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歴史の本質を理解するための「よい先入観」

図書館で小林良彰さんの『複眼の時代』(ソーテック社)という本を借りた。これは昭和51年(西暦1976年)に出版されたものだが、今読んでも新鮮さを感じるすごい本だと思った。この時代にこれだけの本を書いていたのに、板倉さんが小林さんを知ったのは1985年のことだった。ここにかかれている小林さんの主張も、ほぼ板倉さんのものと重なるように思えるのに、板倉さんの目にとまることがなかったのだ。

小林さんの知名度はそのくらいこの当時は低かったのではないかと思う。小林さんは、時代の先を行き過ぎていたのではないかと感じる。この当時に正当な評価を得るには、その主張があまりにラジカルでありすぎたのではないだろうか。そして、今でもそれほど有名になっているようには見えない。小林さんの主張がごく当たり前のようになっているとは思えないのだ。

しかし僕には、小林さんが言うことのほうが本当だという確信のようなものを感じる。これはいったいどこからくるものなのだろうか。かつて「新しい歴史教科書を作る会」では、歴史は物語であって科学ではないと主張した。そのように考えている人は今でもかなりいるのではないだろうか。歴史は立場や国によって違うのが当たり前で、誰もが賛成するような事柄にはあまり価値あることはないと考えているほうが主流なのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2007-01-30 10:29 | 方法論

機能主義について

機能主義については、僕は長い間ある種の偏見を抱いていた。「悪い先入観」を持っていたといってもいいだろう。それは、三浦つとむさんが機能主義に対して常に批判的な見方をしていたからだ。三浦さんは唯物論の立場だから、機能よりも実体の方が基礎的なものだと考える。唯物論の立場からすれば、機能主義は本質を外れるように見えるだろうと思う。

しかし唯物論というのは絶対的に正しいものではない。そのような観点から見れば対象を実体的に把握する際には間違いが少ないという、視点を提出する発想法のようなものと捉えたほうが正しいと僕は思うようになった。あるときには観念論的に見える視点の方が本質を捉えている場合もあるだろうと思うようになった。

現象を観察するときに、そこに実体を把握することが極めて難しい場合がある。たとえば社会というような対象を考える際には、社会そのものは実体としては見えてこない。社会を構成する人間一人一人は実体的に把握できても、その人間が構成する社会というのは、人間の実体的な身体を延長しても解明できることは何もない。

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by ksyuumei | 2007-01-29 10:08 | 方法論

「よい先入観」とは

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんに『近現代史の考え方』(仮説社)という本がある。この中に「明治維新とフランス革命」という文章がある。ここで主張されているのは、「明治維新とフランス革命とは基本的に同一の革命であって、フランス革命は完全だったが明治維新は不完全だなどとはいえない。もし明治維新がブルジョア革命として不完全だというなら、フランス革命もそうだ」というものだ。

板倉さんは、世界史の授業を科学的に考えるにはフランス革命を教えるといいと考えていたそうだ。しかし、フランス革命について「フランス革命の結果、フランスの社会はどう変わったか」ということがはっきりと書いてある本がなかったそうだ。フランス革命は、民主主義へ至る革命として知られているが、恐怖政治をもたらしたり、その後王政復古があったりと、何が革命なのか、何がその成果なのかがわかりにくいというのだ。

それに比べると明治維新は、日本の出来事ということもあるが、それまでの何が否定され、何が新しく興ってきたかというのが分かりやすい。しかし明治維新は、その中で民衆の活躍という場面が見つからないので、何か革命らしくないように見える人もいるようだが、これを革命と呼ばなくて何を革命だというのだろうかというのが板倉さんの感想だったようだ。

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by ksyuumei | 2007-01-28 18:45 | 方法論

著作権はどこまで守られるべきなのか

まだブログが主流になる前に楽天では日記形式のホームページサービスをしていた。僕がそれをはじめたのが2002年の1月だった。かれこれ5年程がたっただろうか。その楽天がまだ日記だったころ、自分のページに貼り付けていた画像などについて著作権法違反を指摘して回ることが流行したことがあった。

これに対して僕はずっと違和感を感じていた。確かにディズニーなどの有名な画像をどこかでダウンロードして自分のページに貼り付けるということは、著作権法の違反になるには違いない。だが、当時は個人のページを持つということに関して草創期であり、よく知らなかったために間違えたという人が多かったのではないかと思う。それを、凶悪な犯罪を犯したかのように糾弾して回る姿にとても違和感を感じたものだ。

