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正義の実現と権力

権力というものを抽象的に考察していくと、それが合理的に機能しているときは、われわれはほとんどその存在に気が付かないのではないかと思う。権力がうまく機能していると、われわれはそれを気にする必要がないほど安定した社会が営まれているといえるだろう。

われわれが権力を意識し、権力に注目するのは、たいていが権力がうまく機能していない・合理性を失ったときではないかと思う。だからこそ、権力というものは、われわれを弾圧するだけの悪い存在だという感じがしてくるのではないだろうか。合理的に機能していない現存する権力と、合理的に機能する抽象的な権力とを区別しなければならないのではないかと思う。

抽象的に捉えられた権力は、ある意味では理想的な権力であって、そんなものは現実にはないというふうに簡単に捨てられてしまうかもしれない。それが現実にはありえないことは確かだが、理想的な権力というのは、現存する権力がどれだけ合理的に働いているかの判断基準を与えてくれる。そのような見方が大事ではないかと思う。

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by ksyuumei | 2007-01-18 09:36 | 雑文

抽象的対象としての権力と現実の統治権力

学問と呼ばれる種類の理論や科学的思考において対象として設定されるものは、ほとんどが何らかの抽象過程を経て得られるものだ。現実に存在しているものがそのまま対象になることはない。現実の対象は、抽象的対象を理解する助けとはなるが、それをそのまま受け取ると抽象的な推論において間違った展開に陥る可能性がある。特に、現実を対象とした学問・科学においてその恐れが大きい。

数学などは、その対象が抽象的なものであることが明らかなので、抽象が現実に引きずられることは少ない。数学的対象は、そのままの形では現実に見つけることができないからだ。数学の場合は、むしろこの逆の現象が起きる。現実の対象に抽象性を押し付けるという、実際には成立しない性質が、そこにあるかのような錯覚を起こす。

たとえば、仕事算などという文章題では、ある人の仕事が10日で終わるなら、1日にこなす仕事は正確に1/10という抽象をする。しかしこんなことは現実にはありえない。仕事の質によって、1日にこなせる量はランダムな分布をするのが現実だ。もし正確に等分されるなら、人数さえ多ければその仕事は1時間ほどで完成するというような論理的結論さえ導かれてしまう。

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by ksyuumei | 2007-01-17 09:43 | 雑文

優等生病・一番病と亜インテリの関係

宮台真司氏が「学生諸君が考えるべきこと~宮台真司インタビュー[中編]」の中で語るところによれば「優等生病」とか「一番病」とか呼ばれるものは次のようなものになる。


「対米自立を長期的目標とした途端に、少なからぬ官僚は、「一流国における三等官僚になるか、三流国における一等官僚になるか」という「究極の選択」の場面に立たされ、多くが迷いなく後者を選ぶということです。これぞまさしく売国奴官僚です。
 この売国奴的メンタリティを、昔は竹内好が「優等生病」と呼び、今は鶴見俊輔が「一番病」と呼びます。僕の十年以上前の言い方では「受験エリート病」です。受験エリートは受験システムが無いと困ります。だから受験システムを廃止するような改革には、実存的にも利権的にも抵抗するわけです。この脆弱な者どもを、さてどうするか、です。
 こうした脆弱なる「優等生病」「一番病」「受験エリート病」を患うような者どもしかいないのなら、冷戦体制終焉後の日米関係の見直しを、対米ケツ舐め外交の永続「ではない」方向で行うことはできません。こういう病気を患っていないエリートを養成することが、僕が長年教育システムの改革に携わってきている目的です。」

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by ksyuumei | 2007-01-16 09:53 | 雑文

権力のもつ有効性

現在の日本の社会状況は、規律の乱れや道徳の荒廃が指摘されることが多いのではないだろうか。学校においても、学力の低下や、自由が放縦の様子を見せるなど、いわば勝手なふるまいをする子供たちを育てているように見える。かつての日本では、人々はもっとまじめな生活に価値観を抱いていたし、学校でも子供たちは秩序に従う生活をしていた。

