<   2007年 09月 ( 23 )   > この月の画像一覧

権力概念の形成

萱野稔人さんは『権力の読み方』(青土社)という本で「権力」について論じている。それは、「権力」という概念について、ぼんやりとした不明瞭な状態がだんだんと明確になっていく発展の過程を綴っているようにも見える。これは、法則性の認識の発展段階である三段階論とよく似ているような感じがする。

「権力」という概念は、その最初は、何か権力らしいものを現実に発見して、その現実の特徴を受け取っていくということから出発する。これは現象論的段階に相当するもので、世間で「権力」と言われているものの姿を具体的に観察したり、自分の中の「権力」のイメージに合致するような具体的な存在を観察したりして、その概念の中身を作っていく。それは、最初は具体性にべったりと張り付いた、まだ十分抽象化されない概念として理解されているだろう。

ぼんやりした権力概念で浮かんでくるイメージは、まずは他者に命令をしたりして、自分の思い通りに他者を動かしている人間というものではないだろうか。自分の意志どおりに他者を動かすことの出来る人間は、なにかそこに「権力」というものがあるのを予想させる。そして、それが他者の意志に反すること・つまり他者が望んではいないことであっても、そうせざるを得ないように動かすことの出来る力であるなら、それはかなり「強い権力」だと言っていいのではないだろうか。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-17 16:44 | 論理

経済学が設定する実体

三土修平さんの『はじめてのミクロ経済学』(日本評論社)という本から、経済学が設定する実体と、その実体が従う法則性というものを考えてみたいと思う。現象から実体が抽象され、その抽象的実体が従う論理法則を、現象に再び問い返すことによってその抽象が妥当かどうかを検証するという過程を経て、現象論的段階が実体論的段階へと発展していくように思われる。

そしてまた、この実体が抽象のレベルを上げていくことによって、その法則性の範囲が広がり、経済学では社会全般という最高の範囲の抽象度に達したときに「本質論的段階」が訪れるようにも感じる。この本質論的段階は、実体の範囲がある条件の下に設定されている。ニュートン力学で言えば、目で見て観察できるような範囲にある実体なら、その観察の範囲にある現象に対してはすべて成立するという、その条件下での最高の抽象の実体に関して語る法則になる。だからこそ、この実体論的段階がそのまま本質論的段階に重なるのだと思う。

本質論的段階に達したニュートン力学において、ここで対象としている実体の範囲を少し広げると、その新たな条件のもとでは、本質論的段階が現象論的段階として解釈される。我々が、目で見える範囲を越えたものを実体として設定すると、目で見える範囲では誤差として処理されていたものが、正確な計測の対象になってくる。そうすると、ニュートン力学の法則性は、現象論的に、そう見えただけだということになってくる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-17 11:28 | 論理

ケプラーが設定した実体

武谷三男さんは、三段階論を説明するとき、「現象論的段階」としては天体の観測の精密な記録を行っティコ・ブラーエを例にあげて、ティコの段階を「現象論的段階」として提出している。そして3つの法則を発見したケプラーを「実体論的段階」として例にあげている。

単純に考えれば、現象の観測をしてそれを記述したからティコは「現象論的段階」であり、実体である太陽系の天体の属性として、その法則性を提出したのでケプラーが「実体論的段階」と呼ばれているように見える。しかし、そのような単純な見方で、法則性の認識の発展というようなことが言えるのだろうか。

天体の運動に関しては、地動説と天動説の争いもあり、目で見えるような現象と、それの本来の姿との間にずれがある。すでに太陽系のさまざまな法則性を知っている我々が、後づけで法則性の発見の過程を考えるのと、まだ法則性が確立されていないときに、手探りでそれを見つけていく実際の過程とではどこかが違うような感じがする。実際には、単純できれいな発展の仕方はしていないのではないかと思う。それまで信じられていたものの考え方を捨てて、新たな方向で理論を組み立てなおすというのは、そう簡単なものに見えない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-16 11:44 | 論理

反対のことは せず させず

牧衷さんの『運動論いろは』という本には、表題のような「反対のことは せず させず」という格言のようなものが載っている。これがもし格言として提出されているなら、それは発想法のようなものとして理解できるだろう。格言というのは、ことわざのようなもので、それが正しいときもあれば正しくないときもあるというものだ。それが正しいのは、現実の諸条件によるので、その諸条件が分からないうちは、一般的な法則として受け取ることが出来ない。