もともと著作権法というのは、著作権を侵された当人が告発しなければ有効にはならないそうだ。当人に代わって代行する会社もあるそうだが、まったく関係のない第三者が告発しても仕方がない。だから、著作権法違反に気が付いたときは、糾弾するのではなく、もしそれを知らなかったらこういうものですよと教えてやればいいのにと思っていた。

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by ksyuumei | 2007-01-24 09:54 | 雑文

ナショナリズムの一般的意味と日本における特殊性

宮台真司氏が「宮台真司 週刊ミヤダイ」というインターネット・ラジオの放送でナショナリズムについても語っていた。暮れの最後の放送で語っていたのだが、これも「目から鱗が落ちる」という体験をさせてくれるもので、それまで持っていた先入観に揺さぶりをかけて、もっと役に立つ「よい先入観」を与えてくれるものに感じた。

ナショナリズムは一般論として考えれば、それは必ずしも悪いものではなく、むしろ良いものとして受け止められるものだと宮台氏は語る。それはよく考えてみればそのとおりだということが分かる。ナショナリズムは愛国心とつながるものだが、自分が生まれた国というのは自分で選ぶことが出来ない。それは自分の親を自分で選べないのと同じだ。

自分が誰の子供として生まれるかは生まれてみないと分からない。そうであれば、親を愛するというのは、自分を生んでくれたという事実からそのような感情が生まれると理解しなければ、何か他の理由で親を愛するなどということでは理解できなくなる。なぜなら、自分がその親から生まれたというのは否定しようがないが、何か他の理由のほうは、それがなかったら親を愛せないのかという否定が考えられるからだ。

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by ksyuumei | 2007-01-23 10:09 | 雑文

歴史観という先入観(価値観を伴った思い込み)

戦争の記憶を語るときに、日本政府の見解が中国や韓国から批判されることがある。これは、被害を受けた人々の見方は、加害の立場での見方とは違うということを物語っているのだが、その際に「歴史認識」とか「歴史観」という言葉で語られている内容はよく考えると難しいものだと思う。

歴史というのは、もともとが過去の出来事をどう解釈するかということがその内容になる。つまり、解釈という点においてはさまざまな解釈が可能になる。正しい歴史解釈などというものは、究極的にはありえない。だから歴史は物語に過ぎないという理解も出てくるのだが、一方では、それぞれが勝手に思い込んだ歴史ではなく、大多数の人が賛成する客観性の程度の高い歴史解釈もある。

事実を確定することの難しさは、裁判などで物的証拠が見つからないという難しい場面で想像することが出来る。しかし、一方ではそのような難しい裁判はごくわずかで、たいていの裁判は簡単に結論付けられた事実によって判断される。裁判における事実の確認は、ごく短い間の歴史を確認していると考えれば、歴史においても確定が難しい事実と、確定が比較的容易に出来る事実とがあると考えたほうがいいのではないか。

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by ksyuumei | 2007-01-22 09:57 | 雑文

ホワイトカラー・エグゼンプションにおける日本固有の問題

宮台真司氏が「宮台真司 週刊ミヤダイ」というインターネット・ラジオの放送で「ホワイトカラー・エグゼンプションで得をするのは?」ということを語っている。これを聞いて、僕は、ホワイトカラー・エグゼンプションというものの本当の意味をようやく理解することが出来た。

ホワイトカラー・エグゼンプションというものが、今の日本では、残業代を払わなくてすむことを合法化するようなお話にならないものだということは、多くの批判者が語っていることだ。そしてそれは、宮台氏も正しいと語っている。

今の日本企業における残業の実態は、仕事の能力が低いために時間内に収めることが出来なくて残業が発生するというものではない。基本的に仕事量が多すぎて、それなりの能力で労働時間内の努力をしても、その時間内でこなせる量ではないために残業を必要としているものだと考えられる。

ホワイトカラー・エグゼンプションを実現するのなら、まずそのような仕事の実態を改正して、通常の仕事は一定の能力さえあれば労働時間内に終わらせることが出来るというふうにしなければならない。このような基本的な条件があれば、忙しいときには多少残業をしたとしても、その分をひまなときに穴埋めできればいいということになる。これまでの制度では、そのような配分を自分で行うことができず、たぶん上司の配慮で行っていたのだと思うが、ホワイトカラー・エグゼンプションによって自分の裁量で行うことが出来るようにするというのが、名目的には導入の正当性だろうと思う。

