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埋葬記録への疑問

『「南京事件」の探求』という本の中で著者の北村稔さんは次のように書いている。


「中国語の同時代資料も、「30万人の大虐殺」を彷彿させるものではなかった。かえって、「想像以上に落ち着いていた南京」を垣間見せるものであった。それにもかかわらず、戦後の調査で明らかにされた膨大な遺体の埋葬数が決め手となり、日本軍占領中の「南京大虐殺」が確定されたのである。」


この見解は、研究者の間の共通見解ではなかろうかと思う。虐殺の事実というのは、その質については個別のケースを発掘できるが、量については確定が難しい。だから30万人説の根拠になるのは、直接虐殺されたという数の調査ではなく、間接的に虐殺を推測できる数の調査からもたらされたであろうことは推測できる。それは上に語られているように、遺体の埋葬数がその大部分を占めるであろうと思われる。

30万人説の根拠となるものが遺体の埋葬数であるなら、それはどのくらいあったのかという総数がまず問題になり、さらにその中のどれくらいが虐殺されたと考えられるかが問題になる。これらはある程度の誤差の範囲で算出されているだろうが、その誤差が30万という数字に比べて小さいものであるなら無視してもいい数字になるだろう。しかし、無視できない数字であるときは、これが疑問として提出される。30万人説の蓋然性を疑う疑問として考えられることになる。

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by ksyuumei | 2007-03-31 13:14 | 雑文

3000人という数字の重み

「資料:「犠牲者数」をめぐる諸論」というページに、「雑誌「偕行」の「証言による南京戦史」最終回に掲載された、加登川氏の見解」というものが紹介されている。

ここでは、実際に南京の戦闘に参加した日本軍兵士の体験をもとに、南京で何があったのかを証言として記録しようとする過程で、虐殺の問題に行き当たったようだ。これはいわば加害者側の記録であって、その数字が小さく見積もられたとしても、立場上仕方がないところがある。加登川氏も次の弁明のような言葉を書いている。


「この戦史が採用してきた諸資料にはそれぞれの数字がある。だがこれらはもともとが根拠の不明確な、いわば疑わしい数で、その真否の考証も不可能である。その数字をあれこれ操作してみたところで、「ほんとうか」と問いただされても明確に返答し得ない数字になるだけである。史料の確からしさの判定は読む人にもよろう。畝本君や従軍将兵の諸氏には、あの南京戦場を走りまわった体験から、そこに起こりうる事象の大きさについての個人的感触を持っている。巷間喧伝される数字がいかに大きくとも、そんな膨大な数があの狭い場所でと、納得できないところがあるのである。ここにこの推定集計の難しさある。だがなにがしかの答えは出さざるを得まい。」

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by ksyuumei | 2007-03-31 09:32 | 雑文

数字を語ることに意味がないと思いながらも、あえてこだわって語る

「南京大虐殺」と呼ばれる出来事について、そこで虐殺された人々の数が30万人だったという言説は、すでに完全に否定されているものだと僕は思っていた。少なくとも、この数字に蓋然性がないということは、立場を越えて明らかにされていると思っていた。だから、宮台氏が「南京大虐殺はなかった」という意味に取れるようなことを語ったときも、この30万人説がなかったという意味であればそれは了解できると思ったのだった。

妥当な数字がどこかに落ち着くということはおそらくないであろう。専門家の間でさえ、数千人から10数万人という数字の間の主張があり、それは確定されていない。これは、誤差と呼ぶにはあまりにもかけ離れた数字になっている。しかし、どの数字も、専門家が語る数字であれば、どのような前提からその数字が算出されているかが語られている。

どのような死者が「虐殺」に数えられているかが明らかにされ、その数字がどのように推定されるかが示されて、その主張の前提を認めれば結果も認めざるを得ないような論理的な流れの中で主張されている。専門家が主張する数千から10数万という数字は、それなりに論理的な妥当性を持っているので、論理的にはすべて並立しうる数字だといえる。これをどれか一つに確定することなど出来ないだろう。

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by ksyuumei | 2007-03-30 12:57 | 雑文