これは、かつての日本人のほうが道徳的に優れていたことを意味するのだろうか。あるいは、かつての教員のほうが子供の指導力が高かったので、秩序を確立することができたのだろうか。これは、そう思いたい面もあると思うが、本質的には「近代過渡期」が「近代成熟期」になったということがこのような変化をもたらしたのではないだろうかと僕は感じている。

「近代過渡期」の学校教育は、宮台氏が指摘するように、監獄と軍隊を手本としていた権力的な押し付けを基本としていたと思う。戦後民主主義は民主的な教育を実現したと言う面もあるだろうが、基本的にはそれは戦前とつながっている権力的な押し付け教育だったのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2007-01-15 09:26 | 雑文

個人の自由を支える国家の権力

『自由とは何か』(佐伯啓思・著、講談社現代新書)という本に大変興味深い記述があった。そこでは3年前のイラク人質事件に関連して、自らの自由意志でイラクに行った彼らの責任が、意志の「自由」というもので論理的に導出できるかと問いかけていた。

佐伯さんは、彼らがたとえ自分の意志で、国家の勧告に反して行ったとしても、どのような事件に巻き込まれようと自業自得で放っておいてもいいのだということにはならないという。近代国家には国民を守るべき責任があるというのだ。彼らがある意味では勝手に行ったのであろうとも、彼らの危機に対して国家はそれを救うのに全力を尽くさなければならない責任があるという。近代国家(民主主義国家ということだろうか)はそうでなければならないということだ。これは僕もそう思う。

これは感情面で同意できるというだけではなく、民主主義というものは、そのような原則を基礎にしなければ国家の安定が得られないのではないかと思うので論理的にもそうでなければならないと思う。もし国家が、守るべき国民と見捨てる国民を差別するようになったらどうなるだろうか。それは、国家を支える国民と、国家を支える必要のない国民を分けることになる。すべての国民が国家を支えるということではなくなる。これは民主主義というものの否定にならないだろうか。

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by ksyuumei | 2007-01-14 23:25 | 雑文

近代過渡期・近代成熟期と自由の問題

宮台真司氏が「連載第7回 選択前提とは何か」の中で「自由」について記述している。この「自由」は「意志の自由」であり、いくつかの選択肢がある中で、その中のどれを選んでもいい・「自由」にどれかを選べるという意味での「自由」だ。

面白いのは、この「自由」が実現できないと言う「不自由」の問題を考えると、そこで起きてくる「不自由感」が、「近代以前」「近代過渡期」「近代成熟期」にそれぞれ対応した特徴を持っていると言うことだ。つまり、「自由」の問題を考える上で、「近代成熟期」という概念は非常に役に立つのではないかと思えるところだ。

「自由」は「放縦」につながるというイメージがあって、「自由」というものは保守勢力にはすこぶる評判が悪い。教育が乱れているのも、無制限の「自由」が許されているからだと考える人もいる。「自由」は「義務」とセットにされるべきであり、「義務」を果たした人間だけが「自由」を行使する権利を持つのだと考える人々もいる。

一方では、基本的人権として認められている「自由」は、それを行使するものが一人の人間であると言うことから認められている「自由」であり、人間ならば誰でも所有する権利であるから、ある意味での無制限の「自由」だと言ってもいいものだ。この場合の制限や義務の問題は考え始めるとけっこう難しい。

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by ksyuumei | 2007-01-13 10:30 | 雑文

社会における「法」の本質を考える

宮台真司氏が「連載第二〇回:法システムとは何か?(上)」の中で「法」というものを語っている。この定義も、日常感覚からするイメージから言うと少しかけ離れているように見えるが、社会というシステムを理解するには有効性を感じる定義になっている。

