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メンデルの遺伝の法則の本質論的段階の理解(認識)

メンデルの法則は、学校教育でも学習されるくらいなのでよく知られている法則性ではないかと思う。これは、「メンデルの遺伝法則」で紹介されているものを見ると、次のような特徴で語られていると考えられる。

生物のある外形的特徴が、親から子どもへと受け継がれるとき、受け継がれる特質に優劣があると考える。例えばここではモンキチョウの色について考えている。モンキチョウには黄色いものと白いものが観察されるそうだが、このとき黄色という特質のほうが優性の遺伝になる。

優性というのは、そちらの方が優れているという意味ではなく、表に現れる形質としては、両方の可能性を持っていたときにそちらの方がもう一方よりも出やすくなるということだ。つまり、黄色という特質と白という特質の両方の可能性を持っているモンキチョウがいた場合、黄色という特質のほうが必ず現れて、白という特質のほうが隠れているというのが、黄色のほうが優性であると考えることになる。

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by ksyuumei | 2007-08-31 10:06 | 論理

ことわざの法則性、弁証法の法則性

ことわざが語ることというのは、ある種の法則性を語っているのだが、これは科学的なものではない。経験から得られた教訓のようなもので、以前もそうだったからこのようなことが起こるかもしれないというような感じの法則性になる。これが科学の持っているような法則性にならないのは、三段階の発展をして本質論的段階に至ることがないからではないかと僕は思っている。

ことわざの法則性というのは、実体論的段階にも行くことはなく、現象論的段階のものにとどまっているのではないかと思う。ことわざの特徴を三浦つとむさんは、具体性の張り付いた抽象性というものに見ていた。具体性を完全に捨てることがなく、具体的なイメージを持ちつづけることによって、その内容の理解をしやすくしている。

この具体性は、ある特殊な経験を語るという表現に現れている。ことわざでは、経験したことを一般化して表現することはなく、特殊・具体的な表現のまま、一般化は比喩として理解するようにしている。

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by ksyuumei | 2007-08-29 10:02 | 論理

一般理論の法則性を本質論的段階として理解するには

宮台真司氏の社会学入門講座の「連載第二回:「一般理論」とは何か」では、「一般理論」というものが語られている。これが「理論」と呼ばれているのは、何らかの法則性を語っているからだと思われる。しかも「一般」であるということからは、これが本質論的段階にあたるものだというのを予想させる。

一般理論においては、「特定の文脈に拘束されないことです」ということが特徴として語られる。高度に抽象化されているので汎用性があるということだ。対象が、現存するもののある範囲の「すべて」を含むものになる。この「すべて」に言及するというのは、本質論の特徴の一つでもあるだろう。

宮台氏は「一般的購買力」という抽象的概念で、経済学における一般論について語っている。これは、「貨幣があれば、物物交換の如き、交換当事者が互いに相手の持ち物を欲しがり、相手が欲しがる自分の持ち物を欲しないという「欲求の相互性」という文脈が不要になり、代わりに、誰もが貨幣を欲しがるとの前提で振舞えば済むようになります」というふうに説明され、ここに「文脈に拘束されない」という特徴を見ている。

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by ksyuumei | 2007-08-28 09:50 | 論理

社会が持つ秩序を法則性として認識する

宮台真司氏の「連載第一回:「社会」とは何か」という文章の中には、「不透明な全体性としての社会の秩序は、いかにして可能か」という問いかけがある。社会の中のさまざまな出来事が、確率的な偶然性だけに従って起こるなら、その秩序というものは単純なものになるだろう。しかし、実際の社会の出来事は、確率的にはあり得ないと宮台氏が語るような秩序を持っている。確率的にはありえないということは、そこには確率以外の要素による法則性があると考えなければならないだろう。

この法則性は社会科学的なもので、人間の意志に深くかかわっている。人間がそのようにしようという意志を持たなければ、この法則性は成り立たなくなるだろう。自然のままに放っておいても成り立つ法則性は、自然科学的なものであり確率的な要因に帰着される。人間の意志に関わって成立する法則性の認識は、どのような三段階を経て本質論的段階に達するのか。

