<   2007年 06月 ( 24 )   > この月の画像一覧

現象をうまく説明する理論の真理性(機能主義との関連を考える)

量子力学について、『量子力学の基本原理』の中では、著者のデヴィッド・Z・アルバート氏は「アルゴリズム」であると書いている。「アルゴリズム」とは、形式論理に従った、ある計算法のことを指す。この「アルゴリズム」を使えば、量子現象が今どのような状態にあるかを初期情報を与えることで未来が計算できるというものになる。未知なる未来が100%正しく予測できるということから、これは科学としての真理性があると解釈されるわけだ。

しかし、この「アルゴリズム」が、現実世界を本当に正しく記述したものかどうかという哲学的問題を考えると、それは単なる機能(関数)を記述したものであって、本質ではないという解釈も出来る。機能を本質と考えるのは、機能主義と呼ばれる間違いではないかという疑問も涌いてくる。現実に対する考察であるなら、表面に現れる機能ではなく、裏に隠されている何かを本質と考えなければならないのではないかということだ。

僕も若いころは、このように機能主義は間違いではないかという思いを抱いていた。例えば、心理学を知ったころは、心という直接調べることの出来ないものから、行動という表面に現れたものを対象にして心理学を築くべきだという、行動主義というものがあるのを知ったが、これは基本的な姿勢としては分かるものの、それを「心理学」つまり心の学問と呼ぶのはためらわれるのを感じた。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-30 11:17 | 論理

不確定性原理と重ね合わせのたとえ話 3

さて、干渉現象のような事実が排中律を壊すかもしれないということを考察してみようと思う。電子の属性としての色と硬さが、不確定性原理の下に両方の属性を「同時」に決定できないという前提のもとに考察をしている。色を測定すると、それが硬さに影響を与えて、硬いか軟らかいかが決定できず、その色を確定した電子の硬さは、硬いか軟らかいかが50%の確率であることしか言えなくなる。硬さを確定したときも同様だ。そのときの色は、白か黒であるかが確定しなくなる。

最初に色計で白と確定した電子は、次に硬さ計で硬いか軟らかいかが決定する。このとき、不確定性原理が働いていなければ、最初に確定した白という属性を電子は保ちつづける。しかし、不確定性原理が働くために、この電子の色はどちらか決められなくなってしまう。白だと確定しているのに、確率が50%になる。つまり、このような電子をたくさん色計にかければ、白であったはずなのに、半分は黒になってしまう。

硬さを確定したために色の属性が乱れてしまっている。これを、一度確定した硬さをまた分からなくしてしまったらどうなるだろうか。硬いと確定した電子だけを集めれば、その電子の色は白と黒が半分ずつになる。軟らかいと確定したものに対しても同様だ。それに対して、この電子をもう一度ごちゃ混ぜにして、確定した硬さが分からないようにしたらどうなるだろうか。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-29 09:54 | 論理

不確定性原理と重ね合わせのたとえ話 2

『量子力学の基本原理』(デヴィッド・Z・アルバート著、日本評論社)という本では、不確定性原理の説明のために、電子の属性として色と硬さというものを使っている。色と硬さという属性を観察の結果として確定しようというのだが、この二つが「同時に」確定することができないというたとえ話で、どちらか一方が確定できないということに不確定性原理の本質を見る説明をしている。

これは、実際に色と硬さを観測して、それが観察の結果として確定できなかったことからそう判断するという説明をしているのではない。色と硬さというのは、仮に設定した属性であって、だからこそこの説明はたとえ話として受け止めなければならない。たとえ話としてはどんな属性を設定してもいいのだが、単純化するためにこの二つが選ばれたというように僕は感じた。

このたとえ話を、色と硬さという現実の具体的な属性からイメージすると、それが「同時」には確定しないということの理解が難しくなる。現実にはそのようには思えないからだ。電子の世界のことを語っているのでそうなのかも知れないと感じたりするかもしれないが、これはあくまでもたとえであって、いわば「ネタ」の話であって、これを「ベタ」にそうだというように受け取るとやはり理解を間違えるだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-28 09:46 | 論理

不確定性原理と重ね合わせのたとえ話 1

不確定性原理と重ね合わせというのは、量子力学においてはその発想の中心ともなる重要な概念ではないかと思う。この概念が非常に難しいのは、それが常識的な発想に反して、このようなイメージに従うはずという「はず」が成立しないことだ。このように難しい概念の理解に関しては、常識と抽象の橋渡しをする「比喩」あるいは「たとえ話」を利用するということがある。

