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『ネット時代の反論述』(仲正昌樹・著、文春新書)

仲正さんの新しい本を買った。僕が仲正さんを知ったのは、宮台氏と対談をしていたのを読んだり聞いたりしたことが最初だった。宮台氏に対しては、これはすごい人だと感じてから、その言説をもっと知るにつけその印象が強まっていくのを感じている。宮台氏の言い方を借りれば、すごさに感染しミメーシスを感じると言うことになるだろうか。

その宮台氏との対談と言うことで関心を持ち、その語るところに共感するところが多かったのが仲正さんだった。宮台氏にはすごさは感じるのだが、親近感は感じない。それに対して、仲正さんには共感と親近感を感じる。これは内田樹さんに感じるものと似ているような気がする。宮台氏が語ることからは、「目から鱗が落ちる」というような新しさをいつも感じるのだが、仲正さんや内田さんが語ることからは、「ああ僕も前からそう思っていた」というようなことを改めて適切な表現をしてもらって確認するというような感じがしている。

仲正さんや内田さんの表現には、ナイーブなベタな表現と言うよりも、皮肉っぽくネタで語ると言うところがある。そのあたりも何か共感し好きなところだ。これはigelさんがコメントの中で書いてくれたことにも通じるのだが、「この種のアイロニカルな矛盾に満ち溢れているのがわれわれの生きる社会というものの本質的な姿なのであり、それをどう扱えるかが論理には問われていると思います」と言うことを知らせてくれるものとして、特に僕の気に入るような表現になっているのではないかと感じる。

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by ksyuumei | 2006-12-13 09:46 | 読書

「バカ左翼」と「バカフェミニスト」と「バカ右翼」の関係について

「バカ左翼」「バカフェミニスト」「バカ右翼」という言葉についている「バカ」という言葉は、非常にインパクトの強い響きを持っているので、それだけで反発を感じてしまう人がいるかもしれない。だが、内藤朝雄さんや宮台真司氏が語る意味での「バカ」とは、単純な「愚かさ」を指しているのではないような気がする。つまり、あいつは「バカ」だと言って切って捨ててそれですむような存在として考えているのではないような気がする。

これらの「バカ」という形容詞をつけて呼ばれる存在の一番の問題点は、本人の善意にもかかわらず、それが戦略的に利用されて結果的には敵を利することになるという点にあるのではないかと思う。そして「バカ左翼」と呼ばれる人たちは、決して単純な意味で「愚か」ではないからこそ利用価値があり、敵を利するに効果的に働いてしまうのではないかと思う。

このような意味で「バカ」という言葉の意味を感じたのは、今週配信されたマル激での教育基本法「改正」問題と愛国心問題を聞いたからだ。マスコミの報道や、左翼の運動に関するものでは、教育基本法「改正」の問題は愛国心の問題が一番大きなものとして宣伝されているように見える。ほとんどそれのみが問題ではないかという過剰な反応のようにも見える。

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by ksyuumei | 2006-12-12 10:16 | 雑文

「仮言命題」には限界があるか?

瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに関する最後の雑感として論理や仮言命題の「限界」あるいは「不完全性」について考えてみようと思う。結論から先に行ってしまうと、「仮言命題」というものを、命題論理・あるいは述語論理の範囲で考えるのならば、その論理世界の中では限界もないし完全なものであると僕は考えている。

限界が生じるのは、論理世界から外に一歩を踏み出して、論理を適用する世界を広げたときに、適用に限界が出てくると言うことが起こる。つまり、適用出来ない対象に「仮言命題」で表現されている論理を適用してしまったという誤謬が生じる可能性があるだろう。

もう一つの不完全性というのは、論理を適用する世界の無限性に関わって、対象の属性の無限性が把握出来ない側面において、論理だけでは結論が出せないような事柄が発見出来て、その部分では真とも偽とも結論出来ないと言う「不完全性」が発見出来ると思う。

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by ksyuumei | 2006-12-11 10:37 | 論理