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by ksyuumei | 2007-01-21 18:45 | 宮台真司

宮台真司氏の『権力の予期理論』(勁草書房)を読む 2

宮台氏の権力の定義は非常に抽象的なものである。それは、現実の権力のイメージに引きずられると、その正しい概念を持つのに失敗する。数学における定義に近いものを感じる。

数学では自然数といえば、物を数えるときに使われる数のことを指す。自然数という概念を抽象するきっかけとして、現実の具体的な物と、それを数えるという行為から具体性が捨象されて抽象されていったことだろうと思う。自然数をはじめて学ぶ子供たちは、このような歴史的な発展の過程を追うことでゼロから概念を作り出すという経験を基にその概念を獲得していくだろうと思う。

しかし、数学の理論としての自然数の概念は、ペアノの公理系に見られるように、ある種の条件に当てはまるものを自然数と呼ぶようになる。これは、理論においては、現実の具体性に引きずられて偶然的で例外的なものが入り込まないようにするためである。理論というのは、論理的な整合性を持った対象の間に成立する、抽象的な法則性を求めていくものだ。明確に捉えられる対象以外は排除する必要がある。そうでなければ法則性がつかめないからだ。

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by ksyuumei | 2007-01-21 12:39 | 宮台真司

宮台真司氏の『権力の予期理論』(勁草書房)を読む 1

宮台氏の最新刊『宮代真司ダイアローグズ』(イプシロン出版企画)に、田原総一郎氏との対談が収められている。田原氏は、ジャーナリストとしては時に疑問符を感じることがあるのだが、ここで語られている宮台氏への観察眼は鋭いものがあるのを感じる。田原氏は次のように語っていた。


「宮台さんの文章を読みますと、まるでロシア語をフランス語で通訳してもらってるみたいで、もう一度通訳がないと分からない(笑)。」


宮台氏の文章の難しさのニュアンスがよく伝わってくるような表現だ。宮台氏の文章が難しいという感覚は、僕だけのものでなく、田原氏ほどの優れた頭脳の持ち主でもやはり難しいのだということがわかると少し安心する。

田原氏が語るように、宮台氏の文章というのは、最初読んだときには、日本語として辞書的な解釈は出来るもののそれは何かの翻訳文のように意味を書き写しただけの外国語のような感じがしてさっぱり分からないという感じがする。だが、そこに書かれていることに何か宝が隠れていることは感じるので、最初は理解が難しくても、何度もそこに帰ってきて何とか理解しようという動機は失うことはない。

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by ksyuumei | 2007-01-20 10:37 | 宮台真司

権力に対する誤解 -- 特殊性と普遍性を取り違える誤謬

宮台真司氏が『権力の予期理論』(勁草書房)の序章「社会理論が権力概念を要求する理由」の終わり近くに次のようなことを語っている。ちょっと引用しよう。


「第1に、権力と自由とは対立するどころか、権力は自由を要請している。自由を賞揚するためには権力を批判しなければならないとするリベラリストの言説には問題がある。自由こそは、権力を呼び寄せる依代である。この命題のコロラリーだが、権力=悪しきもの、という一般図式は、図式の提唱者がリベラリストであればあるほど、問題的である。「権力なき自由」を構想できるとする発想は甘い。自由は必ず権力を招き寄せる。
 第2に、複雑な社会が諸身体を拘束する高度な超越的審級(道徳など)を要請するとする把握も誤りである。権力工学に基づいて必要な選択連結を供給できれば足りる可能性があるからだ。この命題のコロラリーだが、高度な資本制による道徳的な基礎の破壊を、社会システムの自己破壊に直結させるヒューマニストの議論にも問題がある。高度な資本制は、権力を媒介とするその高度な自己準拠によって、そうした道徳的な基礎を代替し、不要にしてしまうからである。」


「「権力なき自由」を構想できるとする発想」や「複雑な社会が諸身体を拘束する高度な超越的審級(道徳など)を要請するとする把握」の誤解というものは、僕も以前そういうものを抱いていたように感じる。権力は自由にとって、それを邪魔する存在であるようなイメージを持っていた。また、社会が正しく運営され安定するには、正義の実現というような道徳的な基礎がなければならないというイメージも持っていた。

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by ksyuumei | 2007-01-19 09:44 | 誤謬論