これが直感的につかみやすく、しかも適切な捨象を助けるものになっていれば、教育的にはよいシェーマとして働くことになる。不確定性原理と重ねあわせに関しては、なかなかいいたとえが見つからなかったのだが、『量子力学の基本原理』(デヴィッド・Z・アルバート著、日本評論社)という本に面白いたとえ話を見つけた。これは、必ずしも分かりやすいとはいえないものの、非常に面白さを感じたものだ。

著者は、物理学の研究出身なのだが、この著書を書いた時点では現代物理学の哲学的諸問題を専門としていると紹介されている。つまり、量子力学に対して、物理的な意味での解説をしているのではなく、その哲学的な意味を説明しようとしているたとえになっている。ここに面白さを感じた。この哲学的意味を、形式論理を通じて理解することによって、その発想の仕組みというものを発見してみたいと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-27 10:22 | 論理

必然と偶然の弁証法性

必然性の判断、つまり必ず起こるであろうことを予測する時は、何らかの形式論理の展開による結論が提出されている。形式論理の展開による結論がなければ必然性の判断は下せない。ある物事が必然性の判断が下せないということは、形式論理的な決定が出来ないということを意味する。

この世に必然的なものはない、すべては偶然的だという現実解釈もあるが、これは事実によって否定される。もしすべてが偶然的であれば、必然性の判断を下すことが現実には出来ないことになるが、「科学」と呼ばれる真理を形式論理として展開すれば、未来に対する正しい予測が得られる。ここには必然性というものが存在する。すべてが偶然的なものではなく、あるものは必然性をもっている。

必然性というものを深く理解するためには、形式論理の基本原理を知ることが必要ではないかと思われる。そして、必然性を認識した対象に対しては、その結論からは逃れようがないのであるから、それがどんなに感情的に気に入らないものであっても受容するだけの気持ちを持たなければならない。必然性に反抗しても結果を変えることは出来ない。必然性を受け入れる感情を持ち、それが起こることを目にしても感情が揺さぶられることのない精神的な免疫性をつけることが重要だと感じる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-26 09:45 | 論理

現実存在である人間が無限を捉えることの限界

「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄で、武田英夫さんという方が疑問を提出していることに、無限を捉えるときの難しさが現れているような感じがしたので、これを考えてみようと思う。

無限という対象は、数学屋の場合は、これを素朴に前提して理論を展開しているように見えるが、逆に数学とは無関係な人は、無限というものが得体の知れないものであるかのように感じて、これを対象にすること自体に疑問を感じるのではないかとも思える。武田英夫さんの素朴な疑問には、無限の難しさの本質が含まれている部分もあるのではないかと思う。

武田英夫さんが語る疑問は二つに絞ることが出来るだろう。いずれも無限という対象の持つ弁証法性に関係するものだ。つまり、形式論理で取り扱うにはふさわしくない対象だ。それを形式論理で取り扱おうとすれば、そこには静止の論理で無限を表現するという難しさが出てくる。これは、運動の表現において、「止まっていて、かつ止まっていない」という矛盾した表現がどうしても必要だと、板倉さんが指摘したのと同じようなことが起こる。現実存在である人間には、無限は静止した状態として捉えることは出来ず、したがってそれを形式論理で表現することが出来ない。無限も、運動の過程として切り取って表現するしかないのだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-25 10:08 | 論理

みんな仲良し教育の欠陥

楽天ブログでmsk222さんが「みんなで仲よし、って…」というエントリーを書いている。ここに書かれていたことに、以前から問題意識を感じていたので、コメントを書かせてもらった。それは、みんな仲良し教育が、共同体主義を助長して、個人の主体性を育てることを阻害するという考えだった。

共同体の中で、よく知り合った仲間が阿吽の呼吸ですごすというのは、その中で何も問題が生じない時は、非常に幸せな気分をもたらしてくれるだろう。少々貧乏であっても、助け合って生きていくことに喜びを感じ、何が価値あるものであるか、何が善であるかがはっきりと決まっているという安心感を感じながら生きていくことが出来るだろう。

