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「論争」の勝ち方

「論争」もどきではなく、一応マトモな「論争」の勝ち方のテクニックとして仲正さんは『ネット時代の反論述』の中でいくつか語っている。これはマトモな「論争」であるから、そこで使われる論理もマトモなものでなければならない。ということは、ある程度論理というものが分かっている人間にとっては、そこで使われている論理に一応は間違いが無いという確認があっての「論争」になる。

かなり複雑な論理になると、その論理展開で間違えるという可能性がないわけではないが、そういうものはふつうは「論争」にはならないのではないかと思う。それだけ複雑な論理展開を巡る「論争」は、よほどの専門家同士でなければ関心を持たない。だから、「論争」のように見えるやりとりが起こるのは、たいていが前提の違いや結論の違いから、意見の相違として「論争」の発端になるのではないかと思う。

このような「論争」においては、マトモな論理を使っている側は、自分の前提の基に論理を展開すれば、自分が提出している結論が出てくることを説得しようとする。そして、これは客観的な論理というものが理解できれば、誰もが同意するはずだと思っている。前提に同意できなくても、その前提を仮定した論理の流れは客観的に正しいことを示すことが出来ると思っている。

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by ksyuumei | 2006-12-21 09:43 | 論理

「労働」は義務か?

内田樹さんが、「創造的労働者の悲哀」というエントリーで、またまた反発を呼びそうな表現をしている。この反発は、おそらくその表現の内容よりも「書き方」に反応して起こるものだろうと思う。それがどのような文脈で語られているかを読みとらなければならない。しかし、次のような表現を自分の解釈で受け取ると反発を感じるかも知れない。


「労働は憲法に定められた国民の義務だから働け」
「「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まりなのである。」
「「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。
「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」」
「ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」


これらの表現は、それだけを取り上げて受け取ると、年寄りの説教のように聞こえる。保守的なオヤジが、現在の社会の矛盾をそのままにして、自分たちの責任を棚上げにして若者を叱咤している説教のように聞こえてしまうかも知れない。

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by ksyuumei | 2006-12-20 10:03 | 内田樹

「論争」に勝つことの意味

仲正昌樹さんは、『ネット時代の反論述』の中で、マトモな「論争」のためにはディベート的なやり方をしなければならないと語っている。これには僕はちょっと違和感を感じている。たぶん、ディベートというものに対するイメージが食い違っているからだろうと思う。

仲正さんが語るディベートというのは、ルールが明確に決まっていて、そのルールに従って正しい裁定がされ、正しい論理にしたがって前提から結論が導かれ、しかも相手よりも説得力があると判断されたときに勝ちが宣言されるというものだ。

相手よりも説得力があるということは、相手の欠点を的確について、相手の論理を崩すと言うことでアピールすることもある。いずれにしてもマトモな論理展開をしている方が勝つというゲームになる。このようなディベートなら、僕も「論争」としては正しいと思う。

しかし、日本で「ディベート」という名で呼ばれているようなやりとりは、必ずしもこのようなイメージを持っていないような気がする。僕が持っているイメージというのは、何らかの結論を言いくるめるような「詭弁術」の訓練をするようなものという感じがしている。正しい論理を使って、自分の主張の正しさを証明するというよりも、いかに相手をくじいて、説得すると言うよりも騙しのテクニックを磨くと言うことが「ディベート」という名で呼ばれているように感じる。

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by ksyuumei | 2006-12-19 10:23 | 論理

「裁判」「国会討論」「学説の対立」は「論争」か?--現実の「正しさ」は力関係で決まる

仲正昌樹さんは『ネット時代の反論述』という本の中で、裁判について次のように語っている。


「判決文は、“正しい答え”があるかのように書かれますが、実は裁判官も弁護士も、本当の意味で「正しい答え」があるなんて信じてはいません。正義感に燃えて裁判所に出かける人は、社会正義を司法が実現してくれると思い込みがちです。しかし、そんなとき弁護士が、「いや、そういうものじゃない。法の正義というのは、本当は社会的な力関係で決まるんだけど、一応のルールがあるので、その範囲内で、自分の主張を通すんだ」というような言い方で本音を語ったら、きっと驚くのではないでしょうか。プロの法律家なら、裁判における真理としての「正義 Justice」は、その時の力関係や社会通念で決まってくるものであるということを知っています。ただ、最初から力関係だけで、「答え」を落ち着かせるのではあまりにもまずいので、ある程度のルールを決めておくだけなのです。」


