<   2007年 01月 ( 30 )   > この月の画像一覧

「ファシズム」概念を抽象する 1

『ファシズム』(アンリ・ミシェル著・文庫クセジュ)という本をヒントに、「ファシズム」の概念が出来ていく過程を考えてみたいと思う。概念というのは、思考を進める出発点になるものだ。たとえば数学などで、「偶数とは2で割り切れる整数のことである」と定義して、偶数の思考を進める場合など、「偶数」という言葉を見たら、この性質を満足する対象なのだと言うことで思考を進めていく。

同じように、「ファシズム」と言うことについて思考を進めようと思ったら、まず「ファシズム」と言うことがどういうことなのかを知らなければならない。これがありふれた、誰もが共通に持っている概念ならば特に説明することなく思考を進めていく。だが、どこかで概念の共通性が崩れそうな部分があれば、そこはどのようなものかというのを事前に説明しておかなければ論理の展開が違うものとして受け取られてしまうだろう。

『日本ファシズム史』(田中惣五郎・著、河出書房新社)という本の冒頭には、「ファシズムとは、資本主義社会が、没落の断崖に立ったとき試みる独裁の一つの形態である」と定義されている。これは、抽象の過程を省いて、抽象の結果としての定義を語ったものだ。この定義に対して異論があるかも知れないが、この本で展開する「ファシズム」の概念は、この定義に書かれているものとして考えるのだ、と言うことをここでは宣言している。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-08 15:09 | 雑文

「ファシズム」について考える--特に抽象の過程について

「ファシズム」の概念やイメージについては専門家でさえも一致したものがないそうだ。これは現実を対象にした考察ではしばしばそういうことが起こるのではないだろうか。現実からある概念を抽象するとき、その対象をどういう視点から見るかで抽象の過程が違ってくる。この違いは概念の形成やイメージの全体像に反映してくるだろう。

「言語」の概念も三浦つとむさんとソシュールの間には大きな違いがあるように見える。これは、どちらが正しいという問題ではなく、何を解明したいかという目的の違いが、対象に対する視点の違いに結びつき、それが抽象(何を引き出すか?)=捨象(何を捨てるか?)というものに結びついて、それらが概念やイメージの違いに結びついてくるものと思われる。

具体的な言語現象において、直接は伝わらない、言語表現の背後に隠されている人間の認識がどうして他者に伝わるかというメカニズムを解明したいという目的であれば、三浦つとむさんが定義する「言語」の概念がふさわしいと思われる。ソシュールについてはあまり詳しくは知らないのだが、内田樹さんが引用して語る内容は、世界を認識する際に世界のとらえ方に言語がどのように有効に働きかけているかという、言語によって人間の世界が広く深くなっていくメカニズムを考えることが多い。そしてその際には、ソシュール的な思考がふさわしいように僕は感じる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-08 11:11 | 雑文

組織のタコツボ化の問題とイメージの一人歩きの問題

丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)には「思想のあり方について」という文章がある。これも講演記録を起こしたような文章で、平易な語り口で書かれたものだ。そこでは最後に、当エントリーの表題に書かれたような「二つの問題に焦点を置いてお話をした」と語られている。この二つの問題の語り方からも、僕は丸山真男の一流性を感じ取ることが出来る。

丸山は、この文章をイメージの問題からまず語り始めている。それは、人間の思考が実像よりもイメージを基に展開されているという指摘から始まる。これは思考というものの本質を捉えたものではないかと感じる。実像を直接捉えるものは感覚と呼ばれているものだと思うが、この感覚が行動に直結するのが、刺激を反応に短絡させる動物的な判断ではないかと思う。それに対して、感覚をいったんイメージとして蓄積し、そのイメージを加工してそこから論理的な結論を引き出すのが、人間的な判断の仕方ではないかと思われる。

丸山は、イメージというものは「人間が自分の環境に対して適応するために作る潤滑油の一種だろう」と言っている。人間は環境を受け取るだけではなく、そこに働きかけて利用することが出来る。そこに思考という働きかけがあるのだが、その思考の基になるのがイメージであり、それは「他の人間あるいは非人格的な組織の動き方に対する我々の期待と予測」につながっていく。「期待と予測」は感覚から直接もたらされることはなく、思考を経て論理的な帰結としてもたらされる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-07 12:15 | 雑文

