの形で否定を持ち込むことが出来ない。「事実」として切り出される「対象」は、aとbという実体的な明かりと「点いている」という属性のみになり、これらを組み合わせて論理空間を作れば、上の4つに対応した「事態」の集まりは次のようになる。

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by ksyuumei | 2007-10-15 10:00 | 論理