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「蓋然性」は論理の問題

ある事柄に対してその信憑性が高いとか、それが存在する確率が高いという判断は、何か別の事実やデータを持ち出してそれを根拠に主張することではない。事実というのは、論理的に言えば真理のことであるから、真理であれば100%確かでなければならない。何かの事実を根拠に論証するときなど、その事実は100%確かだという前提で推論しなければ、推論が長くなればなるほど結論の信頼性が低くなってしまう。

事実が事実であるかどうか、つまりそれが真理であるかどうかは二者択一の問題であり、80%くらい真理だという判断などはないのである。真理は0か1かのどちらかであって、その信憑性という、われわれがそれを信じるかどうかという点で「蓋然性」が問題になるのである。信じるに足る根拠があれば信じるし、根拠があやふやであれば信じられないし、それは根拠となる事柄の論理性によって判断される。

以前にNHKの問題で、現在の安倍総理や中川経済産業大臣が圧力をかけたのではないかという問題があった。このとき、何らかの事実が見つかって、例えば「番組を改変しろ」という命令があったと証明されたら、これは「蓋然性」の問題ではなく、「圧力があった」という判断がされる問題になる。事実の確認は、「蓋然性」を高めるのではなく、まさに真理が決定することを意味する。

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by ksyuumei | 2007-03-17 16:16 | 論理

「南京大虐殺」はあったのか?

宮台真司氏が「南京大虐殺」というものに疑問を呈して、それが「なかった」と受け取れるような発言をしたときに僕は大きな違和感を感じていた。しかし、その「なかった」という意味は、「南京大虐殺」そのものを否定するいわゆる「否定派」と呼ばれる人々の言説とは違うだろうという感じも抱いていた。

「週刊ミヤダイ」というインターネットラジオの放送を聞いて、それが蓋然性の問題として、中国などが主張する「30万人説」に蓋然性がないという意味での「なかった」ということなのだということが最近分かった。つまり、宮台氏が語る「なかった」という意味は、中国などが主張する「虐殺者が30万人いたという意味での南京大虐殺」はなかったということだったのだ。

このとき重要なのは、虐殺者が30万人に達していたかどうかということだ。犠牲者が30万人いたかどうかということではない。虐殺者が30万人いたということは、論理的な問題として考えた場合に、その蓋然性はほとんどありえないという意味で蓋然性が低いと判断できる。これは論理の問題であって、具体的なデータの問題ではない、と僕は判断する。

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by ksyuumei | 2007-03-16 10:29 | 雑文

「言語ゲーム」の本質

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、どのような対象がそう呼ばれないかという、対象がもっている特質がつかめれば、この分かりにくい概念が理解できるのではないかと思った。

対象が単純なものではなく、複雑で難しい場合は、現象として見られるものとその本質とが違っていることが多い。だから、複雑で難しい対象を正確に把握するためには、その対象に関する本質論を考える必要があるのではないかと思う。本質論がうまく立てられるなら、それは対象の理解を深めることになり、教育や学習という面で大きな成果があげられるのではないかと思う。

このようなことを考えて、さて「言語ゲーム」の本質はなんだろうかと考えていた矢先に、参考図書として読んでいた『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均・著、ちくま新書)に次のような記述を見つけた。


「ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。
 ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。一つの家族は、体格、顔つき、目の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何か一つの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特長は存在しないのである。「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族をなしたそうした語が、実際に有効に使われている--それだけなのである。」

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by ksyuumei | 2007-03-14 09:13 | 方法論

武谷三段階論における「本質」

武谷三男さんの三段階論を辞書で引くと「科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するとしたもの」という説明があった。ここに書かれている「本質論」の「本質」とはいったいどのようなものを指すのだろうか。それは、「現象」や「実体」とどのように違うのか。この「本質」はやはり関係として捉えられるものなのだろうか。

武谷さんの三段階論は『弁証法の諸問題』という本に納められた「ニュートン力学の形成について」という文章の中で語られている。まとめてみると次のようになるだろうか。


現象論的段階
第一段階:現象の記述(実験結果の記述)
「この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。」……個別的判断、個別的な事実の記述

実体論的段階
第二段階:現象が起こるべき実体的な構造を知る。この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得る。
「ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記述するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬとゆうことにはならない。」……特殊的判断、その法則は実体との対応において実体の属性としての意味を持つ

本質論的段階
第三段階:実態的段階を媒介として本質に迫る。
「諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。」……普遍的判断、概念の判断(任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにする)

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by ksyuumei | 2007-03-12 00:02 | 科学

「言語」の本質とは何か

三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』という本で、言語の本質を語る際に、絵画や映画との比較から始めている。これは、表現一般というものをまず考えて、言語もそのような表現の一種としての性格を持っていることを前提として、それではそのような表現一般の中で言語に特有の性質としては何があるかを考えることで言語の本質というものを求めているように感じる。

言語は表現としての側面も持っているので、当然のことながら表現としての側面として、表現一般の本質という性質も持っている。これを言語の本質と取り違えてしまう可能性があるだろう。本質というのは、対象をどのように扱っているかという主体の側の条件によっても変わってくるということになるのではないか。

