<   2007年 07月 ( 20 )   > この月の画像一覧

アルゴリズムの心地よさ

ナンバープレイス・イラストロジック・ループコースというパズルに共通するのは形式論理のみを使ってそのパズルの解答を求めるということだ。ナンバープレイスで言えば、ある数字がその枠に「入る」か「入らない」かという排中律と、同時に両方が成立しないという矛盾律を駆使して、その数字を決定する。イラストロジックでは、ある格子のマスを「塗りつぶす」か「塗らない」かということに形式論理を適用する。ループコースでは、正方形の4つの辺のうち、どの辺を実線で引くかという個数が示されている。この場合は、実線に「する」か「しない」かということに形式論理が適用される。

このパズルをやり始めた初心者の時は、どこに数字が入るか、どこが塗りつぶされるかを、一つずつ考えながら形式論理を展開していく。しかし、慣れてくるとそのうちに、このパターンは必ずこうなるはずだという法則のようなものがつかめてくる。一つのアルゴリズムが見えてくるのだ。そうなると、そのアルゴリズムに従う限りでは、そこでは最初にいろいろと試行錯誤をしたときのような思考の展開は無くなり、機械的に解答を書き入れていくようになる。

パズルというのは、マニアにとっては、考える過程が面白さを感じさせてくれるものなのだが、ほとんど考えることなく、機械的に解答を書き入れていくアルゴリズムが思った以上に心地よいことに気が付いた。それは、かなり面倒な作業で、しかも機械的であるから、やっているうちにいやになるのではないかとも思うのだが、そんなことは無く、同じことの繰り返しが非常に心地よい気分を与える。何時間繰り返していても飽きないと感じるくらいだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-11 10:56 | 教育

無限の考察あれこれ

「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄で武田英夫さんという方が幾つかの疑問を提出しているが、これに対して数学的にどう答えるかということを考えてみたい。無限ホテルのたとえと無理数である円周率の有限小数表現については以前の「現実存在である人間が無限を捉えることの限界」で触れておいた。残りのコメントで語られているものについて考えてみようと思う。

まずは、紙幣と現金の問題について考えてみようと思う。財布の中身を、紙幣の種類として考えれば、どんなにたくさんの現金があっても、1000円札、5000円札、10000円札の3種類しかないと語ることが出来る。しかし、これを現金の問題として、いくらあるかということに対する答として考えれば、2枚の1000円札は2000円という額になる。紙幣の種類として考えるか、現金の額として考えるかで、答が違ってくる。

この矛盾は、形式論理的な矛盾ではなく、「紙幣として見るか」「現金として見るか」という視点の違いによって、1(紙幣の種類としての1000円札)であるか2(1000円札という元気が2枚)であるかの違いが生まれる。ここには、「1であって1でない」という矛盾があるように見える。しかし、この矛盾は、視点の違いからもたらされるものであって、その視点は同時にはもつことが出来ないので、形式論理的には前提の違う命題になり、矛盾律に反することはない。紙幣としてみれば、それは1種類であると結論することは何ら矛盾ではない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-09 14:39 | 論理

小室直樹氏の南京大虐殺否定論

南京大虐殺否定論として語られている言説に対して、今まで僕はあまり関心を引かれなかった。それは事実をめぐる否定論のように感じたからだ。事実というのは、石ころの存在すら主張するのは難しいと哲学で言われるように、それは100%確かだというのは難しい。常に反対を語りうるという、水掛け論の可能性をもっているのが事実をめぐる主張だ。

「あった」か「なかった」かという事実そのものをめぐる肯定論・否定論は形式論理的に見てもあまり面白いものではないと感じる。いくつかの条件を恣意的に選んでしまえば、「あった」という判断を捨象することができて(「あった」という判断に結びつくような事実はすべて誤差として排除する)、「なかった」という結論に結びつけることができるような論理展開ができる。他の前提を選びなおせば、逆に「なかった」という判断に結びつくような条件を捨てて、「あった」という判断を論理的に導くことが出来る。

南京大虐殺と呼ばれる事象に関して、事実として「あった」ことが確認できるのは、おそらく価値判断抜きに客観的に確定できることに限られるだろう。記録された南京市の人口だとか、南京攻略戦という戦闘終了後に埋葬された人の記録から得られる数字のようなものだ。これらの客観的数字は、事実としての信頼性を検討することが出来る。だが、これは「虐殺」そのものを語るものではないから、ここから「虐殺」を語るなら、「虐殺」というものの捉え方を語らなければならない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-09 10:15 | 歴史

