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無限と連続の弁証法性

数学において無限と連続が本当に意識されて考えられるのは、おそらく微分を学ぶあたりからだと思う。それまでの無限と連続は、それを厳密に正確に把握していなくても、だいたいこんなものだろうというような想像でも数学は破綻することがないのではないかと思う。

微分が持つ視点というのは、物理で言えば極微の世界を考察するものとよく似ているのではないだろうか。それは、今まで目で見た直感の世界では捉えられないような不思議な現象が見つかる。目で見た直感の世界というのは、無限や連続が、想像の範囲内で捉えられていて、無限は「果てがない」というイメージにつながり、連続は「必ず隣が見つかる」というようなイメージにつながっていた。

ユークリッド幾何では直線は無限に延長したものとして定義される。これは、現実にはそのようなものを把握することは人間には出来ない。しかし、現実には、直線が抽象されてきた真っ直ぐの端のある線は、現実の端をいくらでも延長できるという想像をして、「果てがない」という無限をつかむことになる。この理解の仕方は、無限の「果てがない」という現象を具体的につかんだのではないが、形式論理としてはうまい工夫だろうと思う。

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by ksyuumei | 2007-06-20 10:12 | 論理

波が伝わるメカニズム

波の本質というのは、振動という運動が、近くの物質に次々と伝わっていく現象として見ることが出来る。波が移動して行くように見える現象は、何らかの物質が移動していくのではなくて、見た目の形が移動していくように見える。移動していくのは形であり物質ではない。波というのは物質の属性ではなく、物質の運動形態を指すものだと理解したほうがいいだろう。

波は、物質の振動運動によって現れるので、それを記述するには「運動の記述」というものが必要になる。この「運動の記述」は、形式論理の範囲内ではパラドックスを引き起こす。形式論理は、対象の静止面を切り取って、対象を写真で写したように、静止画像として扱う。静止画像の表現だから、そこからは「動いている」という運動の側面は記述できない。

運動している物質は、ある瞬間には空間の一部分を占めているが、次の瞬間には違う部分へ移動していなければならない。それを、瞬間だけを捉えている記述では、そこには運動は表せない。静止した写真的な画像があるだけだ。瞬間と瞬間とのつながりを記述できなければ、静止の記述である形式論理は運動を記述することが出来ない。

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by ksyuumei | 2007-06-19 10:00 | 論理

波とはどういうものか

『量子力学』(山田克哉・著、講談社ブルーバックス)という本の冒頭には、「波の現象は、はた目で感じるほど簡単な現象ではありません」と書かれている。これは、目で見た波のイメージが、波の本質を直感的に把握させてくれるものではなく、むしろ誤解させる要素を多く含んでいるという意味ではないかと思う。

波は、見た目には「伝わる」というイメージがある。海の波が代表的だが、遠くに見える波がだんだんと自分のほうに近づいてくるのを感じる。また、紐を上下に動かすと波が出来るが、その波の形(紐が上に膨らんだように見える形)は、紐を伝わって動くように見える。この波の伝播は、波が「動いている」ように見えるのだが、実際には波の移動に伴って物質が移動しているのではない。

波においては、物質はその場における振動という動き方をしている。これは、物質の位置をまったく変えてしまう運動ではなく、また元の位置に戻ってくるという周期的な運動になる。波は、移動して遠くへ行ってしまうのに、物質そのものはまた元の位置に戻ってきて位置の変化が限られているというのが波の本質である。波は見た目にはどこか遠くのかなたへ消えてしまうように見える。そのままでは元の位置に戻ってはこない。この、見た目と本質の違いは波の理解を難しくしているように感じる。

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by ksyuumei | 2007-06-18 10:47 | 論理

矛盾は実在するか

「矛盾は実在するか」という問いは、肯定的にも否定的にも答えることが出来る。それは「矛盾」という言葉の概念によってどちらの答も可能だ。実在する対象に「矛盾」という名前をつけて呼べば、これは実在するように名前をつけたのだから、実在するのが当然だ。弁証法的用語としての「矛盾」はこのような言葉になる。

しかし、形式論理で言うところの「矛盾」は、頭の中に作り上げた概念につけた名前であり、これは実在する対象を持たない。想像上の概念は、基本的に実在する対象を持たない。だから、神という概念も、それが想像上のものである限りではその概念に対応する実体は実在しない。

しかし、想像上の対象であっても、現実を解釈することによって、その概念と実在する実体とを対応させることが出来る。この対応は、想像上の概念が実在することの証明ではなく、あくまでも解釈に過ぎないのだが、逆転した錯覚のようなものを感じることもあるだろう。解釈の問題は認識の問題なのだが、これを対象の属性という客観的な性質だと勘違いすると、想像上の対象が存在するような錯覚を起こす。

