<   2007年 06月 ( 24 )   > この月の画像一覧

ロジック(形式論理)的センスの訓練

僕は昔からのパズルファンでそれが数学への道にも通じていたのだが、今でもよく遊ぶパズルは<イラスト・ロジック>と<ナンバー・プレイス>と呼ばれるものだ。これは知らない人に説明するのは難しいのだが、僕がこの二つのパズルを特に気に入っているのは、それが極めて形式論理的な構造を持っていると思えるからだ。このパズルは、かなり純粋な形で形式論理の考え方を使うことが出来る。つまり、ほとんど予備知識なしで、論理のみでパズルが解けるようになっている。

形式論理を日常言語の表現に対して応用しようとすると、その日常言語的な表現をまず確定しなければならないという問題が起こってくる。形式論理というロジックにおいては、確定しない表現に対してそれを適用することが出来ないからだ。対象に対する立ち位置や視点が違ってくると解釈が変わってくるような問題は、その立ち位置や視点をまず確立した上でロジックを適用しなければならない。そうでなければ、対立した解釈が両立してしまうという弁証法性を逃れられなくなる。弁証法性を持つ対象に対しては、形式論理というロジックを適用することが出来ない。それを無理やり形式論理を当てはめてしまうと矛盾が生じるという困った状態が起こる。

<イラスト・ロジック>や<ナンバー・プレイス>の場合は、そのパズルのルールの解釈は、複数の受け取り方を許さない。誰がやろうとも同じ解釈のもとに、同じ判断がもたらされる。だから、問題に不備がない限り、そのパズルは誰が解いても同じ答になる。ちょうど数学の答が、結果的にはみな同じ値になるように。

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by ksyuumei | 2007-06-07 10:03 | 論理

科学と信仰

日曜日に、宗教的なパンフレットを持って訪問してきた人がいた。キリスト教の勧誘のための訪問だったのだが、僕は無神論者であることを理由に断った。そのとき、改めて自分の無神論というのはどういうものだったかというのに気づいた。僕の無神論は、神を必要としていないという状態から生まれたものであり、科学的認識のためには、始めに神がありきという信仰からスタートすることができないということから来ている。

三浦つとむさんは、徹底した唯物論者であり、自らが無神論者であることを公言していた。僕も、三浦さんが語る意味での唯物論者でありたかったと思っていたので、自分も無神論者だろうと漠然とは思っていたのだが、若いころは教会に通って、キリスト教の洗礼を受けようという寸前のところまでいったことがあった。信仰の中で生きることの心地よさに浸っていたいと思うときがあった。

僕は若いころにキリスト教に関心を持って聖書もよく読んでいた。きっかけは「ブラザーサン、シスタームーン」という映画を見たことで、ここに描かれていた聖フランチェスコの姿に感動し、その生き方に魅了されたからだった。すべてを捨て、自分の信じるものに従って純粋に生きることに、若かった僕は最高の幸福感を見たものだった。

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by ksyuumei | 2007-06-05 10:34 | 雑文

他者の報告(言語による表現)の真理性はどこで判断するか

最近気になっている問題は、他者の報告の真理性の問題だ。特に、言葉で語られたことに対して、それが正しいことをどうやって確かめるかという問題を考えている。言葉で語られたことは、意図的な嘘である場合もあるし、勘違いをしているときもある。他者の言葉を信じる基準というものをどこに置くかという問題は案外と難しいものだと思う。

他者の表現が論理的なものである場合は、それが論理的に正しいかどうかを判定することは可能だ。複雑な場合はやはり難しさはあるものの、それが判定不可能だということは原理的にはない。問題は、その表現が論理的なものであるかどうかという判断だろう。論理的な表現は、真か偽かがどちらかに決められなければならないので、いくつもの解釈を許すような表現であっては困る。その表現の解釈が明確に一つに定まって、その解釈の論理性を検討できるようなものであれば、論理を判定することは出来る。あるいはいくつかの解釈を許すものであっても、場合分けが出来て、その場合については明確に意味が一つに定まるなら論理的な取扱いが出来る。

問題は事実性を巡る表現の場合だ。ある事柄の報告が事実である、確かにそういうことがあったというものであった場合、それが正しいことをどうやって判断したらいいかということだ。これは原理的には不可能だということを宮台氏が語っていた。

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by ksyuumei | 2007-06-04 10:11 | 方法論

資本主義的搾取の不当性

萱野稔人さんは『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)の中で、資本に関して「他人を働かせて、その上前をはねる」ということとの関連を語っている。これは、かつてのマルクス主義的な用語で言えば、「資本主義的搾取」と呼ばれるものになるのではないだろうか。

マルクスは、この「資本主義的搾取」が、資本主義に本質的に伴うものであることを証明した。萱野さんがここで語っていることも同じことのように見える。「他人を働かせて、その上前をはねる」という行為を伴わない資本主義などは考えられないという記述が見られる。萱野さんは、


「企業の仕組みを例にとろう。企業とは、まとまったカネ(資金)をもとに事業を起こし、従業員を雇って利潤を上げようとする経済主体のことである。
 この場合、企業は売上のすべてを従業員に給与として与えることはない。ある程度の売上は、事業をさらに展開するための資金として(あるいは出資者への配当として)ストックしておかなくてはならないからである。利潤を上げることが目的である以上、事業が展開するにつれ、資金は最初の額より増えていかなくてはならない。」


と書いている。資本主義的生産は、大量生産によるコストダウンを目指す。その大量生産のためには、設備投資という資本投下をしなければならない。その資本投下の金は、最初は起業家が請け負うが、いったん企業が動き出して資本主義的生産のサイクルに入れば、その生産によって得られる利益の中から資金を供出していかなければならない。

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by ksyuumei | 2007-06-01 09:40 | 方法論