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国家概念抽象の過程 4

萱野稔人さんは『国家とは何か』の中で「国家を思考するためには、今の国民国家のあり方を自明なものとみなすナイーヴな見方から決別することが不可欠だ」と書いている。これはなかなか示唆に富んだ言葉で、ここから多くのことを学ぶことが出来る。

国家を思考するということは、国家というものについて、現実に国家と呼ばれているものの観察の結果を述べることではない。思考というのは論理の展開を伴うものだ。事実を羅列するのではなく、ある事実から論理的に引き出される事柄を考察することが「思考する」と呼ばれる。

だから「思考する」ためには、思考の対象となる国家を抽象することが必要で、それを概念的に捉えなければならない。思考の対象は現実の国家ではないのである。現実の国家を基礎にした抽象としての概念的な国家が思考の対象になる。対象を概念化しなければそれは論理的な操作の対象にならない。単に物質的存在を観察するだけでは、そこには論理的な必然性を見出すことは出来ないのだ。

国家にとって暴力装置が必然的なものであるというのは、現実の国家をいくら観察してもそれを引き出すことは出来ない。現実の国家にはいつでも警察と軍隊が存在していることを観察したとしても、それがたまたまそうなっているのか、必然的に国家に伴うものとして存在しているのかは、観察によっては結論できない。それは、国家が「暴力に関する運動」を行うという概念化によって、その必然性が語られるものなのである。

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by ksyuumei | 2007-07-29 17:29 | 論理

格差は悪いことなのか

内田樹さんの「格差社会って何だろう」というエントリーが話題を呼んでいるようだ。はてなのブックマークも300近いものがつけられていた。これが話題を呼んでいるのは、内田樹ともあろうものがなぜあのような駄文を書くのか、という見方をされているからのようだ。

これは面白いことだと思う。もし、あの文章を内田さんが書いたのでなければ、ほとんど注目もされずに黙視されたのではないだろうか。これはひどいと思った人が多かったのだが、その文章を書いたのが内田樹だったというのであれだけのブックマークがつけられたようだ。

この現象を解釈するには二つの方向があると思う。一つは、内田樹はもともとひどいことを書く人であって、たまたま本が売れて気の利いたことを言っているように見えているだけで、実際には多くのベストセラー作家と同じように、通俗的で浅い見方だからこそ本が売れているに過ぎないのだという解釈だ。誰にでも分かるような大衆受けする、宮台氏的な表現を使えば、俗情に媚びるようなことを書いているからベストセラーになるのであって、今回は、たまたまボロが出てひどいことがそのまま出てしまっただけだという解釈だ。

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by ksyuumei | 2007-07-28 15:50 | 内田樹

国家概念抽象の過程 3

萱野稔人さんに寄れば国家とは「暴力に関わる運動」だと概念規定される。国家というのは、何か暴力が関わるような現象があったとき、すなわち国家ではないいずれかの主体が暴力行使をしたときに、その主体を取り締まり処罰する権能を持つ。暴力行為に反応して、それに何らかの対処をするという意味で、国家は「暴力に関わる運動」なのである。

国家は、どこかで暴力行為が行われたときに、その暴力行為と関係なくそれを見過ごしているわけにはいかない。それを許容するにしても、許容することに理由をつけて、自らの権限の中で許容することを示さなければならない。国家は、国家以外のものが自由に暴力を行使することを許さない。国家のみが、暴力を行使することを正当化(=合法化)する権利を持っている。

国家は、国家以外の暴力を許さずそれを取り締まるのだが、その際に使われるのは、取り締まりの対象になる主体よりも強大な暴力だ。暴力を暴力で取り締まるのだが、これは、当然のことながら、取り締まる対象よりも絶対的に強くなければ取り締まることが出来ない。国家は、少なくともその領域内では絶対的に強大な暴力を保持するものとして現象する。

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by ksyuumei | 2007-07-28 14:15 | 論理

