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南郷継正さんの「しごき論」

武道家の南郷継正さんの『武道の理論』(三一新書)を読んだのはかなり以前のことなのだが、そこにたいへん面白い「しごき論」がある。「しごき」は、武道の上達のためには絶対的に必要であり、しかも有効に働くということを前提にしながらも、それは行き過ぎる可能性を常に持つものとして、経験主義的に把握するのではなく、いわば実体論的とでも呼ぶような理解の仕方が必要であると主張するものだ。

今話題になっている相撲の時津風部屋の力士の死亡の問題は、行き過ぎた「しごき」の問題としても捉えることが出来る。外から見ている人間からすると、死んでしまうまでしごくような人間たちは鬼のようなひどい人間に見えてくるが、「しごき」という現象は、本質的にそのような危険性を伴うものであるという認識が必要だろうと思う。指導者としての賢さや資質がない人間は「しごき」を上達の手段として用いるべきではないのだと思う。

少年力士を死に至らしめた人々は、鬼のような人非人ではなく、ごく普通の人だったのではないかと僕は思う。そして、そのごく普通の人を、通常では考えられないようなひどい行為をするところまでエスカレートさせるものが「しごき」の中にはあるのだと思う。「しごき」がなぜ行き過ぎてしまうかという構造的な部分を、南郷さんの言葉をヒントに考えてみようと思う。それは、いじめが行き過ぎて人を追い詰める構造に似ているのではないかとも思う。普通の人が、普通でなくなってしまうようなメカニズムを知って、それを自らの戒めにしたいものだと思う。

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by ksyuumei | 2007-09-29 22:43 | 雑文

タダ乗り平和主義

今週配信されているマル激では、テロ特措法との関連で国防問題あるいは安全保障の問題が議論されている。そのときに宮台氏が語っていたのが「タダ乗り平和主義」というものだ。これは「タダ乗り」という言葉に、「払うべきコストを払わない」というニュアンスが込められている。

これは、宮台氏が「祝 安倍晋三内閣終焉に寄せて」というブログエントリーで書いている「教条主義左翼」という言葉といっしょにして理解すると分かりやすいのではないかと思う。「払うべきコストを払わない」という姿勢は倫理的には間違ったものなのだが、その間違いに気づかないメンタリティというのは、「教条主義」というものがそれに気づくことを邪魔するからだろう。

また、「教条主義」がなぜ生まれてくるかという過程を考えると、それは「法則性」の認識の仕方と深くかかわっているのを感じる。武谷さんが指摘するように、現象論が不十分なまま本質論にまで突っ走ってしまうと、認識が形而上学的になり、一つのドグマにとらわれる「教条主義」につながるのではないかと思う。これは自らの経験が現象論のすべてになり、他の経験があるにもかかわらず、そこには目が行かないということから現象論が不十分な状態が生まれるからではないかと思う。

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by ksyuumei | 2007-09-28 10:03 | 戦争・軍事

『論理哲学論考』における「法則」という言葉

野矢茂樹さんが翻訳したウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(岩波文庫)には、用語の索引がついている。その中から「法則」という言葉に関する命題を拾ってみて、ウィトゲンシュタインが「法則」という言葉をどのように使っているかを考えてみようと思う。「法則」というような、一般性の高い言葉は、日常的にも使われるし、比喩的にも使われたりして、その意味は非常に多様なものがある。文脈から決まってくる意味を読み取ることが難しいとも言えるものだ。

ウィトゲンシュタインは哲学者であり、哲学者というのは非常に厳密な論理を展開する。しかもウィトゲンシュタインというのは、余計な説明を一切省き、その本質だけを凝縮して語るような文体を持っている。「法則」という言葉を用いるときも、僕のように無意識に使ってしまうということはないだろうと思う。吟味に吟味を重ねてその言葉を選んだに違いない。

ただこの『論理哲学論考』は翻訳なので、日本語的なニュアンスと違うものがあるということが考えられるかもしれない。しかし、そもそも「法則」という言葉が、今のような使われ方をしているのは、明治以後に近代科学が輸入されてからのことではないかとも思われるので、もともとが翻訳概念だと言ってもいいかもしれない。ともかく、ウィトゲンシュタインが命題の中で語る「法則」という言葉が、その命題の中ではどのような意味で使われているのかを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2007-09-27 10:07 | 雑文

用語の使い方とその意味

関さんから「数学的法則性とその現実への適用」のコメント欄に「法則」という言葉の使い方に対する違和感を語るコメントをもらった。これは、その違和感というのは十分理解できる。僕も、「科学的な」という修飾語を付した「法則」に関しては、仮説実験の論理によって証明されたものという意味を含めて使っていたからだ。