「因果関係」は客観的属性ではなく主観的判断である

瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている「因果関係」というのも気になるものの一つだ。瀬戸さんは因果関係については詳しく語ってはいないが、これは仮言命題と深く関わっていると僕は理解している。

あまりはっきりとは覚えていないのだが、ヒュームは因果関係の存在を否定したと記憶している。これは、それを実体として存在すると考えるのなら、否定されるべきだろうと僕も思う。つまり、因果関係というものを物質の属性として捉えようとすると、そんなものは存在しないと言わないわけにはいかないだろうと思う。関係というのは実体ではない。あくまでも人間の認識の中に存在する、もののとらえ方の方を指す。だから、それが物質の客観的なあり方だと思ったら間違えるだろうと思う。

その意味で瀬戸さんが語る「原因が必然的に結果を引き起こすという関係は存在しない」という言い方は正しい。しかし、ある現象に関して仮言命題が成立する、つまり

  A →(ならば) B

という命題が成立すると判断したら、このときは認識の中に「Aが成立したときは必ずBが起こる」という判断が存在する。この「必ず起こる」と言うことを「必然性」の定義とするなら、AとBの間には「必然性」が存在すると認識していることになる。そして、この「必然性」を、AとBとの「因果関係」だと定義すれば、この意味で「因果関係」の認識が存在すると言うことが出来る。

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by ksyuumei | 2006-12-11 08:47 | 論理

方法論批判の危うさ

『バックラッシュ』(双風舎)の中の斉藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という言説における内田樹批判の部分には「方法論批判」というものが含まれている。この方法論批判というのはある種の使いやすさがあるが、方法論というのは全ての言説に適用出来るという面があるので、敵を切った刃が自らをも斬りつけるという危うさを持っている。

斉藤さんは、内田さんに対する批判の前に八木秀次批判も語っているが、これは八木秀次氏の言い方に対する「方法論批判」ではなく、語ったことという客観対象に対する批判になっている。その内容は次のように語られている。


「たとえば同書の共著者である八木秀次がひところ女帝容認論批判に当たって、男系でなければ神武天皇以来の「Y染色体」の系統が絶えてしまうと言う、ほとんど失笑ものの疑似科学的論法を展開した経緯を見れば十分だろう。」


ここで指摘しているのは「Y染色体」というものに関する知識に対してで、その間違いを批判している。内容を十分確かめることが出来ないが、この指摘はおそらく科学的な知識の間違いとして正しいのだろうと思う。調べればどちらが正しいかは決定出来るものだと思う。そして、「バックラッシュ」言説のほとんどは、このように間違いの指摘が比較的簡単に出来るものが多いのだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-12-09 23:36 | 論理

斉藤さんの誤読と内田さんの誤読(「フェミニズム」に対する誤解を誤読と解釈すれば)

『バックラッシュ』(双風舎)という本の中の齋藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という文章に書かれた内田樹批判を考えてみようと思う。これは「誤読」というキーワードで解釈することが妥当なように僕には感じる。

斉藤さんは、内田さんが「フェミニズム」というものを誤読している(誤解、つまり全然「フェミニズム」でないものを「フェミニズム」だと思って、その間違ったイメージに対して批判している)と受け取っているように感じる。それは、内田さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」という文章から次のような判断を引き出していることからそう感じる。


「一読すれば分かる通り、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義でもない。ようは、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正義の人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。
 内田がほぼ田嶋陽子一人をフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とか言っても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。」

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by ksyuumei | 2006-12-09 11:25 | 誤謬論

問題意識と読書

僕はちょっと前に『バックラッシュ』(双風舎)という本を買ったのだが、この中に書かれている多くの言説の中で関心を持っていたのは宮台真司氏のインタビューを綴った「ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道-バックラッシュとどう向き合えばいいのか-」というものだけだった。だから宮台氏のこの文章しか読まなかった。そして他の文章にはほとんど関心を引かれなかった。