宮台真司氏の左翼批判

無料で視聴できる第326回のマル激トークオンデマンドは、小林よしのり氏と萱野稔人氏を迎えてナショナリズムの問題を中心に議論をしていた。愛国心を教育基本法の中に盛り込み、愛国を叫んでいる安倍政権の中心にいるエリートたちがいかに愛国心に欠ける行為をしているかを皮肉をこめて批判しているところも面白いのだが、途中に挿入された、宮台真司氏の左翼批判が印象に残った。

宮台氏は、一つのエピソードを語りながらそれを左翼批判に結び付けている。それは、他の乗客がいるにもかかわらず、電車内で繰り返し強姦をしていた男がいたという事件に絡めたものだった。この男は、外見をやくざ風に装って、その行為を阻止しようとすれば自分が暴力的に襲われるように見えたらしい。だから、繰り返し同じようなことをしていたにもかかわらず、なかなかその行為を止めることが出来なかったようだ。

この男が犯罪行為を繰り返していたということは、その犯罪にかかわった人間は延べ人数にしたらかなり多いだろうと宮台氏は語っていた。発覚しなかった行為に関しては、そのときに関わった人間がみな見て見ぬ振りをしていたことになる。その男に直接対抗することは難しかっただろう。しかし、警察に通報するということくらいは出来たのではないかと思う。それすらなかったというのは、その無責任に対していくら非難されても仕方がないだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-06 10:30 | 左翼の嘘

「しょうがない」という必然性(不可避)の判断

原爆投下に関して、それが「しょうがない」ものであるのかどうか、避けようのない決定だったかということの是非を考えてみたいと思う。もしこれが肯定的に判断できるものであれば、久間氏の判断は、客観的考察の結果としては正当だといえる。しかし、肯定的に判断できない時は、「しょうがない」という認識そのものは否定され批判されなければならないということになる。

これが、考えるまでもなく決まっていると素朴に考える人は、形式論理的に考察することをあきらめたほうがいい。その人は、物事を宗教的に信念(信仰)で判断する人ではないかと僕は思う。物事は、考える前にその判断が決まっていると考えなければ、「考えるまでもなく決まっている」という思考は出来ない。僕は、どんなに自明だと思えることでも、それを疑い、形式論理的な正当性を見出した後にその正しさを信じるという姿勢を持ちつづけたい。

原爆投下が「しょうがない」かどうかを考える前に、もう少し判断しやすい問題で、「しょうがない」という判断の構造を考えてみたいと思う。それは、明治維新後の富国強兵政策についてだ。僕は、富国強兵政策というのは、明治の日本にとって、他に取る道のなかった「しょうがない」道だったと思う。それが結果的に軍国主義につながるように見えたり、後の侵略戦争をもたらしたように見えても、なお富国強兵政策は「しょうがなかった」と思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-06 00:09 | 論理

新聞社説に見る久間発言批判 2

久間発言を取り上げた新聞社説は多いものの、そのほとんどは「しょうがない」という言葉で語られた内容そのものよりも、それが原爆投下を「容認」したかのように語ったと誤解されたことを批判したものばかりだ。この誤解が、犠牲者の犠牲もやむをえなかったものと扱われ、原爆投下の責任を問わないということにつながり、感情的な反発を呼んだように見える。批判のポイントは「容認」というところに集中した。

しかし、これは久間氏本人が「誤解を与えた」と釈明しているように、「容認」そのものを語ったのではなかった。結果的に誤解を与えたことに対して、結果責任として政治家が責任を取るというロジックは成立すると思う。言っていることは間違ってはいないが、世間が誤解したために、政治家としてはその混乱に責任を取る必要があるというロジックだ。

これは、自民党の選挙対策として久間氏に辞任を迫る人間が自民党内にいたりしたので、政治的なロジックでそういうことが成立するのだろう。しかし、このロジックは、感情的な反発を感じている人間からは、政治家としての責任をとったという理解ではなく、「発言の間違いを反省していない開き直り」だという受け取られ方をする。僕の印象では、開き直りというよりも、久間氏自身は、発言を間違えているとは思っていないので、あくまでも混乱させたことを政治家として責任をとったのだというふうに見える。誤解という掛け違えたボタンは、誤解後の行動にまた誤解を生んでいるというふうに僕には見える。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-05 09:53 | 政治

新聞社説に見る久間発言批判 1

新聞社説は、短い報道記事と違って、どこがどのように批判されなければならないかが一応まとまって書かれている。この批判の形式論理的構造を考えてみたいと思う。形式論理において、ある命題Aを否定したい時は、Aを仮定して論理を展開したときに矛盾が導かれることを証明する方法がある。背理法と呼ばれる方法だ。これは、形式論理において矛盾は絶対的な偽である(真理ではない)ということから導かれる。

背理法は間接的な証明法だが、Aの否定命題を直接証明することが出来れば、文字通り、これもAの否定になる。この場合は、いくつかの認められた前提から、論理的な操作だけによってAの否定が導かれるという展開が必要になる。この場合、Aの否定の真理性は、いくつかの認められた前提が正しいということの妥当性によって保証される。