このエントリーで「結合法則」という言葉を使ったのは、無意識のうちにそのような用語の使い方をしたのだが、よく考えてみるとやはり使うには使っただけの理由があったことに気が付いた。それは短いコメント欄では説明しきれないので、改めて一つのエントリーとして、どうして「結合法則」という言葉を使ったのかを説明してみたいと思う。

僕が無意識のうちに「結合法則」という言葉を使ったのは、それが数学の中でもごく当たり前に使われているという習慣からくるものが大きい。ウィキペディアでも「結合法則」という項目があって、それが説明されている。これはおそらく「associative law」という英語の翻訳のようなものとして使われているのだろうと思う。これは、他には「結合則」・「結合律」とも呼ばれていることがそこでは説明されている。

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by ksyuumei | 2007-09-26 09:56 | 雑文

論理はなぜ正しいのか

哲学者の野矢茂樹さんは『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房)という本の中で、論理を「語りえぬもの」と書いている。論理というのは、ある事柄が正しいことを示すのに使われるが、論理そのものの正しさを問題にされることがない。むしろ論理そのものの正しさを示そうとすると、その難しさに困惑してしまうのではないだろうか。

野矢さんは、論理は「語りえぬもの」で、ただ「示される」だけだと語るが、この正しさというものを拙いながらも語ってみようかと思う。論理というのは、法則性として正しさを確認できるものなのか、それとも自明の前提として、合理的思考を進めるにはどうしても従わなければならないものとしてアプリオリ(先験的)に正しさを受け止めなければならないものなのだろうか。

まずは、論理も経験則を抽象化して得られた法則だという立場で考えてみようかと思う。論理は現実を反映した認識の中でも最高度の抽象であり、現実世界と一致することが論理の正しさを支えると考える立場だ。論理という法則性の、現象論的段階・実体論的段階がどういうものであるかを考えてみようかと思う。

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by ksyuumei | 2007-09-25 10:18 | 論理

数学的法則性とその現実への適用

数学教育で難しいものに、アルゴリズムが確立されているものを論理的に正しいということをよく納得して理解するということがある。それは、アルゴリズムが確立されているので、手順さえ覚えれば必ず正解を導くことが出来る。それが正解であるということを理解していなくても、アルゴリズムさえ間違えなければ正解を求めることが出来る。

理解し、納得していなくてもとにかく正解が出せるからいいじゃないかという立場もあるだろう。数学を道具として利用する立場なら、そのアルゴリズムが正しいことが保証されていればそれを信用して、他の側面に思考を集中させるということがあるだろう。しかし、このような立場でも、そのアルゴリズムが正しいという信頼感は、単に信じているだけでは危ういのではないかと思う。せめて基礎的なアルゴリズムだけでも、それが正しいことをよく納得して受け入れなければ、かなり複雑になった難しいアルゴリズムの正しさを単純に信じることは出来ないのではないかと思う。特に、それを道具として他の側面で複雑で難しいことを考えようというなら、基礎的なアルゴリズムの正しさはよく理解しておいたほうがいいだろう。

基礎的なアルゴリズムとしての筆算の加減乗除の理解に関しては、故遠山啓先生が発見した水道方式による教育が効果的だ。特に、教具としてのタイルは、その法則性の現実への適用としては、抽象性と具体性を適度に併せ持った「シェーマ」としての働きを有効に持っている。筆算のアルゴリズムは数学的・抽象的な論理法則であるが、それを理解するには具体的な現実への適用において常に成り立つという納得をする過程が必要だ。それがタイルを使うと効果的になされる。

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by ksyuumei | 2007-09-24 11:44 | 論理

法則は、抽象化された実体に対してのみ成立する

法則性の認識(理解)を考えていたら、これは運動の認識(理解)とよく似ているのではないかということが頭に浮かんできた。運動というのは、変化という属性を本質としている。どのような形であれ、物質的存在に何らかの変化が認められれば、それは運動していると言われる。

代表的なものは位置の変化を表す力学的な運動だろう。位置が変化せずとも、時間とともに何らかの変化をする物質は、外見は動いていないように見えても運動していると解釈することが出来る。このように、運動は平凡な出来事で、身の回りのあらゆるところに見出すことが出来る。しかし、運動そのものを提示することは出来ない。

我々が目にすることが出来るのは、一瞬の静止画の状態だけだ。この静止画の状態を取り出して運動を表現することは出来ない。時間を隔てた二つの静止画を取り出して、それが経過する姿を想像して、この二つから運動を頭の中に作り出すことは出来るものの、現実にそれが運動だと呼べるものを一つだけ取り出すということは出来ない。いくつかの静止画をまとめて取り出すことは出来るものの、それはどれだけたくさん集めても運動そのものにはならない。

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by ksyuumei | 2007-09-23 21:50 | 論理

