<   2007年 04月 ( 10 )   > この月の画像一覧

カラスが黒いことを科学的に証明できるか

schneewittchen さんという方から、「立場によって「真理」は違うか」というエントリーのコメントをもらった。そこに紹介されていたページの掲示板に、表題にあるように、カラスが黒いことを科学的に証明するということをテーマにしたものがあった。

ここで展開されている議論そのものに言及するのではないのだが、このテーマは、直感的に何か引っかかるものがあった。それは、「カラスが黒い」というような主張は、科学的に証明するという対象としてはなじまないのではないかということが頭に浮かんだからだ。

「カラスが黒い」という命題自体の判断はさておいて、これを証明するということを通じて「科学」というものを改めて深く考えるきっかけのようなものが得られるのではないかという思いも浮かんできた。結論から先に言ってしまえば、個別的な事実を語る命題は科学として成立するものにはならないということを僕は考えている。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-30 10:49 | 科学

「意味」とは何か

宮台真司氏が「連載第一三回:「行為」とは何か?」の文章の中で「意味」について次のような記述をしている。


「意味とは、刺激を反応に短絡せずに、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールし、選び直しを可能にする機能でした。」


僕は、この「意味」の定義が最初よくわからなかった。あまりにも抽象的過ぎるし、よく知られている辞書的な定義とかけ離れているように感じたからだ。また、僕は「意味」という言葉を三浦つとむさんが『日本語はどういう言語か』という著書で説明しているように理解していたので、その理解とこの定義とがどう整合的につながるかということも釈然としなかった。つながりそうな感じはしていたが確信が持てなかった。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-27 10:54 | 宮台真司

教育におけるエリート主義と平等主義

小室直樹氏の戦後民主主義教育への批判の中心にあるのは、その平等主義だった。平等ということは、民主主義においては重要な考えであるには違いないが、それが「主義」になってしまうと、条件を考慮することなく「平等がいい」という前提で考えが進められてしまう。しかし、「人を見て法を説け」ということわざにあるように、教育においてはむしろ「差別化」ということのほうが重要なときもある。「差別化」が正しいときに、「平等主義」を持ち込めば、そこには何らかの欠陥が露呈するのではないかと思う。

平等主義が生まれてくる背景には、「差別はすべて悪い」というような発想もあるのではないだろうか。「差別」というものが最初から否定的に扱われていれば、すべてが平等化される「平等主義」にならざるを得ないのではないかと思う。果たしてそれは正しいのだろうか。もし、「差別化」こそが正しい場合があるという主張が、党派性を持った主張ではなく、客観的に論理的に帰結されるならば、小室氏の指摘と批判も、単に極右の立場からの批判ではなく客観性を持った批判として捉えることが出来るのではないだろうか。

平等主義に対する批判は、小室氏の弟子を自認する宮台真司氏もよく語っていることだ。今週配信されたマル激でも、エリート主義の必要性との関連で平等主義批判を展開していた。宮台氏は、社会をリードしていく存在としてのエリートの必要性を主張している。そのエリートの養成には、誰もが同じことを学ぶという大衆教育では応えきれないというのだ。大衆教育のトップに立つだけでは、自覚のないエリートが生まれてしまうので、社会をリードするエリートとしてふさわしい資質が身につかないという。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-23 10:08 | 教育

石原慎太郎氏の父性・指導者性

東京都知事戦で石原慎太郎氏が圧勝してから、その結果を整合的に理解したいと思っているのだが、なかなかすっきりするような解釈が見つからない。浅野史郎氏に魅力が足りなかったといえばそれまでなのだが、僕にはそれ以上に石原氏に魅力がないように感じられたので、280万という圧倒的な人々が石原氏を支持したということの説得的な説明が見つからなかった。

共産党推薦候補の吉田万三氏が、反石原票を分散させたという批判もあるようだが、あの程度の票を持っていかれただけで勝てないようではやはり支持そのものが低かったのだと解釈したほうがいいだろう。もし反石原票が多いものだったら、浅野氏に魅力が足りなければ、それは吉田氏に流れるはずだ。反石原票が、浅野氏に魅力が足りないからといって石原氏に入るはずはない。