丸山真男の見事な弁証法論理の展開

僕は丸山真男という人の文章を詳しく読んだことがなかった。何となく時代の違いを感じていたことと、古典と呼ぶほどの存在にも感じなかったので、より問題意識が重なる現代的な宮台真司氏などの文章に親しんでいた。丸山真男に関しては、宮台氏が高く評価している人物なので、あまりよくは知らないが、宮台氏に対する信頼感から、一流の学者であることは確かだろうというイメージだけは抱いていた。

しかし、丸山真男を低く評価する人もけっこういるらしいことに気が付いた。たとえば「日本には「ファシズム」はなかった」などというページを見ると、


「ただ明治以来何とも正体の知れない「右翼」という「暗黒な勢力」があった。それは一度も政権を奪取することなく、しかも軍部を動かし軍部と結んで「満州事変」と「日支事変」をおこし、ついに大東亜戦争を開始した。「この点ファシズムに似ているようで似ていないが、似ていないようで似ている」という、わかったみたいでわからない論証が丸山学説である。」


と言うような記述が見られる。また、丸山の亜インテリ論については、大衆蔑視のエリート主義だという批判もあるようだ。「ファシズム論」に関しては、どうも上のような批判は、「ファシズム」の概念が違っているところから出てくるような感じがする。これはもう少し「ファシズム」に関して調べてからよく考えてみたいと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-06 12:45 | 雑文

発想法と科学

三浦つとむさんに『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)という本がある。三浦さんは弁証法を「科学」と捉えていたのだが、これを板倉さんは批判していた。板倉さんの定義では弁証法は「科学」ではないからだ。

板倉さんは、最初はこの表題を比喩的な表現だと思っていたようだ。弁証法は「科学」ではないが、「科学」の持つ真理性を、嘘やデタラメではないことと言うような比喩的な意味で受け取って、弁証法も嘘やデタラメではなく真理を語っているのだという意味でこの表題がつけられていると思っていたようだ。

しかし、後によくよく考えてみると、三浦さんは本当に弁証法が「科学」だと思っていたようにも感じていたようだ。これは「科学」というものの定義が違い、「仮説実験の論理」によって検証されたもののみを「科学」と呼んだ板倉さんとは判断が違ったようだ。三浦さんは、社会科学は基本的に「仮説実験の論理」には馴染まないと感じていたのかも知れない。だから、よくよく考えて論理的な齟齬を起こさなければ、それは真理として通用すると思ったのかも知れない。そのような真理を「科学」の中にも入れていたのではないかと感じる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-05 10:05 | 科学

民主党提案の「日本国教育基本法」案 考察3

民主党の「日本国教育基本法」の考察を続けたいと思う。「日本国教育基本法案 解説書」に書かれている第四条(学校教育)から見ていきたいと思う。

ここで目に付くのは、「日本に居住する外国人」という記述があることだ。教育の現場にあまり詳しくない人は、いまの学校教育において外国人生徒の問題がかなり深刻なものになっていることを知らない人が多いかも知れない。

国際結婚が増えていく中で、母親の再婚によって呼び寄せられる子どもたちの数が増えてきたことが、小・中学校において外国籍生徒が増えてきた原因だろうと思われる。国際結婚によって日本で生まれ育った子どもたちは、家族にとっては様々な問題がまだあるだろうが、学校にとっては少なくとも日本語の問題は生じない。だが、呼び寄せられた子どもたちは、全く日本語を知らずにいきなり学校に入ってくるので、日本語の問題が非常に深刻なものとして生じてくる。

習慣の違う外国で、全く日本語を知らない状態で孤立している子どもたちは、学習の支援はもちろんのこと、そのような不安な心のケアも重要なものになる。しかし、今の小・中学校においては、彼らに対して十分な支援が行われているとは言い難い。財政難の問題もあり、東京都の区によっては、いままで彼らのために日本語の支援を行っていた日本語学級を縮小しようという反対方向に行政がシフトする場合さえある。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-04 10:02 | 教育