単に「秩序」という言葉では、その内容が抽象的過ぎるので、法則性そのものの考察までは進まない。もう少し具体的な法則性としては、宮台氏は「政治主導的な思考では「集団成員の全体を拘束する決定を導く政治共同体の秩序は、いかにして可能か」」というふうに語っている。これは言い換えれば、「社会の中では、個人の意志の自由があるにもかかわらず集団的な決定を経たものは個人を拘束する」という法則性を持っているといえるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2007-08-27 09:51 | 論理

法則性の認識の段階を考える

法則性は言葉で表現しただけでは、それがどの段階にあるかは分からない。認識の段階として、どのように理解していれば三段階論におけるどの段階に相当するのかという問題を考えてみようかと思う。題材としては、宮台真司氏の社会学入門講座から拾ってみようかと思う。

まずは、その「連載第一回:「社会」とは何か」の中に書かれている法則性を考えてみようと思う。ここには、


「マルクス主義は、恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自らの利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらすものだと考え、プロレタリア独裁による市場の無政府性克服が処方箋だ、と考える思想です。」


という記述が見られる。ここで語られている法則性は、宮台氏自身の認識としての法則性ではなく、マルクス主義が捉えた法則性を語っているのだが、これがどの段階として理解できるかを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2007-08-26 12:03 | 論理

本質論的段階は、何故に「本質」と呼ばれるのか

三段階論において現象論的段階で言われる「現象」や、実体論的段階で言われる「実体」というもののイメージは、多少の差異はあっても大筋では同じものであることが多いのではないだろうか。「現象」は、表に現れ・目に見えたそのままのものを記述すればいいのだという受け取り方が出来る。また、実体は現実の物質的存在を指すのだと理解できる。これは、理論の発展段階においては、仮説としてフィクショナルな実体という形を取ることもあるが、それを現実の物質的存在として扱うという点では、フィクショナルであっても同じである。

これに対し「本質」と呼ばれるものは、そのイメージがなかなか難しい。つかみ所がなく、人によってはそれを「本質」だと呼ぶことに異論が出てくる場合もあるのではないだろうか。「本質」というのは辞書的には、「物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿」というふうに説明されている。ある事柄を「本質」と呼ぶには、それが「根本的」なものであるという判断が伴うわけだ。それではその判断はどうやってなされるのか。

根本というのは、そのものが寄って立つ基盤であり根っこになっているものだ。それなしには、その事物は事物としての個性を失ってしまう。このような判断は、対象が何であっても簡単にはできないだろう。試みに、何かある対象を思い浮かべてその本質を考えてみても、なかなかぴったりする説明を見つけるのは難しいだろう。

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by ksyuumei | 2007-08-25 13:10 | 論理

三段階論の各段階の特徴

武谷三男さんの三段階論というのは、法則的認識というものが、本質的な段階にまで高まっていく発展の様子を三段階のものとして解明したものである。これは、板倉聖宣さんによれば三つでなければいけないものらしい。二つになったり四つになったりすることはなく、三つの段階であるということを武谷さんが発見して、これが客観的な法則として確立したという解釈をしている。もう新たな「段階論」を見つけようとしてもだめだということだ。

板倉さんが「武谷三段階論と脚気の歴史」で語るように、三段階論の段階は、そこでもうこれ以上は深められないというところまで行って、次の段階へと飛躍しなければならない。最も高い段階である本質論のほうがすばらしいからといって、現象論や実体論をそこそこにして、一足飛びに本質論へと飛躍は出来ないのだ。

武谷さんも「ニュートン力学の形成について」という論文で、「現象論的な知識が十分でなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである」と書いている。この言葉の意味を正確に受け取るためにも、各段階の特徴というものを知り、その段階を徹底させるということがどういうことなのかを考えてみたいと思う。言葉の上だけで実体論や本質論を語れば、その言っていることは正しいはずなのに、なぜ認識が形而上学的になってしまうかということも考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-08-23 23:35 | 論理