数値データを語ることについて

以前のエントリーで、僕は本多勝一さんの次のような文章を引用した。


「末子の弟は、まだ満なら一歳あまりの赤ん坊だった。空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りかかった。気づかれた。「鬼子」たち2~3人がアシ原の中を捜しに来た。赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出してその場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしり取るとその面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母を後ろから撃った。二発撃った。一発は腰から腹へ、一発は肩からのどに貫通した。鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。
「鬼子」たちは同僚の隊列を追って土手の上を去った。」


この報告は、南京陥落直後のことを語ったものとして報告されていた。その時期を含めて、ここで語られていることが正確な記憶によるものだということを前提にすれば、ここで殺された母子は明らかに「虐殺」に相当する例になる。赤ん坊には死に相当する正当な理由は何もない。母親に対してもそうである。それを、いわば自分たちの思い通りにいかなかったことの腹いせに殺したようなこの行為は「虐殺」と呼んでもいいだろう。

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by ksyuumei | 2007-03-24 10:35 | 雑文

「南京大虐殺」30万人説について

南京事件に関連して、虐殺された人の数が30万人だというのは、その数字の出し方も曖昧にされているし荒唐無稽な「白髪三千条」という比喩的な意味しか持たない、ということで「蓋然性」が低いという議論をしてきたのだが、どうも議論がかみ合わないのを感じている。

僕が主張しているのは、南京攻略戦で結果的に死んだ人の数が30万人いたかどうかということではないのだ。死んだ人の中に、虐殺されたと考えられる人が30万人いたかどうかという問題なのである。

「虐殺」という言葉の概念そのものが客観的に確定されないのに、30万人という数字が確定すると考えること自体に論理的な無理がある。それだけでも論理的な問題は明らかなのだが、これが論理の問題ではなくどうしてもデータの問題であると言いたい人もいるようだ。

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by ksyuumei | 2007-03-23 10:42 | 雑文

だますこと・だまされること

板倉聖宣さんが、『物の見方考え方第2集』(季節社)の中で手品とトリックの違いについて書いていた。どちらも「だますこと」に関連して結果的に人を欺くことになるのだが、手品の場合は始めからそれが嘘であることを宣言して人を欺くトリックになっている。しかし、トリック一般の中には、必ずしも嘘であることを宣言しているものばかりでなく、本当を装ってだまそうとするものもある。

トリックは手品の前提となるものであるが、トリックのほうが対象となる集合の定義域が広い概念になっている。いずれも感覚的な錯覚や認識の一面性を利用して判断の誤りを引き出してだまそうとするのだが、それが嘘であるということの確証となるタネを見破るのは容易なことではない。

タネが簡単に見破れるような手品の場合は、素人の余興としての宴会芸程度なら問題はないが、見物料を取って商売にするようなプロにとっては腕の悪い手品師として評判を落としてしまうだろう。優れた手品師が行う手品は、どんなに観察力の優れた人でもそのタネを見破ることは出来ないだろう。

手品の場合は、それにだまされたとしてもわれわれに害になることはない。むしろそのことで楽しみを提供してもらえるのでわれわれにとっては有用な娯楽でもある。それが面白く楽しませてもらえるものであるからこそ見物料を払ってでも見たいと思うのである。それに対して、嘘であることを宣言していない、本物を装うトリックの場合は、結果的には詐欺になったり重大な判断の間違いにつながることがあったりしてわれわれに甚大な被害をもたらす。

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by ksyuumei | 2007-03-23 10:15 | 雑文

論理の理解は難しい

南京で虐殺された人々が30万人もいたということに「蓋然性」がないというのは、簡単な論理の問題だと思ったのだが、なかなか論理というのは理解が難しいものだなと思う。

僕は、宮台真司氏が「南京大虐殺はなかった」というような言説を語ったときに、かなりの違和感を感じた。それは、この言説が、南京事件という事実そのものを否定したように感じたからだ。いくらなんでもそんなことはないだろうというのが僕の感覚だった。

つまりそのときは、宮台真司氏が明らかな間違いを語っているのではないかという違和感だったのだ。宮台氏ほどの優れた人間が、党派性丸出しの右翼イデオローグと同じようなことを語るだろうか、という疑問とこの違和感は一体のものだった。