さて、表現というのは辞書の説明によれば次のようになる。


「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。」

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by ksyuumei | 2007-03-07 10:33 | 雑文

立場によって「真理」は違うか

本多勝一さんは、かつて「事実と「真実」と真理と本質」という文章で、これらの言葉を比較して、その意味を論じたことがあった。そのときに、これらの言葉の辞書的な意味を調べた部分で次のように書いていた。


「そこで平凡社の『哲学辞典』を引いてみますと、「真理」の項目にはギリシャ語 aletheia 、ラテン語 veritas 、ドイツ語 Wahrheit 、フランス語 verite 、英語 truth 、というふうに、まずヨーロッパ語が並べられていて、真理についての歴史的経過が述べられています。これを読むと、真理というものはそれぞれの立場によって違うということが分かる。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、カントの真理、弁証法的唯物論の真理……。当然ながら、ニクソンの真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……と、それぞれ違うことになります。」


この部分に書かれている、<真理がそれぞれの立場にとって違う>ということは、本多さんのここでの論説の本論となっているものではないが、これはちょっと説明が必要なものではないかと僕は感じた。本多さんが主張していることは間違いではないと思う。しかし、この主張を文字通りに受け取って、真理はそれぞれの立場によって違うのだから、客観的に誰もが賛成するような真理はないのだと解釈してしまうと間違えると思う。

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by ksyuumei | 2007-03-06 10:26 | 真理論

「本質」とは何か

「社会科学の科学性について」というエントリーにコメントをもらった佐佐木晃彦さんの「② <本質=関係>把握としての弁証法」というページを訪ねてみた。三浦つとむさんから学んだというその内容はたいへん興味深かった。

ここで語られている内容そのものもたいへん興味深いのだが、その前段階として「本質」という概念についてもう少し考えたいような気分になった。それは、「本質」を「関係」として捉えるという思考の展開が、必ずしも自明に自然なものには見えなかったからだ。もう少し説明が必要なのではないかと感じた。何故に「関係」という点に「本質」を見るのか。その必然性がどこにあるかというのを考える必要を感じた。この前段階をよく考えた後に本論のほうへ入っていきたいと思う。

「本質」という言葉は「現象」という言葉と対比させて考えられるのではないだろうか。現象というのは、辞書によれば「人間が知覚することのできるすべての物事。自然界や人間界に形をとって現れるもの」とされている。つまり、現象というのは「すべて」の対象を含むものであり、非常に高い多様性を持っているものだ。

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by ksyuumei | 2007-03-04 11:25 | 雑文

蓋然性の問題

宮台真司氏が、以前に「南京大虐殺はなかった」というような発言をしたことがあった。これに対して僕は、かなり大きい違和感を感じたのだが、単なる感情的な「愛国心」からこのような言葉が出てきたのではなく、宮台氏が言うからには、何らかの確たる根拠があるに違いないという気がしていた。その根拠に当たるものを、今週配信された週刊ミヤダイで聞くことが出来た。

今週の週刊ミヤダイのテーマは「従軍慰安婦問題と河野談話の扱いについて」というものだった。この問題の発端は、従軍慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議案が米下院に提出されていることだった。これに対し、宮台氏も、「決議案は客観的事実に基づいていない。日本政府の対応を踏まえておらず、はなはだ遺憾だ」と不快感を示した政府見解とほぼ同じ感想を述べていた。

日本政府に責任がある事柄で告発されているなら仕方がないが、いわれのない嘘で告発されているときは、それに対して反論するのが当然だというのが宮台氏の主張だった。この「いわれのない嘘」というのは、日本政府が主導して「強制連行」したというものだ。事実として政府による「強制連行」はなかったというのが宮台氏の指摘だ。

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by ksyuumei | 2007-03-03 12:16 | 宮台真司

「疎外」が生む問題に対するマルクスの解決

「疎外」という現象は、人間が作り出したものであるにもかかわらず、人間のコントロールの範囲を越えてしまって、それが独自に活動してしまうことによってさまざまな問題を生じるようになる。これをどう解決するかということを考えるのに、とても分かりやすい比喩を大塚久雄さんは『社会科学の方法』の中で語っている。群集のなだれのような動きというものを考えて、これに翻弄されずに治めるにはどうしたらいいかを考えることで、その他の社会現象についてもそれをコントロールする方法というものを比喩的に考えている。

初詣に有名な神社などに行くと、大勢の人が流れるように動いているのを見ることができる。この流れに沿って歩いているときはいいのだが、これに逆らって違う方向へ行こうとするとかなりたいへんだ。これは多くの人が経験しているだろう。そのような状況のときに、ちょっとしたパニック状態が起こって、その群集がいっせいに、ランダムに動き始めようとするとたいていは自分の意志と違う方向に引きずられていってしまう。かなり危険な状況になり、問題が発生したと言っていいだろう。

この問題を解決するにはどうしたらいいのだろうか。群集のランダムな動きを秩序あるものにするにはどうしたらいいか。この解決方法について、大塚さんは、個別的な方法と集団的な方法と二つの方法を考えている。

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by ksyuumei | 2007-03-01 10:02 | 雑文