これは、宮台氏の文章以外が、何か価値が低いとか、僕が反対の見解を持っていると言うことではない。そこに書かれていることは大部分が正しいのだと思う。専門的なことが書かれているので理解することが難しいこともたくさんあるが、それが大部分正しいであろうと言うことは伝わってくる。だが、その正しいだろう文章を、苦労してでも理解したいという意欲がわいてこないのを感じる。

宮台氏が語ることは、ここに含まれた文章の中でもピカイチに難しいものだろうと思われるのに、この文章だけは何度読み返してでもいいから少しでも深く理解したいという熱意がわいてくるのを感じる。この差は、たぶん問題意識の違いから生じるものではないかと僕は感じる。

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by ksyuumei | 2006-12-09 00:13 | 読書

「仮言命題の限界」というエントリーに関する雑感 2

瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている仮言命題の真理性について気になる記述があったので、それについて考えてみようと思う。瀬戸さんは、


「前件・後件が真なら結論も真。
 前件・後件が偽なら結論は偽。
 前件が偽でも後件が真なら結論は真。
 前件が真でも後件が偽なら結論は偽。」


と書いている。仮言命題「AならばB」は、Aを仮定Bを結論と呼ぶこともあるので、これが前件・後件という言い方と紛らわしいところがあるが、瀬戸さんが語る「結論」という言葉は、仮言命題の全体を指しているのだと思われる。そこで上の文章をそのように解釈すると、次のような意味になるだろうと思う。

1 A(真)ならばB(真):仮言命題の全体は真
2 A(偽)ならばB(偽):仮言命題の全体は偽
3 A(偽)ならばB(真):仮言命題の全体は真
4 A(真)ならばB(偽):仮言命題の全体は偽

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by ksyuumei | 2006-12-06 09:04 | 論理

「仮言命題の限界」というエントリーに関する雑感 1

瀬戸智子さんからライブドアのブログエントリーに「仮言命題の限界」というトラックバックをもらった。ここで論じられていることは多岐に渡り、その一つ一つに独立のエントリーが立てられるくらい論理的な問題が多く含まれている。それをすぐに論じるよりも、どこに問題があるかをまとめておいた方が自分でも理解しやすいと感じたので、「雑感」というような題で思いつくことを書き留めておきたいと思う。

まずは、僕が問題があると感じた部分は次のようなものだ。なお、これは瀬戸さんが主張していることが問題だと感じたのではなく、瀬戸さんの文章に触発されて生まれてきた僕の中の問題意識から考えた問題だと言うことを断っておこう。

1 演繹論理と帰納論理の違いとその本質は何か。
2 科学は帰納論理一般の中に含まれるものか。
  科学はあくまでも仮説にとどまるのか、普遍的真理としての資格を獲得するのか。
3 因果関係は仮言命題の中でどのように解釈されるか。
4 仮言命題の真理性
5 仮言命題(推論)に限界があるのか。
  限界があるのは真理を規定する「領域」の方ではないのか。

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by ksyuumei | 2006-12-05 10:30 | 論理

絶対的真理と相対的真理(あるいは絶対的誤謬と相対的誤謬)

エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしている。


「真理と誤謬とは、両極的対立において運動するところ、全ての思考規定と同様、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。これはたった今我々が見た通りである。また弁証法の初歩を、すなわち全て両極対立というものが十全なものでないという、ちょうどそうしたことを扱っているところを少しでも心得ておれば、デューリング氏にもそれが分かることと思う。真理と誤謬との対立を右に述べた狭い領域以外に適用しようものなら、この対立はすぐさま相対的なものになってしまい、従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。だが、もしも我々がこの対立に絶対的な妥当性があるとして、そうした領域以外にそれを適用しようと試みるなら、我々はそれこそ本当に失敗してしまうことになる。対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。」(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理)


これは、三浦つとむさんが語っていた、真理とはその条件によって変わりうると言う考えにも通じる。真理は誤謬に転化するという発想だ。エンゲルスが語る「領域」とは、真理関数の定義域のようなものだ。ある命題が語る言明が、その「領域」の対象のみを語っているときには常に真理となるなら、その「領域」は真理関数の定義域になる。

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by ksyuumei | 2006-12-03 18:50 | 誤謬論