しかし、このような幸せな共同体は、前近代的な社会で過ごす場合にしか残らない。近代社会を構成する原則は、このような共同体を形式的には破壊してしまうことになる。近代社会は、さまざまな自由が認められ、もはや、生まれてから死ぬまで、一つの共同体の中で暖かい雰囲気の中ですごすということが出来なくなっている。共同体の中で安定してすごせる時代ではなくなってしまうのが近代社会というものだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-24 10:59 | 教育

シェーマとしてのたとえ話

シェーマというのは故遠山啓先生が、水道方式という計算体系の教育に際して、数という抽象的対象を教えるために考案したタイルという教具の特徴を指して使った言葉である。タイルという教具は、10進法の構造を教えるための教具であり、加減乗除の計算アルゴリズムの構造を教えるための教具として考案された。

タイルは、風呂の壁などについている正方形の板であり、これをつなぎ合わせ10個の細長い棒状にしたものや、縦横10個ずつの大きな正方形にして100を表したりしたものを使って数を教える。タイルの特徴は、つなぎ合わせたときの10個の塊や100個の塊を判別しやすく、10集まると桁が大きくなるという位取りの原理を、目で見て理解することが出来ることだ。

それまでは、計算棒というマッチ棒のようなものをたくさん集めたものや、お金を使って数を教えることが多かったらしい。しかし、計算棒は、10ずつ集まったという集合的な把握のイメージが難しく、10進法という位取りの原理だけを引き出すにはふさわしいものではなかった。お金は、すでに10進法の原理を知っているからこそその大小などが理解できるのであって、お金の価値と大小関係が混同される恐れもある。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-23 11:36 | 教育

道徳と法律の社会法則

板倉聖宣さんは、社会法則を学ぶための授業書として「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」というものを作った。これは仮説実験授業の授業書として作られたもので、社会にも法則性があるのだという科学的視点を教えるための授業所だ。過去にこういうことがあったという事実を知るためのものではない。

ここで語られている法則を抽象的に言えば、道徳を法律化したときの社会に対する影響というものがどういう現れ方をするか、ということを法則化したものと言える。道徳的に正しいことは、善悪の判断から言えば、いいことに決まっている。いいことだからそれを実現することが正しいと誰もが思う。そういうものは、人々の自発的な意志にゆだねて実現すべきもので、法律化して強制的に実現すべきものではない。もし、誰もがいいと思うことを法律によって強制化して実現しようとすると、予想に反して道徳的には堕落するという結果を招く。これが社会の法則なのだということを、具体的な法律である「生類憐れみの令」と「禁酒法」を通じて学ぼうというのが、この授業のねらいだ。

「生類憐れみの令」というのは、生き物を大事にしなければならないという道徳を法律化したものだ。これは、俗に言われているように、生き物のすべてを殺してはいけないというばかげたものではなく、むやみな殺生をしてはいけないという道徳を実現しようとするものだった。生き物をすべて殺してはいけないということでは、我々には食べるものがなくなってしまうということがあるので、そこまで極端ではなかったようだ。しかし、殺生が可能な限り制限されたことは確かだったようだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-22 09:37 | 内田樹

実数の連続性

実数の連続性に関しては、数学的にはデデキントの切断という考えを使うことが多い。これは、その発想が「連続」というイメージによく合うからだろうと思う。これは、直感的に言ってしまえば、実数を大きさの順に一直線に並べたとき、その直線のどの部分を切っても(任意の場所でということ)そこには隙間がない・すなわち実数が存在しているというイメージになる。

もし切断した部分に実数がなかったら、一直線に並べた実数の点は隙間があることになる。そうなれば、そこで切り離された状態になっていたことになるだろう。つまり連続ではないということになる。どこで切っても隙間がないということが連続であるということの確認になるわけだ。これは、無限に多くの点を持っている実数を対象にした場合は、連続性の確認が実無限の把握というものを伴ってくる。これは現実には人間には確認できない事柄になる。

現実の連続性の確認は、誤差を含んだ判断として連続であるか否かを判断することになるだろう。見た目に隙間が見つからないという連続性であれば、人間が目で判断できるもっとも短い幅を持ったナイフで空間を切ったときに隙間があるかどうかという判断になる。その短い幅の間は、視覚によって二つの点を区別することが出来ない限界になっているので、たとえ隙間があったとしても隙間としての判断ができない。つまり、隙間が存在しないということになって、それは連続だということになる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-21 10:01 | 論理