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by ksyuumei | 2007-06-16 18:01 | 論理

運動の弁証法性

ゼノンのパラドックスについて考えていたとき、板倉聖宣さんの解釈をとても面白いものだと感じたことがあった。板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で「運動は矛盾である」ということについて書いているのだが、この「矛盾」というのは、弁証法的な意味での「矛盾」であって、形式論理的な意味での「矛盾」ではないということを指摘している。

ゼノンのパラドックスでは、「飛んでいる矢は止まっている」というものがある。飛んでいる矢というのは、運動している矢のことだが、これを瞬間という時間で捉えてみると、ある瞬間の時間にはその矢は空間のどこかに位置を占めていなければならない。そうすると、その瞬間を記述すれば、その矢はそこで止まっていると言わざるを得ない。

しかし、運動している矢が止まっているというのは、運動という概念に反する。これは、「運動している矢は運動していない」という肯定と否定とが同時に成り立つという「矛盾」を語っているように見えるのだ。これは形式論理を崩壊させるものではないのか。現実に矛盾が存在するのでは、現実を形式論理で捉えて合理的な思考の対象にすることが出来ないということになってしまうのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2007-06-15 10:04 | 論理

直感の及ばない対象を論理的に把握すること

量子力学について調べていると、極微の世界などの直感の及ばない対象に対して、どのようにして概念を作るかという問題を感じるようになった。直接眼に見ることの出来ない存在を、我々はどのようにして把握しているのだろうか。これは、極微の世界だけではなく、抽象的な概念であるものの多くも、直接見ることが出来ないものであるにもかかわらず、我々は何らかのイメージを基にそれを理解していると考えざるを得ないだろう。

社会というものは、これが社会だという実体を指し示すことが出来ない。板倉さんは、個人の法則と社会の法則とは違うというようなことを語っていた。社会の法則は、多くの場合統計的なもの・確率的なものとして現れる。だから、社会という存在を科学的に捉えようとすれば、それは確率的な把握の仕方をしなければならないのではないかと考えられる。宮台氏の社会学が確率論を基礎にしているというのは、科学としての意味を強く感じるものだ。

萱野さんが語る国家というものも、国土や国民という実体を指して、これが国家だと言えるものではない。国家という実体は見つからない。だから国家は幻想に過ぎないという言い方も出てくるのだろう。しかし、国家を幻想として片付けたからといって、国家に弾圧される人々にとっては、国家は弾圧する暴力をもった機能としてそこに存在していることは確かだ。国家は、合法的に暴力を行使するという機能としてそれを捉えるしかなくなる。

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by ksyuumei | 2007-06-14 10:37 | 方法論

弁証法は科学ではない

三浦つとむさんは『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)という本を書いている。僕も若いころに何度もこの本を読んだ。そのときには「科学」という言葉にさほど注意をすることはなかった。だが、板倉さんを通じて仮説実験授業を知り、板倉さんが語る仮説実験の論理による科学の成立ということに科学の本質を見るようになってからは、三浦さんが弁証法を「科学」と呼んだのは間違いではないかと思うようになった。

板倉さんの解釈では、三浦さんが弁証法を「科学」と呼んだのは、比喩的な意味で言ったのであって、それは観念的なでたらめとは違うというようなニュアンスで「科学」と言ったのだと受け取っていたようだ。弁証法的な言説はたいていの場合は詭弁となり、でたらめになってしまう。しかし、対象の弁証法性を正しく捉えているときには正しい言説になる場合もあると理解したほうがいいということを語っているものとして解釈していたようだ。弁証法においては、どのようなときに正しくなるかを判断することが大切だというわけだ。

だが、板倉さんは後に、三浦さんが本当に弁証法を「科学」と考えていたようだと語っていた。三浦さんは、板倉さんが言う意味での仮説実験の論理を基にした「科学」の概念を持っていなかったという。三浦さんの言語学は、言語に関するあらゆる知識を求めて、その知識の中での整合性を取っているが、実験によってその正しさを確認するという手続きはない。三浦さんは、あらゆる角度から対象を眺めて、よく考え抜いた末の結論は、その思考の深さによって真理を与えると思っていたようだ。これは板倉さんが語る「科学」の概念とは違う。僕は三浦さんを師と仰ぎ尊敬しているが、弁証法に関する理解では板倉さんに賛同する。

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by ksyuumei | 2007-06-13 10:12 | 科学