不毛な二項対立

仲正昌樹さんの文章には「不毛な二項対立」ということがよく出てくる。これは、お互いに相容れない主張(矛盾した主張)を展開していて、相互の間ではまったく話し合いにならないような状態を指していう。これは、どちらかが間違えていて、正しい結論に落ち着くようなら、まだ「不毛」だとは言われないだろう。間違えていた方は悔しい思いをするかもしれないが、間違いが正されることは結果的には多くの人の利益になる。

しかし、どちらが正しいかが簡単に言えない場合、それはより正しい方・あるいは双方の正しさを取り入れた妥協点を見出すことが建設的な方向になるだろう。このような方向へ行くには、建設的な対話がどうしても必要なのだが、双方が、相手の主張を少しでも認めることは出来ないというかたくなな態度を取っていると、この二項対立は、どちらかが完全に否定されるまで続かなくてはならなくなる。そして、かなり難しい問題ではその決着がつくかどうかさえ分からなくなるので、延々と対立が続くことになり、その状態が「不毛」だと言われるようになる。

この不毛さを克服するのはかなり難しい。なぜなら、自分の主張を下げない人は、自分の主張のほうが正しいのはほとんど自明なことのように感じているので、相手が間違っているということが前提になってしまう。こうなると、相手の主張を冷静に分析して、相手の立場に立ってものを考えるということは出来ない。相手がバカに見えてしまう人間には、不毛な二項対立を克服することが出来ない。

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by ksyuumei | 2007-09-20 10:20 | 論理

「正当性」の判断

「正当性」という言葉は、辞書的には「社会通念上また法律上、正しく道理にかなっていること」と説明されている。本質は「道理にかなっている」ということで、論理的に正しいということが要請される。難しいのは「社会通念上」あるいは「法律上」ということだろう。これは、社会通念や法律そのものが「正当性」を欠くという場合も考えられるからだ。「正統性」を欠いた前提から導かれた結論は、たとえ論理的に正しくともその結論に「正当性」があるという保証が出来ない。

「正当性」というのは現実にはそれが肯定的に語られていても、常に揺らいでしまう可能性を持っている。しかし我々は、社会的に決定される事柄に関しては、それが「正当性」を持つことで承認を与える根拠とすることが多い。この「正当性」というものが常に揺らぐことのある存在であるなら、どのようにして「正当」であることの妥当性を高めることが出来るだろうか。

論理的に正しいこと・すなわち合理的であることが必ずしも「正当性」を保証しないとしたら、それ以上の重要な観点というものを見つけなければならない。そうでなければ、民主的な決定に際して、我々が選択するものが間違いである場合が多くなるだろう。いまは自民党の総裁選が争われているが、福田氏か麻生氏か、どちらかを選ぶ際に、その語ることに「正当性」があるかどうかを判断基準にすることは普通に考えられることだろう。だが、「正当性」の判断そのものが揺らいでいては、この選択も間違える可能性が高い。

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by ksyuumei | 2007-09-19 10:17 | 論理

慣性の「原理」

板倉聖宣さんは、『科学と科学教育の源流』(仮説社)という本の中で、<慣性の法則>ではなく<慣性の原理>という言葉を使っている。「慣性」と呼ばれるものが現実世界の法則性を認識したものであれば当然「法則」と呼ばれてしかるべきなのだが、なぜこれを「原理」と呼んでいるのだろうか。板倉さんの語るところを考えてみようと思う。まずはその部分を引用する。


「ガリレオの力学における最大の業績は何かというと、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>の確立ということが出来ます。彼が落下の法則や振り子の法則を発見しなくとも、ニュートンはその力学を完成させることが出来たでしょうが、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>なしには、ニュートン力学も何もあったものではありません。
 いま私は<慣性の原理>と書き、<慣性の法則>とは書きませんでした。どうして、「法則」ではなくて「原理」なのでしょうか。そもそも「原理」と「法則」とはどう違うのでしょうか。私はその違いを、次のように考えています。
 「法則」というのは、実験によってその真偽が決められるものだが、「原理」というのは個々の実験には関係なく「疑い得ない真理」とみなされるものだ、というのです。
 そのことは、「実験的に慣性の原理を証明することは極めて困難だ」ということを考えてみると了解していただけるでしょう。」


板倉さんが語ることを、そのまま素直に受け取ると、「法則」というのは実際の実験によって証明される真理であるが、「原理」のほうはその証明が極めて困難であって、「疑い得ない真理」とみなされるものだから真理なのだというふうに読める。これは、表面的に受け取ると、科学ではなく宗教的ドグマを語っているようにも聞こえる。板倉さんをはじめとする多くの科学者は、証明することが困難な「原理」をどうして真理だと認識できるのだろうか。

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by ksyuumei | 2007-09-18 10:03 | 科学