選挙の結果を整合的に理解するには、やはり石原氏が圧倒的に支持されたと考えるしかない。石原氏には、それだけの魅力があったのである。少なくとも石原氏に魅力を感じた人が相当の数に上ったと理解しなければならない。たとえ個人的には石原氏に不満があっても、石原氏は大衆動員で成功したのだと理解するところから整合的な解釈が導かれるのではないかと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-19 09:50 | 雑文

父性の欠如とモラルの喪失

小室直樹氏の指摘で気になることの一つに、父性の欠如とそれに原因するモラルの喪失との関係というものがある。小室氏は、『悪の民主主義』の中で「父性が良心を作る」と語っている。そしてこの良心が「人の規範(倫理、道徳)をつくる」と主張している。

小室氏によれば、「社会規範が内面化したものが良心である、ということである。そして、社会規範を内面化させるものは、父性の権威(authority)である」ということになる。小室氏は、「フロイトは、「父が権威を与える」ことを科学的に解明した」とも語っている。

ここで言う科学的ということの意味は、僕はそれが党派によらない真理であるという意味に受け取る。どのようなイデオロギーを持っていようとも、父性が権威を与え、その権威が内面化して良心となり、それが人の行動を規定する倫理となるということは誰もが認めるだろうということだ。フロイトのいうスーパーエゴと呼ばれるものはそういうものだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-17 09:53 | 雑文

民主主義とはどういうものか

小室直樹氏の『悪の民主主義』(青春出版社)によれば、戦後民主主義の批判の要になるのは、それがまったく民主主義と呼べるものではないということにある。戦後民主主義と呼ばれるものの、どの面が民主主義とは呼べないかということを理解することが重要になる。そのためには、民主主義というものに対する正しい概念を持たなければならない。その概念に照らして考えたとき、戦後民主主義がどのようにそれと違うかを理解することが批判の理解にもなる。

小室氏によれば「民主主義とは、実は、過程であって状態ではない」という。このことを認めるなら、論理的・抽象的には、戦後民主主義が民主主義でないことは、この前提から導かれる論理的帰結になる。日本社会にとって、民主主義とは敗戦によってアメリカから与えられた「状態」になってしまったからだ。それ以前の状態は軍国主義であり、敗戦から後は民主主義になったというわけだ。

小室氏は、「民主主義を目指しての日々の努力の中にはじめて民主主義は見出される」という丸山真男氏の言葉を引いているが、戦後の日本社会は、日々の努力によって民主主義を実現したのではなく、形としての「状態」をアメリカに整えてもらって、その形を民主主義として受け取ってしまった。だから、民主主義とは似ても似つかない「過程」が日本社会に存在することにもなった。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-16 09:44 | 政治

戦後民主主義教育

戦後も60年以上も経つと、どの時期の教育を「戦後民主主義教育」と呼んでいいか分からなくなる。僕が中学時代をすごしたのは昭和40年代半ばくらいだが、この時期は戦後も20年くらいたっていて、もはや戦後ではないと言われてから久しい。

僕が教員になったのは昭和50年代半ばくらいで、校内暴力の問題が深刻化していた時期であり、それが沈静化した後に登校拒否が表面化してきた時代でもあった。そして、いじめの問題が深刻化するのはもう少し後になるだろうか。

戦後まもなく行われた教育は、それ以前の軍国主義教育を否定したものであり、ノスタルジーとともにいいものとして語られることもある。それに比べて、最近に近くなるほど教育の荒廃は進んできたように言われている。つまり、戦後まもなくはまだ明るい希望に満ちた時代で、それがだんだん悪くなっていき、近年はこれ以上ひどくなることはないのではないかと思えるほど悪くなっているように感じられている。早急な改革が叫ばれている現状でもある。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-15 12:29 | 教育