国家概念抽象の過程 2

萱野さんは国家の定義の考察をウェーバーの次の言葉を取り掛かりにして始めている。


「国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」


ウェーバーは「正当な物理的暴力行使の独占」という言葉に強調の傍点をつけているようだ。この定義は、萱野さんの「運動である」という定義とは微妙な違いを感じはするものの、暴力に関わる運動に関係しているという点でつながるものは感じる。これを取り掛かりにして、萱野さんが目的とする理論展開によりふさわしい定義を求めると「運動」というものに行き着くのかもしれない。そういう意味では、萱野さんが理論展開で目指しているものが何かを求めることが、萱野さんの国家定義の抽象の過程を理解するのに役立つかもしれない。

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by ksyuumei | 2007-07-24 23:30 | 論理

国家概念抽象の過程 1

萱野稔人さんの『国家とは何か』(以文社)を手がかりに、国家という概念が抽象されていく過程を考えてみたいと思う。国家という概念は、愛国心論議のときにも、それぞれの主張する愛国心の対象としての「国」というものがどうも違うものであると感じるように、その概念を明確につかむのが難しいものである。また、それぞれの国家概念は、どれも完全に間違っているとはいえるものでなく、ある面から見ればそのように見えるというものにもなっている。国家概念は、これが唯一の正しいものだというのを示すことも出来ない。それぞれの国家概念が、どのような抽象の過程を経て見出されたかという具体的な面から、その有効性をつかむことが概念の正しい理解ではないかと思われる。

さて、萱野さんはこの著書の中で、「しかし国家は実体でもなければ関係でもない。では何なのか。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である、暴力に関わる運動である、と」と、語っている。萱野さんの国家概念は、それは「運動である」という捉え方をしている。この概念は、どのような過程を経て抽象されてきたのか。抽象の過程で、具体的な属性として何が捨てられてきているのか。そして、その抽象と捨象によって、どのような理論展開の方向が見られるのか。その有効性はどういうものとして現れるのか。そんなことを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-07-24 10:10 | 論理

最近の問題に関数的観点を応用してみる

最近のさまざまな事件に対して、それを関数的に捉える、すなわち何らかの法則性をもった装置がそこにあるのだという観点で見てみるとどんなことが見えてくるかというのを考えてみたい。関数的視点というのは、物事の解釈の一つではあるのだが、どんな解釈も関数的になるのではなく、関数的なものと他のものとの違いを考えることが重要になるだろう。

ミートホープによる牛肉偽装問題というのは、マル激でも取り上げられていたが、このような事件が起こるとその主犯格であるような人間の悪辣さがマスコミで取り上げられる。この問題は、牛肉でないものを牛肉と偽っていたのだから悪いことをしたことに違いはない。だから、そこに悪辣さを探そうとすれば必ず見つかるだろう。これは形式論理的な展開で得られるもので、「火のないところに煙は立たない」という因果関係がある。

しかし、この事件を「悪い人間が悪い行為をした」という解釈で理解していると、それは関数的な捉え方にはならないだろう。これは一見関数になりそうな感じもする。悪人という入力をこの装置に入れると、「悪い行為」という出力が出てくると考えてもよさそうにも思える。しかもここには完全な法則性がありそうにも見えるので、現象を関数的に捉えたようにも感じてしまう。

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by ksyuumei | 2007-07-21 11:34 | 社会

抽象概念の直感的理解

今年度の数学の授業では関数を扱っている。関数というのは、数学の中でもなかなかの難物で、これを単にxとyとの数式だと捉えて計算をするだけだと解釈すると、関数本来の持っている深い意味を理解するのは難しい。計算が出来るようになれば、関数を道具として利用することは出来るが、それは定型的なものにとどまる。関数という概念を利用して、それを現実の対象の中に見つけて、現実の把握を深めて実践的にその知識を利用するという積極的な使い方は出来なくなる。

このような本来の意味での「応用」(数学での「応用」は、応用問題が解けること、すなわち計算が出来ることが「応用」だと思われているが、公式の適用をするだけのものは本来の意味での「応用」ではない。新たな発見をもたらすような考察に利用できることが本来の「応用」だ)をするためには概念的な理解が必要になる。そして、この概念的な理解は、抽象的な定義を記憶するのではなく、その構造を直感的に把握することが必要になる。