宮台氏が語る定義をそのまま受け入れるというのは、何か定義が天下って無反省にしたがっているように見えるかも知れないが、学習というものはそのような形で始めなければ出来ないものではないかと思う。宮台氏の定義は、宮台氏の長く深い考察の結果として得られたものだとしても、それと同じだけ長く深く考えなければ見出せないとしたら、宮台氏と同じ能力を持たない人間にはその定義は見出せなくなってしまう。

実際には優れた人間から学ぶことによって、かなり難しい・自分一人では見出せないようなことも理解することが出来る。科学の歴史というのはまさにそうだっただろう。科学というのは他者が学ぶことを可能にしたので、誰かが到達した地点から次のステップへ進むという進歩の歴史をたどることが出来た。いつでも全くゼロから始めなければならないとしたら、真理の認識は特に優れた人にしかできないことになる。

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by ksyuumei | 2007-01-11 09:55 | 雑文

ある目的を持った言葉の定義

宮台真司氏が「連載第一八回:宗教システムとは何か?(上)」の中で宗教を「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能(を持つ装置の総体)です」と定義している。これは、一般的に考えられている辞書的な定義とはかなり違うのではないだろうか。

宮台氏は、この定義を社会学という学問を説明する「入門講座」の中で語っている。日常的な出来事を語るエッセイの中で「宗教」を語っているのではない。ということは、この定義は社会学という学問の中で「宗教」を考察するのに有効であるように工夫された定義になっているはずだ。

宮台氏が、どのような意図で「宗教」をこのように定義しているのかを考えてみようかと思う。それが分かるようになれば、学問的な考察における定義の仕方というものが理解できるかも知れない。宮台氏は何故に「宗教」を上のように定義したのか。その理由が分かれば、「ファシズム」という言葉の定義をするときも、どのような理由でどのように定義することがふさわしいかと言うことが分かるようになるかも知れない。

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by ksyuumei | 2007-01-10 09:05 | 雑文

3年という微妙な時間の経過に時代の差を感じる

内田樹さんの「「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読む」というエントリーを見て、「3年」と言うことが印象に残った。個人的な経験から感じるものでは、僕が職に就いた26年前は、3年勤めればあとはいくらでも勤められたという感じがしたからだ。

3年というのは仕事に慣れるのに必要な時間でもあった。その3年が、今の時代は辞めることを決断するのに必要な時間になっていると言うことに時代の差を感じる。実を言えば僕も仕事を辞めて他の職業を探そうと思ったことがある。しかしそれは仕事についてすぐにそう思った。

仕事について、自分はその仕事に向いていないとか、仕事に就く前に抱いていたイメージと違う(端的に言えば理想とは違うと言うことだろうか)と言うことはよくあることだろう。僕と同期に新規採用された教員は、その地域では16人いたが、3年以内に8人が辞めた。辞める理由はいろいろあったようだが、最も早い人間は半年で退職した者がいる。彼は辞めて俳優になるためにどこかの劇団に入ったと言うことを聞いた。彼は、理想と違う現実を拒否して理想に向かって進むことを決断したのではないかと感じたものだ。

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by ksyuumei | 2007-01-09 09:56 | 雑文

理論構築における抽象(=捨象)--何を目的として何が引き出され、何が捨てられるのか

わどさんから「「成熟社会」論の震源地/批評」というトラックバックをもらった。トラックバックをもらった僕のエントリーは「成熟社会にふさわしい教育とは」だ。

ここで書かれているわどさんの感情的な思いというのは理解できる。「近代成熟期にはいると、物が豊かになり、長時間労働をしなくてもすむようになる」という表現に対して、未だに長時間労働に従事していて、しかもその労働に使命感を感じることなく「苦役」という感覚しか持てなかったら、現在が「近代成熟期」であるという判断そのものに異議を唱えたくなるかも知れない。

しかしこのような異議を唱えることは、社会全体を「近代成熟期」と判断しなければいけないイメージ(抽象化)が、自分の周りの生活実態というイメージの壁によって邪魔されることにならないだろうか。両者は抽象化のレベルが違うのだと思う。

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by ksyuumei | 2007-01-08 21:39 | 論理