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マルクス理解の難しさ

僕はマルクスの『資本論』に何度か挑戦してその都度挫折している。それは、マルクスの叙述の抽象度の高さにあると今までは思っていた。抽象のレベルが高すぎるので、その過程を追うことが難しく、現実のどの面が捨てられていっているかを理解することが難しいのだと思っていた。しかし、大塚久雄さんの『社会科学の方法』を読んだら、抽象レベルの高さに加えて方法論的にも難しさがあるのではないかということを感じた。

抽象度の高さから言えば数学などは最高レベルの抽象度を持っている。だが、数学の場合は、抽象度は高くてもその過程が短い場合は理解が容易なので、そのようなものから抽象化の過程に慣れていって、その過程が複雑で長いものの理解へと進むような学習をしていく。いきなり複雑な過程を持つ高い抽象レベルの対象へ行くことはない。

『資本論』などは、数学的に言えば最高度の複雑性を持った抽象度がその難しさを与えていると僕は感じていた。しかし、それだけなら、ほとんど数学の一分野だと言われている現代経済学の理解と同じように、手順さえ踏んで学習していけば、自分で新しい分野を切り開いていくのではないからもう少し分かってきてもいいものだと思っていた。先駆者にとっては大変なことでも、後から続く者はその大変さの数分の一の努力で困難を克服できるのではないかと思っていた。

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by ksyuumei | 2007-02-28 10:18 | 雑文

社会科学の科学性について

大塚久雄さんの『社会科学の方法』(岩波新書)というとても面白い本を見つけた。大塚久雄という名前は、学問の世界ではビッグネームだったようだが、今では一般にはあまり知られていない人なのではないだろうか。僕も初めて手にしてみたのだが、内容の面白さと分かりやすさは、かつて三浦つとむさんの本を初めて読んだときのような感じがした。

三浦さんはアカデミックの世界とはまったく無縁の人だったから、その分かり易さはむしろ当然だと思っていたのだが、アカデミックの世界の巨人とも言える人が、これほど分かりやすい文章を書く人だとは意外だった。まだ最初の部分を読んだだけなのだが、そこだけでも「目から鱗が落ちる」というような経験ができることにあふれている。

大塚さんは、冒頭で「科学的認識である以上、それは因果性の範疇の使用ということと、どうしても関連を持たざるを得ない」と書いている。これは、「因果関係」というものを「仮言命題の成立」と言い換えると、<ある出来事が成立したなら、必ずこういうことが起きると正確に予想できる>ということだと解釈できる。

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by ksyuumei | 2007-02-27 09:49 | 科学

多様な視点

今週配信されている「週刊ミヤダイ」では赤ちゃんポストをめぐる議論を展開している。これも、日本の戸籍制度との関連など興味深い議論を宮台氏は展開していたが、この途中で現れた「教育」というものの社会科学的な定義が僕には印象に残った。

宮台氏は、「教育」を動機付けと人材の配分システムとして捉えている。これは、言い換えれば能力を「判定」し、その結果で進路を「選別」するという機能をもった装置が「教育」だということだ。このことは、以前も語っていたことなので特に目新しいことはないのだが、良心的な人々が語っているような、「教育は子どものために行う」というような概念を、社会科学的には拒否していることについても語っていた。

この定義は、一面的な受け取り方をすると、教育における「差別」や「選別」をそのまま肯定しているようにも聞こえてしまう。しかし、その持っている能力が未知のものである子どもに対して、動機付けをして能力の開発を行い、結果として身についた能力で適材適所の配置をアウトプットする装置として教育を考えるのは、価値判断を抜きにして考えれば合理的な捉え方なのではないかと思う。「差別」や「選別」が不当なものとして現れるのは、装置の判定が正しいものではなく、装置の機能が不十分であることから結果するものではないだろうか。そして、このことが「多様な視点」という事柄とともに語られていることに、宮台氏がなぜこのような定義を与えるかということの理由がわかるような気がした。

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by ksyuumei | 2007-02-25 11:40 | 教育

社会にも法則はあるか

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白い本を手に入れた。新書程度の軽い本なのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。

哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。

科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出来ない。仮説実験の論理は、その肯定判断を下すための一つの視点なのだ。表題にあるような、「社会にも法則はあるか」という問いに肯定的に答えることが出来れば、その法則こそが社会科学なのだと言うことが出来る。

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by ksyuumei | 2007-02-23 00:39 | 科学

西部邁氏と宮台真司氏の柳沢発言解釈

今週配信されたマル激の中で、ゲストの西部邁氏と宮台真司氏が柳沢発言について語っている部分がある。内容的には、僕が以前に考えていたようなものと重なると思った。それが数学系的な文脈であればさほど問題にするようなものではないと言うものだ。むしろ問題は別のところにあるという指摘だと僕は感じた。

西部氏の指摘は、放送に忠実に採録してみると次のようになるだろうか。「機械」という言葉をどう受け止めるかでこの解釈は微妙に違ってくるのだが、西部氏は「機械的」という言葉と関連させて、必然性を受け止めたときに「機械」としての自覚をすると語っているように思った。つまり、西部氏の「機械」という言葉の受け取り方は、「非人間的」というものではなく、数学系的な発想からくるもののように感じた。

これは、人間機械論と言われたサイバネティックスの発想にもつながるようなものではないだろうか。必然性を見つけて、それを自覚すると言うのは、関数のブラックボックスとしての認識だ。それは機能性のほうを重視して、まさに「装置」としての働きに注目をするという観点であって、その観点を徹底するためには、むしろ人間と言うような曖昧な存在であっては抽象化に失敗する恐れがある。数学系的な発想では、むしろ人間を機械と見たほうが抽象化のためにはいい場合もある。

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by ksyuumei | 2007-02-20 10:45 | 雑文

歴史には流れがある

革命と言う出来事は、社会にとって大きな変化がおこることであり、それは後から見ると何か突発的な急変が起きているように見える。しかし、時間の流れの中で、以前の出来事と関係なく新しいことが生じてくるのはフィクションの中だけの話で、現実には、どんなに衝撃的なことが起ころうとそれはすでに準備されていたことであることが発見される。

明治維新という革命は、それがその以前の日本社会をまったく変えてしまったものだった。だが、その後の日本の軍国主義化と天皇制による絶対主義的な支配があったせいだろうか、近代的な市民革命とは見られていない面があるようだ。歴史に流れがあるのなら、市民革命として成功したと見られる明治維新が、大衆を解放し市民を育成しなかったはずはないと考えなければならない。

大衆を解放することなく、市民を育てなかったと言うのは、その後の日本の敗戦までの姿や、現在の政治状況などを見ると妥当な解釈のようにも感じる。そういう意味では、日本の歴史の流れで、明治維新は真の革命ではなかったと言う羽仁五郎さんの言い方が正しいようにも思えてくる。

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by ksyuumei | 2007-02-17 12:17 | 歴史

新たな「構造的弱者」

内田樹さんの『下流志向』という本の中から気になる部分を抜き出して考えてみようと思う。その一つは、「構造的弱者が生まれつつある」という一節だ。「構造的」という言い方には、個人の努力にもかかわらず、それを越えた大きな枠組みの力によって影響されているというニュアンスがある。個人の責任に帰する以外に、社会的な原因があって弱者になっているというニュアンスを感じる。

そういう弱者は今までもいただろうし、階級社会と呼ばれるところでは今でもたくさんいるに違いない。封建社会は、生まれついての身分に縛られてそこから離れることは出来なかった。典型的な階級社会だっただろう。そこでは、どれほど優れた資質をもっていようと、社会の下層の身分であれば、そこから抜け出ることは出来ない。そして、下層身分ゆえの弱者として生きるしかない運命を持っている。

江戸時代の封建制が崩れて、明治維新によって社会が大きく変わったという点は、最近読んでいる板倉聖宣さんの『勝海舟と明治維新』などでも、有能な人物が認められて出世するというところに見ることが出来る。努力し、能力さえあれば誰でも認められるような社会というのは、近代と呼ぶにふさわしいものだと思う。板倉さんの本を読むと、明治のころの日本というのは、当時としては最高レベルの近代民主主義が実現されていたとも感じる。だからこそ明治の日本は、先を行くヨーロッパの進歩に短期間で追いついてしまったのではないかと思う。このことからも、明治維新を市民革命だと言いたくなってくる。