久間氏の「しょうがない」という発言の命題をAとしたとき、それを批判するということは、Aの否定を主張することになる。その批判に正当性・妥当性があるというためには、それが、より確実に真理だと言えるような前提から論理的に導かれているということが必要だ。どのような前提が設定され、どのような論理展開で「しょうがない」という久間氏の発言が批判されているかという視点で新聞社説を見てみようと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-05 00:49 | 政治

久間発言の形式論理的考察

久間防衛相が「しようがない」という発言によって辞任をした。このことについては、多くの報道があり、また多くの人がブログなどで言及しているようなのだが、何が問題なのかというのが余り明確になっていないように感じる。原爆被害者の感情を逆なでするような発言だったということは、その後の事実を見れば、事実として確認は出来る。しかし、感情を逆なですること自体が問題だとは言えないだろう。

もし感情を逆なですること自体が問題だと考えるなら、他人を怒らせたものは、怒らせたということで落ち度があることになってしまう。怒った方が勝ちということになってしまう。怒らせたほうに何らかの間違いや逸脱があって、それが原因で怒ったのなら、それは責任を感じなければならないだろう。しかし、怒ったほうが、何らかの勘違いをして怒っているのなら、怒らせたほうに責任はない。怒った方がその間違いを理解することが必要だろう。

差別糾弾主義者の論理では、ある発言が差別であるかどうかは、その発言によって傷つき・差別だと感じる人間がいれば差別だと判断されてしまう。どう感じるかということに基準があるのなら、それは極めて主観的なものだ。客観的に差別の不当性を証明するものがない。このような判断で糾弾するのは間違っていると僕はずっと思っていた。久間防衛相の発言についても、感情の問題だけで非難されているのなら、それは辞任に値するほどのものではないと思う。その発言が、感情の問題にとどまらず、どのような問題があるのかを明確にするために、これを形式論理のメガネで考えてみたいと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-04 10:19 | 政治

科学における武谷三段階論と機能主義

三浦つとむさんが高く評価していた人に物理学者の武谷三男さんがいる。特に高く評価していたのは三段階論という、科学理論の発展の論理を抽象したもので、『弁証法の諸問題』という著書の中の「ニュートン力学の形成について」という論文で語られていた。

科学というのは、現実の法則性を捉えた理論である。自然を対象にした自然科学がもっとも早く発達し、その理論によって自然の現象的側面を正確に予測することが出来るようになった。現実の存在がどのようになっているかは科学でなくても語ることが出来る。哲学などは、現実存在に対して論理的に考察したものとしては科学よりも早く発生した。しかし哲学は、現実を事後的に解釈することがもっぱらで、未来に対する有効性という点では科学のほうがずっと大きなものを持っている。

科学の有効性というのは、板倉聖宣さんが主張する「仮説実験の論理」がそれを保証するものとなっているように僕は考えている。仮説と実験を経て科学そのものは進歩・発展していくが、仮説に当たる理論的側面の進歩・発展の具体相として武谷さんが言う三段階論というものがあるように感じる。この三段階論というものを、形式論理のメガネを通して見てみると機能主義との関連という側面を見ることが出来るようにも思う。科学の本質は機能を解明することにあるように感じるのだが、それは機能主義と呼ばれる間違いだといわれる恐れもある。このあたりの関連を考えてみようと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-03 09:47 | 論理

原理的な決定不可能性とはどういうものか

決定不可能性というのは、ある判断が確定しないということを意味する。世界のあり方として、いくつかの選択肢が考えられるとき、その選択肢のどれが実現しているかということが確定しないとき、現在の状態は決定できないと考えられるだろう。この決定できない・確定していないという状況は、現実を対象にしてそれを認識しようとすればいつでも遭遇するようなもののように感じる。

「一寸先は闇」ということわざがあるように、未来については決定していない・確定していないと普通は考える。だが、ある種の未来に関しては、現在の状況のいくつかの側面を把握することによって、未来がどのような状況になるかが決定的・確定的に語れることがある。自然科学による予測は、誤差を捨象する限りで100%確実な予想を与える。決定可能な対象が存在するということは、決定不可能性の中に、原理的な不可能性と現象的な不可能性があるということを考えさせる。

現象的に決定不可能である対象は、さいころを振る時にその出る目を考えるというようなものに見られる。1から6までのどの目が出るかは、さいころを振る前には決定することが出来ない。どれも同じだけの確率で出るだろうということしか分からない。例えば、1の目が出るというのは、1/6の確率で期待できるということは分かるが、確率が1になるか0になるかという決定は出来ない。確率が1か0のどちらかになることがないということが、その現象が確定しないということでもある。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-02 10:23 | 論理