社会科学的な法則性と自然科学的な法則性

板倉聖宣さんは「武谷三段階論と脚気の歴史」の中で、武谷三段階論は「法則性」の認識の発展の段階を語ったものだと指摘している。重要なのは、その認識が「法則性」の認識であるということで、科学としての認識と言い換えてもいいだろうと思う。

ところで科学は、自然科学と社会科学という違いを持ったものが存在する。人によっては、科学として認められるのは自然科学だけで、社会科学は科学として認めないという人もいるようだが、一般理論における法則性を語ったものとして、その正しさが確認されているものであれば社会科学と呼んでもいいのではないかと思う。

対象が自然であるか社会であるかということは、その法則性の現れ方に違いが出てくるように思われる。自然科学の対象は、人間の意志とは独立に存在している物質的なものである。それは、人間がこのようであって欲しいと願っても、願いがそのまま実現されるのではなく、つまり主観的に都合よく操作できるのではなく、客観的な法則性というものを見つけることが出来る。

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by ksyuumei | 2007-08-22 13:59 | 論理

現象論的段階の徹底とその克服

板倉聖宣さんによれば「武谷三段階論と脚気の歴史」で語っているように、現象論的段階というのは、それを越えて実体論的段階に行こうと決心したからといって、主観でそれを克服できるものではない。客観的状況によってそれは決まる。どれほど自分が願っていようとも、客観的条件が整わない限りは、現象論的段階にとどまってそれを徹底させなければならない。板倉さんは、具体的には次のように語っている。


「自分の願いに関わらず,自分は本質論的な法則を見つけたいと願っても見つけられない段階,見つけるべき段階でない段階がある。実体論的認識を目指したくたってだめだ。現象論的認識をきちっとやらなくては駄目だ。あるいは現象論的認識にとどまっていてはいけない。実体論的認識に進まなくてはいけない。あるいは本質論的認識に進まなくてはいけない。そういう情勢の時もある。その情勢は自分の気持ちとは関係ない。「俺は肝が小さいから本質論はできない。俺は現象論でいきたいよ」と言っても駄目。その時の情勢。つまり,その時の研究段階があってそれに併せて本質論的認識を進めなくてはいけない。」


自分の認識がどの段階にいるのかというのを、客観的に決められるということが三段階論においては重要なことのように感じる。それはいったいどのようにして判断できるのだろうか。本質論的段階というのは、言葉で表現すればあっけないくらいに単純になってしまう。しかし、その簡単な言葉を記憶しているだけでは認識は本質論的段階に達しているとはいえない。これは、学習において勘違いしやすいところだ。知っていることと理解している(認識している)こととは違う。では、どのようにすれば、単に言葉として知っているだけではなく、その内容までも理解しているという状態に至れるのか。

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by ksyuumei | 2007-08-20 18:50 | 論理

法則的認識について

板倉聖宣さんが、「武谷三段階論と脚気の歴史」という文章の中で武谷三段階論に関して語っているのだが、その中の「法則的認識」という言葉が気になった。

武谷三段階論というのは、科学的認識の発展段階を三段階に分けて、その必然的移行について語ったものだが、それはあらゆる認識について語ったものではなく、「科学的認識」について語ったものだ。それは、板倉さんが指摘する「法則的」ということが重要な要素を占める認識になる。

人間の認識は、外界を捉えて理解する心の働きを指すのだが、それはすべてが法則的であったり科学的であったりするわけではない。むしろそのような高度に抽象された認識は難しく、たいていは感覚的・感性的な理解にとどまることが多い。人間の認識の中でも、限定された「法則的」なものとしての科学の発展が三段階という特徴を持って発展していくというのが武谷三段階論であって、法則的でない認識は、たとえそれがどのように対象の深い特徴を捉えようと、三段階論とはまったく無関係なものになると理解したほうがいいだろう。

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by ksyuumei | 2007-08-17 23:57 | 論理