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by ksyuumei | 2007-02-16 09:58 | 内田樹

直接確証できない事柄の真理性をどうやって判断するか

虹が七色であるのか六色であるのかは、虹という現象を人工的に作り出して実際に数えてみれば確かめることが出来る。そのときに、錯覚をするという可能性もありうるが、とりあえずは自分の感覚を信用して判断するということが大事なことだ。権威ある言説が、自分の感覚を否定していようとも、まずは自分の感覚のほうを信じて考えてみる。

そして、権威ある言説と自分の感覚のどちらが正しいかを、論理的な整合性があるかで判断をする。もし、虹が七色だと断定することが正しいなら、自分が錯覚しているのは圧倒的少数派となるだろう。多くの人は正しいとされるほうを感覚するはずだ。しかし、七色に見えないほうが多数派であるという結果が出ている。これは論理的にどう整合性が取れるだろうか。

圧倒的多数が同時に錯覚しているという可能性は論理的には考えることが出来る。水の中に入れた棒が、上から見ると曲がっているように見えるというのは錯覚だが、これはほとんどすべての人が見ることが出来る錯覚だ。だがこの錯覚は、錯覚であることが証明できるからこそ錯覚だと判断される。水の中から棒を抜き出せば、それが曲がっていないということを確かめることが出来る。

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by ksyuumei | 2007-02-15 10:04 | 真理論

虹は七色ではない

板倉聖宣さんの『虹は七色か六色か』(仮説社)と言う小さな本を買った。文庫サイズで60ページもない本なので30分もあれば読めてしまうのだが、この本のそこに書かれている内容は、とても大きな意味を持つ重要なものだと思った。板倉さんも次のように「はしがき」に書いている。


「『虹は七色か六色か』と題したこの小冊子の主題は、表面的には<虹の色数>を数えるものとなっています。しかし、その<真のねらい>はもっと深いところにあって、人々の「教育」とか「科学」というものについての「考え方」そのものを考えるものとなっています。」


板倉さんが虹の色について考えるようなきっかけになったのは、1978年から79年にかけて「日高敏隆・村上陽一郎・桜井邦朋・鈴木孝夫という、当時の日本を代表するような指導的な4人の学者が、ほとんど時を同じくして、「アメリカでは虹は六色と言われている」ことを報じていた」からだった。

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by ksyuumei | 2007-02-14 09:53 | 誤謬論

『下流志向』が指摘する隠された真理

内田樹さんの『下流思考』が指摘する、今までの常識とは違う、かえって反するような事柄を考えてみたいと思う。子どもたちが勉強をしなくなったと言うことや、若者があまり仕事に関心をもっていないように見えることに対して、世間の見方というのはもっぱら子どもや若者の心の問題に帰しているように感じる。

勉強をしない子どもや仕事をしない若者は、心がけが悪いと言うことだ。それは道徳の問題であり、規律を確立し厳しくすることによって問題が解決するのではないかと考えている大人(これは大部分が男ではないかと思うのだが)が多いのではないだろうか。教育基本法の「改正」や、教育制度の改革などは、このような方向での発想から考えられていることが多いように感じる。

それに対して、そのような処方箋はほとんど効果を持たないと内田さんは語っている。子どもや若者の問題は、各個人の心がけの問題ではなく、社会という大きな単位に根本的な問題が起こっているのであり、制度あるいは公的な意識を変えない限り、いくら個人に働きかけても効果は薄いと主張している。

これは数学系の発想に近い問題の捉え方だ。数学系では、社会現象のようなものには統計的なセンスで考えようとする。自然科学の対象に対しては、理想状態を設定して、現実の末梢的な部分を捨てて理論化しやすい単純な対象を設定することが出来る。自然科学は、もともとが単純化して本質を求めるところがあるのでそのような手法が使われる。しかし、社会現象のように複雑なものは、捨象の仕方を間違えれば、それはまったく対象が違うものになってしまい、求められた結論が役に立たないと言うことがおこってくる。単純化が簡単には出来ない。

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by ksyuumei | 2007-02-13 10:02 | 内田樹