しかし、これが「蓋然性」の問題だと理解出来れば論理的な整合性を見つけることが出来る。そして、その「蓋然性」は30万人説と呼ばれる中国の主張に対する「蓋然性」の問題なのだ。南京大虐殺という事実がまったくなかったという主張が、党派性丸出しの右翼イデオローグならば、30万人説というのは中国共産党の党派性丸出しのイデオローグなのだと僕は理解した。

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by ksyuumei | 2007-03-20 09:13 | 論理

「差別」はすべていけないことか

僕は、「差別糾弾主義者」に対して、その「差別」の糾弾の仕方に不当性を感じていた。彼らの主張の一部に正しいものが含まれていたとしても、その糾弾の仕方では、糾弾される当の対立者にはもちろんのこと、それを眺めている第三者からも反感をもたれて支持はされないに違いないと思っていた。差別糾弾という運動が大衆的な広がりを持たなかったことから、僕の感覚は正しかったものだと思っている。

普通の感覚で言うと、「差別」というのは不当性を伴っているので、その不当性が糾弾されるということに関連して「差別」が糾弾されるというふうに受け取る。だから、その糾弾に違和感を感じて、糾弾するほうこそ不当なのではないかと思うのは、糾弾している「差別」の対象を間違えているのではないか、あるいは「差別」ではないものを「差別」にしているのではないかという感じを受けることがあるからだ。

僕は、実際に「差別」があったとしても、その糾弾の仕方にも問題があったと思っているのだが、一般的な感覚として「差別はすべていけないこと」というような流通観念にも疑問をもっている。「差別」がすべていけないというのは、「差別」という概念そのものにすでに不当性が含まれていると理解しているからだろう。だから、どこかに「差別」の現象を見つけたら、それを発見しただけで糾弾に値すると思ってしまう。そこに不当性があるかどうかという判断をしないで、「差別」だという判断で糾弾するに値すると思ってしまうのだ。

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by ksyuumei | 2007-03-19 09:38 | 雑文

「論理的」とはどういうことか

論理というものに慣れていない人は、「論理的」という意味を勘違いして使っているのではないかと思うときがしばしばある。日本の学校教育では論理についての教育をしないので、論理を知らない人のほうが大部分だと思うが、論理というのは、基本的に推論の部分を考察するのであって、結論が正しいかどうかを問うのではない。

結論が間違っていても論理的には正しいということはいくらでもありうるし、結論が正しくても論理的に間違っているということはいくらでもある。結論の正しさは論理の正しさに直結しない。だから、結論に対して賛成できなくても、その結論の導き方が、論理的ではないと決して言えないのである。

論理にとって大事なのは、ある前提を置いたときに、その前提のみから結論が導かれるかという整合性のほうであって、前提に何を置くかというのは、論理の問題ではないのである。それこそ前提に置かれる命題が党派性の強いものであれば、誰も賛成しないような結論ではあるが、その党派のものであれば賛成するというような結論が、論理的には正しいという場合がありうる。

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by ksyuumei | 2007-03-18 22:01 | 論理

南京における虐殺という現象を「言語ゲーム」的に考えてみる

本多勝一さんの『中国の旅』から南京事件に関する記述を拾って、そこでの「虐殺」の現象がどのように考えられるかを、「言語ゲーム」的な発想で考えてみようかと思う。「言語ゲーム」の概念については、まだ充分わかったわけではないが、真理の決定における言語の影響という観点が大きいのではないかと感じている。

普通唯物論的に物事を捉えると、真理というのは対象である物質的存在をよく観察することによって、存在と認識との一致ということから得られるものと考えられる。初期のウィトゲンシュタインの考え方からすれば、言語が現実を映し出すという「写像」という考え方が、真理関数というものにつながり、現実の事実が言明の真理を示すと考えられる。

しかし、言語による言明が、現実の事実と完全に一致しなければ真理の判断は違うものになってしまう。言語の言明は、言語とは独立に存在している対象に属するものとしての真理と対応しているのではなく、言語を使うことによって真理が影響されるという関係にあるのではないか。それまでは真理の対象とならなかった事柄が、それについて語ることによって何らかの意味で真理と考えられるようになる。そのような現象が「言語ゲーム」として語られるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2007-03-17 23:30 | 言語