それが抽象された概念であるにもかかわらず、その概念を運用するという思考の展開をするには直感的な把握が必要なのである。このあたりのことも、人間の思考というものが持つ現実的な弁証法性ではないかと思われる。言葉の定義だけを記憶した概念は、それを変化させて現実に適応させるというダイナミックな思考の展開が出来ない。言葉の定義は固定的で、その抽象概念が、現実の条件によってどのように多様な側面を見せるかが知られていないからだ。

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by ksyuumei | 2007-07-19 09:56 | 雑文

「しょうがない」(不可避性)のロジック

「しょうがない」という判断の認識を考えるとき、これを、「それ以外に方法がない」「避けうることが出来ない」という意味で解釈すると、ある種の必然性を語っている言葉として受け取れる。この必然性に二種類のものが考えられるのではないかという感じがしている。

一つは、形式論理的な必然性であり、科学的な法則性から導かれる必然性だ。これは、まさに「それ以外に避けようがない、運命と言ってもいい」状況が訪れることが分かる必然性だ。

形式論理的な必然性を考える材料としては、犯罪事件のアリバイがある。人間は、一人の人間が分裂して二人になることが出来ない。だから、同じ時刻にA地点とB地点の二つの場所に存在することが出来ない。A地点が犯罪の行われた場所だとしたとき、容疑者が犯罪が行われた時間にB地点にいたというアリバイがあれば、容疑者の容疑は晴れることになる。その他の点で、容疑者がいくら疑わしかろうと、アリバイが成立した時は、もはや容疑をかけることが出来ない。これは、

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by ksyuumei | 2007-07-18 09:40 | 論理

弁証法的矛盾と形式論理的矛盾

「リカちゃん人形問題に関連して、規範と美意識の区別」というエントリーで紹介されていた「リカちゃん人形問題」というものが、形式論理的に面白い対象になるのではないかと思った。元ネタになるのは、「[考察]リカちゃん人形問題」というエントリーになるようだ。

ここで問題にされているのは、

 1「リカちゃん人形が好きでない女の子がいても良いじゃないか」

という主張と、

 2「リカちゃん人形の好きなおじさんだったらキモイ!!」

という主張の両方を同時に主張すると、これが矛盾になるのではないかということだ。この「矛盾」というのが、形式論理的な矛盾ではなく、弁証法的な意味での矛盾ではないかと感じたので、形式論理として考えると面白い考察が出来るのではないかと感じた。

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by ksyuumei | 2007-07-15 22:02 | 論理

強力なアルゴリズムの発見が、形式論理的な難問の解決を可能にする

アルゴリズムの心地よさは、その繰り返しが与えるリズム感として、感覚的な心地よさがある。この心地よさにはまってしまった人は、この感覚を味わうことに快感を感じ、繰り返し同じことをすることに飽きることは無いのだろう。これは、好みのスポーツで楽しむ感覚によく似ている。走ることが好きになった人は、その単調な動きにもかかわらず、それを飽きるというよりも、繰り返しのリズムの快感を味わいたくて何度も走りたくなってしまうのだろう。

アルゴリズムの場合は、この感覚的な快感に加えて、自分の思考が進歩し深まっているという感じがつかめると、さらに繰り返し同じ事をすることに快感を感じるようになる。これは、スポーツの場合で言えば、その単調な動作の繰り返しによる運動が、確実に自分のスポーツの能力を高めているという感じがつかめると、単純な繰り返しであるのに、それをすることの快感が高まるという相互作用的な発展の契機をもたらすのと同じではないかと思う。

宮台真司氏が、空手の訓練における型の重要性を語っていたときがあった。型というのは、空手の上達にとっては非常に重要で有効なものであるが、これがそれだけ大事なものだということは、上達した後に初めて分かるというのだ。型を訓練しているうちは、その重要性がわからないという。それはまだ上達していない発展途上の状態だからだ。ということは、型の訓練が必ず上達につながるのだという理解(信念のようなものだろうか)があるかどうかで、型の訓練の真剣さが決まるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2007-07-13 10:01 | 論理