諸条件というのは、具体的な現象に対して、その具体性に深くかかわる条件として登場する。だから一般化することが出来ない。例えば、「大は小を兼ねる」ということわざがある。これは、道具の大きさについて語っている。普通はそれぞれの使用条件によって道具の大小が決まってくる。大きさが違えば道具が使えないということがある。しかし、時と場合によっては、大きいものが小さい道具の代わりに通用することもある。

このことわざは常に成立する法則性を語るものではない。形が似ているからといって、お玉は耳掻きの代わりにはならない。耳掻きにとって、その大きさは道具としての有用性に決定的な意味を持っている。そのような場合は、「大は小を兼ねる」とは言えない。このことわざが正しくなるのは、その道具の使用の場面という具体性が深く関わってくる。一般化した法則性として解釈することが出来ない。このような法則性は発想法として機能する。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-14 09:37 | 論理

現実に存在する実体と実体論的段階で対象にしている実体

関さんから「モデル理論としての経済学の法則性」のコメント欄に、たいへん興味深いコメントをもらった。このコメントに答えるには、コメント欄の短い文章では真意が伝わらないのではないかと思い、改めて考えをまとめてみようと思う。

それは三段階論の実体論的段階をどう捉えるかという問題であり、ある命題の真理性と、その命題を真理だと認識する人間の理解の違いを考える問題ではないかと感じている。エンゲルスの言葉だったか、「最初の素朴な見方は真理に近い」というようなものがあったように記憶している。最初の素朴な見方というのは、まさに現象論的段階における法則性の認識に相当するものだと考えられるだろう。

エンゲルスは、摩擦が熱に変わるという現象を取り上げて、この素朴な認識が「運動エネルギーが熱エネルギーに変換される」という真理に近いものとして考えられるということを語っていた。物をこすり合わせるとそれが熱くなるというのは、簡単に経験できるものであり、現象としてはすぐに確認できる。しかし、その法則性は、その経験が裏切られることはなかったという経験からきているもので、もし一度でも裏切られるような経験があれば、すぐに真理性が揺らいでしまうような法則性の認識だ。この段階が「現象論的段階」と呼ばれるものではないかと僕は思っている。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-13 10:15 | 論理

人間の心に関する法則性

心理学や精神分析は科学ではない、ということは僕もそう思っているのだが、そのように宮台氏なども語っていたように記憶している。宮台氏の言い方では、人間の心というのは、その当人は自分で感じることが出来るが、それを他者が客観的に観察することが出来ないと語っていたように思う。他者にとって他人の心というのは、あくまでも想像の域を出るものではなく、客観的対象として実体化することが出来ない。

行動主義と呼ばれる心理学では、客観的存在ではない心に対して、観察可能な「行動」のほうを記述して、行動の属性としての心を考察するという方向で科学としての心理学を構築しようとしたように見える。これは、心というものを、実体ではなく機能として捉える発想ではないかと思う。心の存在は確かに自分では感じるのだが、それはどこにあるかというのは言うことが出来ない。それは人間の脳の働きだと言ったほうが本当らしい。

しかしこの発想は、実体論が不十分なまま本質論へと向かっているような感じがして、科学の発展としてはどこかに欠陥があるような気もする。心という実体が本当はなかったにしても、そこにフィクショナルに設定した実体として、まずは実体論的段階における論理の展開が十分になされる必要があるのではないかとも感じる。故河合隼雄さんは、カウンセリングの実践を理論化するときに「魂」という実体を設定することを提案していたが、「魂」というのは本当に存在するかどうかはわからないけれど、それがあると思って現象を解釈するとうまく論理が展開できるというものだった。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-10 09:43 | 論理

人間の意志が関わる行動の法則性

今週配信されたマル激では、小幡績さんというゲストを招いてバブルの現象というものを分析していた。この分析では、人間が意志の自由によって行動を選択する際、自由によって無秩序に選択されるように見える行動の中に、ある種の法則性を解釈する余地があるということが説得的に説明されていた。

バブルでは、適正価格以上に値が上がった株に対して、それを買い求める人が殺到するため、さらに適正価格以上に値が上がるという現象が起こる。それは永久に続くような現象ではなく、いつかはそれが高すぎることに誰もが気づき、突然それが買われなくなる。そうするとバブルがはじけることになり、高値でそれを買った人は大きな損をするということにもなってくるわけだ。