歴史教育は物語でいいか

小室直樹氏が『悪の民主主義』(青春出版社)という本で戦後民主主義批判を展開している。この戦後民主主義批判というのは、僕は今までは党派性からくる議論だと思っていた。反体制側が戦後民主主義を肯定し、体制側はそれを否定しようとするのは、自分の立ち位置からくる論理であって、それぞれの前提を認めればどちらも成立する論理だろうと思っていた。

だから戦後民主主義批判というものは客観性を持たないものだろうと感じていた。それぞれの立場を認め、その立場の賛成した人間は立場に従って批判するものであり肯定するものでもあると思っていた。しかし、小室氏の議論を読んでいると、党派性の立場ではなく、その立場を越えて客観的にも批判できる部分が存在するのではないかとも感じてきた。

全体としての戦後民主主義批判は、この本の全部を読んでから全体把握をした上で考えたいと思うのだが、一部に関して気になったところを考えてみたいと思う。それは、小室氏がこの本の64ページで「歴史教育は歴史研究とは違う」と語っているところだ。小室氏は、「歴史教育は、民族精神を確立するために行われるべきである」と主張している。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-08 11:35 | 歴史

左翼の勘違い

在日朝鮮人の「強制連行」という問題は事実の問題であり、事実を間違えているという意味で嘘という言い方がふさわしいだろう。それは意図的なものでもあるようだし。これに対して、事実の間違いから生まれた嘘ではなく、理論の間違いから生まれたものは嘘というよりは勘違いと呼んだほうがいいかもしれない。三浦つとむさんは「官許マルクス主義」と呼んで、その理論の間違いを指摘していたが、僕自身も左翼の勘違いによる間違いを感じた経験がある。

僕が経験したのは、組合を通じて学習した労働講座だった。そこはマルクス主義の理論を学習する講座だったが、何回かのレポート提出があり、そこで資本主義と共産主義の比較というテーマのものがあった。僕は三浦さんを通じてマルクス主義の理論的優位というものは感じていたものの、資本主義に優れている面がないわけではないと感じていた。

板倉さんがどこかで言っていたのだが、資本の発明というのは画期的な人類の発明であって、これによって個人ではなしえない大きな仕事が可能になったという評価をしていた。国家権力を使えばもちろん個人で出来ないような仕事をすることが出来るが、それは一握りの権力者の意図を反映するだけだ。大衆的人気を持ったものが実現するという面で、資本の発明は大衆社会のきっかけであり、大衆が豊かになるための道を切り開いたものとして評価できる。結果的に、マルクスが批判したような面を見せたとしても、資本の発明は労働者を苦しめただけではなく、労働者に豊かさをもたらした面も評価しなければならないと思っていた。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-03 09:54 | 左翼の嘘

左翼の嘘

左翼の嘘という言葉を宮台氏から初めて聞いたのは、「在日朝鮮人強制連行」ということにかかわっての言説だった。現在日本にいる在日朝鮮人の大部分の人が「強制連行」で連れてこられたと学校教育では教えられているが、実は大半の人は自らの意志で来た人ばかりだというのが宮台氏の言葉だった。このことは専門家の間ではほぼ常識化しているということだった。

僕の手元にはたまたま平成4年検定合格の中学社会の歴史的分野の教科書がある。そこでの記述は次のようになっている。「戦時下の国民生活」とタイトルがついたところで


「戦局が悪くなると、これまで徴兵を猶予されていた大学生も軍隊に招集されるようになった。さらに、労働力の不足を補うために、朝鮮から70万人、中国からは4万人もの人々を強制的に連れてきて、工場や鉱山・土木工事などに厳しい条件の下で働かせた。やがて、朝鮮・台湾にも徴兵令がしかれ、多くの朝鮮人・中国人が軍隊に入れられた。」


僕は自分が生徒だった時代に熱心に授業を聞いたことがなかったので、このことをどのように教えられたかまったく記憶していないのだが、在日朝鮮人のほとんどが「強制連行」で連れてこられたのだと教えられた記憶を持っている人もいた。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-02 10:21 | 左翼の嘘