不可知論と物自体

「不可知論」というものを、認識には限界があることを主張するものだと定義している人がいるかもしれない。「〝学習通信〟040710 ◎「ほんとうのことは分からない」……。」には次のように書かれている。


「不可知論の考え方
 「私たちの知識に原理的に限界がある」という考え方は、哲学では「不可知論」という言葉で呼ばれます。この言葉を文字どおりに読めば、「知ることができない」論です。私たちはたしかにさまざまなことを知ることができるが、私たちの理性にはこれ以上超えることのできない境目があって、そこから先は、どうあがいても、人類史がどんなにすすんでも、人間の英知がどれほど発達しても、越えることはできないのだ、というのがその考え方です。」


「不可知論」というものが、上の定義にとどまる限りでは間違ったことは語っていない。現実の多様性の全てを把握することは出来ない、実無限を完全に理解することは出来ないのだという点で、我々の認識には限界があるというのは同意できる。しかし「不可知論」の主張はここにとどまってはいない。この限界が存在すると言うことから次のような論理を展開させると間違いに陥る。上のページにはこのように書かれている。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-03 09:28 | 哲学一般

歴史とは何か

なみふくくんから「亜インテリ論にまつわる様々な抜粋・覚え書き」というトラックバックをもらった。僕は、亜インテリが悪いというような道徳的な主張をしているのではなく、亜インテリが権力に近づき、権力を握って真のインテリを追い出すという構造に問題があると思っている。

亜インテリと真のインテリに対して、大衆が妥当な判断をしていれば、亜インテリが簡単に権力を手にするということはなくなるだろう。またインテリ予備軍が、真のインテリに対するリスペクト(尊敬)の方向へ行き、代替的な権力志向を持つような亜インテリにならなければ、問題のかなりの部分が解決できるだろうと思っている。

このような方向への解決は大部分が教育の力に依存するものだろう。暗記量の多さのみが高い学力として評価されるような教育制度の下では、亜インテリと真のインテリの区別をつける力を養うのは難しい。亜インテリの方が、むしろいまの学校教育制度の下での優等生が多く、記憶量では真のインテリをしのぐ可能性さえあるからだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-02 10:03 | 科学

不可知論の間違い

不可知論とは、辞書的には次のように説明される。


「哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。」


これは僕は間違った考えだと思っている。なぜなら、この考え方を肯定すると、科学が仮説に解消されることが正しいという結論が導かれてしまうからだ。科学を検証する実験で確かめることが出来るのは、現実の経験的事実の確認であって、それから抽象された法則が確かめられているのではない、とする考えがこの不可知論に通じる考え方だろう。

科学法則は、言葉の上では全て(任意)の対象について当てはまるので、超経験的なものだと考えられる。これは存在はするかも知れないが、現実存在としての人間には決して捉えることが出来ないとすれば、それはいつまでも仮説にとどまると言うことになるだろう。もし不可知論が正しいとするなら、このような科学を仮説に解消する考えも、それに符合するのであるから正しいと言うことになってしまう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-01 22:22 | 誤謬論

ファシズムの概念

pantheran-onca さんが「2006年12月24日 バックラッシュの奥に潜むものと丸山真男」というエントリーのコメント欄に書いた「丸山が戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定したこと」が間違いだったと言うことは、「南京大虐殺があったか無かったか」という対立によく似ているような感じがする。

「南京大虐殺」という事件については、「大虐殺」という曖昧な言葉をどう定義するかで、あったかなかったかという判断が違ってきてしまう。問題は、この言葉を厳密に定義して、事実がそれに合致するかで判断しなければならないのだが、対立する双方が同意するような定義は見つからないのではないかと思う。宮台真司氏も、どこかで「南京大虐殺はなかった」というような発言をしていたように記憶している。このことの意味は、世間で流通しているようなイメージでの「南京大虐殺」はなかったという意味なのではないかと僕は思っている。

言葉とそれが指し示している概念とは、唯一に決まるわけではない。「南京大虐殺」という言葉が、具体的には何を指しているかは、それを使う人によって違ってくる可能性が出てくる。そして違った前提で結論を引き出している論理は、論理としての正当性を持っているにもかかわらず、言葉の上では全く反対の結論を出すこともある。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-01 13:38 | 雑文