僕は、この現象については、欲に目がくらんだ人が判断を間違えたために、いつかは必ず値が落ちる株に殺到して損をしただけなのではないかと思っていた。率直に言えば、損をした人たちは「頭が悪かった」だけなのではないかと感じていた。しかし、このマル激を聞く限りでは、ことはそう単純な理解ではすまないとも感じた。頭がいい・悪いに関わらず、バブルが起こったときには、儲けようという目的があればそれに乗るというのが法則性として働いているのではないかと思った。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-09 14:07 | 論理

モデル理論としての経済学の法則性

小室直樹氏は、モデル理論としての経済学について『資本主義原論』(東洋経済新報社)の第2章で説明している。このモデル理論というのは、現実の経済現象を単純化して、本質的であろうと考えられる部分を抽象(末梢的な部分を捨象)して、現実の対象そのままではない抽象化された実体を対象にして理論を構築するものだ。

本質的なものと末梢的なものを現象を集めた現象論的段階から判断し、抽象的な実体を立ててそれを考察するので、三段階論で言えば実体論的段階に当たるものではないかと思う。ただ、この本質の抽象に関しては、理論展開を容易にするための単純化という要素も入っているので、現実にはよく見られるような部分でも、それをそのまま取り入れて理論化しようとするとあまりにも複雑になる場合は、理論構築のためにあえて捨象するということも出てくる。

これは数学によく似ているようだ。幾何学などでは、その対象としての直線は幅を持たないものとして抽象化されている。これは現実にはあり得ないのだがそのほうが理論構築が容易だということで、そのように実体化されている。この数学が現実に応用される場合は、直線の幅が実際にはあったとしても、それが誤差として捨てることが出来れば何ら問題なく応用できることになる。モデル理論としての経済学も、捨象した部分が例外的なものとして処理されるなら、理論そのものは抽象的で現実にはあり得ないものであっても、現実への応用が十分有効になるだろうと思われる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-07 10:20 | 論理

小室直樹氏が語る資本主義の法則性

小室直樹氏が『資本主義原論』(東洋経済新報社)という本で、資本主義に関する法則性を語っている。これは、今まで考えてきた三段階論的な意味での法則性とややニュアンスが違うのを感じる。この違いをちょっと考えてみたいと思う。

小室氏は、見出しとしてもそのものズバリの「経済には法則がある」という第一章の文章で、「市場には法則がある」ということでこの法則性を語っている。今まで考えてきた法則性は、具体的な現実存在の属性として観察できるものを出発点として、現象論的段階から実体論的段階を経て本質論的段階に発展していくというものを見てきた。法則性としては、具体的に対象がどうなるかということを語るものだった。

しかしここで小室氏が語る法則性は、具体的な存在がどうなるかということを語るものではない。むしろ具体性が捨象されて、法則性そのものが「存在する」か「存在しない」かということを語るものになっている。対象に関する法則性ではなく、法則性そのものに対する言及になっていて、「メタ法則性」とでも言いたくなるような一段高い視点からの法則性の捉え方になっている。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-06 09:54 | 論理

権力は悪か?

僕は以前には左翼だと思われていたので、権力に対しては悪だと決め付けているのではないかと思われていたふしがある。いわゆる左翼にはそういうイメージがあるのだろう。しかし、僕は左翼的なものとのかかわりはあるが、それと深くコミットしたことはない。組合は左翼といえば左翼だが、僕はその活動からはいつも一歩引いて眺めるような人間だった。

左翼的な活動は、社会主義国家がそうであったように、全体主義の匂いを感じるのである種の生理的な嫌悪感があったからだ。その活動を正しいと思っている人間は、他人がどう感じようとその活動を押し付けるのが正しいというような雰囲気を感じていた。状況によっては、その判断が必ずしも正しいと思えないようなことであっても、個人のそのような判断を認めず、組織が決定したことには無条件に従うことを求めてくるのは、体制的な組織よりもずっと強い押し付けがあって、全体主義的な傾向が強いと思ったものだ。これは、正義を実現しているという自信からくるもので、その自信が、論証抜きの形而上学になっているところが、一歩引いて眺めたくなる要因だった。

この左翼にとって「権力は悪だ」という命題はほとんど自明だともいえるものではないかと思う。これは、左翼にとって権力は常に弾圧するものとして登場してくるからだ。左翼を大切にして仲良くしてくれる権力というのは形容矛盾になってしまうだろう。左翼という立場にいれば、権力は常に損害を与える存在であり、損害を与える相手を「悪」と呼ぶなら、権力は常に悪であることは確かだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-05 10:13 | 論理