形式論理における矛盾と弁証法的発想における矛盾

萱野稔人さんをゲストに招いたマル激で、萱野さんの文章の書き方が非常にジャーナリスティックなものであることが話題になった。まずは事実の指摘があり、そこから判断されることも、誰もがそう認めざるを得ない事柄だけにとどめておき、主観的な意見というものをすべて排除しているという指摘だった。「~<政治>の思考~」というコラムの「第10回 「流動化する労働力」と「新利権の構図」」の中でも、


「たとえば、郵政民営化によって郵政公社は日本郵政株式会社となるが、それにともなって奥谷禮子氏が社長をしている人材派遣会社が職員の研修や派遣業務を受託することになった。奥谷禮子氏といえば、すこし前に「過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います」と発言したことで話題になった人だ。彼女は日本郵政株式会社の社外取締役であり、また厚生労働大臣の諮問機関である労働政策審議会の分科会(労働条件分科会)でも委員をしている。かつては、内閣府に設置されていた総合規制改革会議の委員もしていた。この会議は、小泉首相のもとで公的業務の民間開放をすすめてきた規制改革・民間開放推進会議の前身にあたる。

奥谷禮子氏は人材派遣会社の社長であり、労働力が流動化され、公的業務が派遣労働に取って代わられることで利益をうる人間だ。そうした人間が、政府の労働政策の決定プロセスに直接関与する。労働をめぐるルールの変更にかかわる人間が、その変更によってますますビジネスチャンスを獲得するという利権の構図がここにはある。」


という記述がある。これに対して神保哲生氏は、奥谷禮子氏がこれだけひどいことをしているのに、それをひどいとは一言も書いていないと指摘していた。つまり、主観的な意味での判断を一言も書いていないということだ。直接的な批判を一言も書いていない。判断力のある人が読めば、それがひどいことだというのは事実から読み取れる。しかし、書き手の主観は一言も書かないという文章になっている。

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by ksyuumei | 2007-06-12 10:51 | 論理

理論展開における形式論理的理解と現実解釈における弁証法的理解

ある種の理論的命題を理解するというのは、その理論が前提としていることから、論理的な整合性を持った展開を理解するということである。つまり、理解において必要不可欠なのは、そこに語られている論理を読み取ることになる。僕が、数学の学習においてまずは論理の基礎を身につけようと思ったのも、それは理論の理解において大きな威力を発揮すると思ったからだ。

論理だけでは理論を創造することは出来ない。理論の創造には、何を基本的な前提としておくかという、数学で言えば公理の選択に当たることが重要だが、論理というのは、理屈として整合性を持ったものの考え方の形式を教えるものだから、具体的な対象に関する属性はすべて捨象されている。だから、論理で何かの対象の本質を抽出するなどということは出来ない。論理は、対象が持っている具体性をすべて捨象してしまうので、具体的な理論を展開するような本質はすでに捨てられているからだ。

論理は学習においては、すでに打ち立てられた理論を理解するのに大きな威力を発揮する。しかし、理論の創造には、そこで対象として考えられているものに対する広い見方と、深い知識を総動員して本質を発見することが必要だ。これはある種のセンスにかかわるものになるだろう。このときは、形式論理ではなく、弁証法性を見落とさないだけの注意深さが必要だと思われる。

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by ksyuumei | 2007-06-10 13:10 | 論理

小室直樹氏の日本資本主義の分析

小室直樹氏が『日本資本主義崩壊の論理』(光文社カッパ・ビジネス)で展開している考察は、論理という観点から見てたいへん面白いものである。それは、理論展開の面からは形式論理的な、前提から結論を導くロジックが読み取れ、その出発点になる発想という点には、矛盾した対立する面が考察されているという弁証法的な面が見られるからだ。

主題としては、日本資本主義の「崩壊」を語っているのであるから、日本資本主義の欠点を分析しているのであるが、単に欠点を指摘しているだけではないように見える。日本資本主義の欠点は、さまざまな問題を出現させたことによって、欠点があることは誰の目にも明らかになった。特に小室氏が指摘するような、先進資本主義国ではあり得ないような、資本主義の根幹を否定するような事件も数多く現れている。「金融犯罪スキャンダル」「インサイダー取引」「株式の損失補填」などを小室氏は指摘している。

しかし、これらの欠点があるにもかかわらず日本資本主義は、戦後高い成長率で発展しつづけた。これは、形式論理的に考えれば、「欠点があるにもかかわらずに発展した」という逆説で語られるだろう。欠点があれば発展しないというのが論理的には結論されるだろう。それなのに、なぜ発展したかという問いは、極めて形式論理的だ。

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by ksyuumei | 2007-06-09 14:05 | 論理