これが裁判の実態なのだと言われると、何か釈然としない気分を抱く人もいるだろうが、国を訴えて最高裁まで争った裁判がほとんど国側の勝利に終わるという現実を見ると、仲正さんの指摘が正しいと思えてくるだろう。

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by ksyuumei | 2006-12-18 09:55 | 論理

民主党提案の「日本国教育基本法」案 考察1

マル激のゲストの人選というのは、なかなかすごいと思うものがあるのだが、民主党の参議院議員の鈴木寛氏もなかなかすごい人物だと思った。非常に明快な論理を語る人だし、物事のつながりを深く洞察している人に見えた。教育基本法の問題も、教育の問題として本当に有効なものにするためには、その後の議論・つまり「地方教育行政法」に関わる部分の議論こそが本質的なものだと語っていた。非常に説得力を感じた。

「地方教育行政法」が大事なのは、具体的な地方の教育を変えることが出来るのは、実はこの法律によるところが大きいからだ。鈴木氏は、学校(特に公立学校)の問題を、責任がたらい回しにされる構造に見ていた。学校に関して、いじめなどで何か問題を感じた保護者がいたときに、現在の学校制度の下では、どこにその問題を訴えても有効な対策が打てないと言う。

責任の所在がはっきりせず、責任を取るべき人間に権限が与えられていないのが、現行の「地方教育行政法」だという。具体的な問題を学級担任に訴えても、それが学年主任に回され、学校長の判断を仰ぎ、それでも決定できずに、教育委員会や最後は文部科学省にまで問題が先送りされる場合もある。そして、最後で文部科学省に、これは地方にまかせてあると言われると、問題はたらい回しにされるだけでどこも扱ってくれないということになる。

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by ksyuumei | 2006-12-17 15:05 | 教育

「論争」なのか「主張」の違いなのか

楽天ブログの「実りのない論争」のmsk222さんのコメントの中で、「風力発電の是非」というものが語られていた。これが「是」であるか「非」であるかというのは、一見「論争」のように見える。しかし、これは対立した主張が語られているだけなのではないかと僕には見える。

「論争」と対立した「主張」の違いがどこにあると僕は見ているのか。それは、「論争」の場合は、あくまでも「論」の戦いであり、どちらの「論」が正しいかを巡る対話であるという見方をしている。そして、「論」というのを論理の流れ、すなわち推論の方に僕は見ている。

前提そのものの正しさ、あるいは結論そのものの正しさは、論理の流れである推論には直接の関わりはない。推論では、その前提を一応論理の出発点として認めれば、次の命題がそこから引き出されるかどうかという点にのみ注目する。もし、他の前提を必要とするような推論だったら、必要な前提を追加して、その前提のもとでなら結論が引き出せるかどうかを見るのが「論」の働きだと思っている。そして、そこに間違いがないかを争うことが「論争」であるというふうに僕は見ている。

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by ksyuumei | 2006-12-17 11:14 | 論理

マトモな「論争」の落とし穴

仲正昌樹さんの『ネット時代の反論述』では、「論争」を次の3つに分けて論じている。

1 見せかけの論争
 (相手に語りかけるのではなく、ひたすら味方にだけ語りかけ、味方が自分を正しいと思い、相手を間違っていると思えば成功)
2 「相手」をちゃんと見てする論争
 (論理に従って、自分の正しさを証明する論争。これには様々な準備が必要)
3 とにかく相手を潰すための論争
 (自分がむかついた分以上に相手に不快感を与えて、相手がへこむような結果のみを求める。とにかく相手にストレスを与えれば成功)

この中の、マトモに見える「論争」の2について考えてみようと思う。これは、マトモに見える2の「論争」だったら「論争」として実りがあるのではないかと思うのだが、結果的に実りになることは極めて少ないと言うことが見出せると思うからだ。むしろ、この2はよほど注意していないとすぐに1や3の方向に流れてしまう。仲正さんは、1から順番に説明をしているが、2から先に考えた方が、その流れやすさがよく分かるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2006-12-16 17:40 | 論理

教育基本法「改正」法案成立の社会的背景

教育基本法「改正」案が、自公の賛成多数で可決された。「改正」と括弧付きで表現しているのは、この法案が辞書的な意味で本当に「改正」になっていると思えないので僕は括弧付きで表現している。宮台氏を始めとする多くの知識人が、この法案ではいま教育が抱えている問題は何一つ解決しないと語っている。僕もその評価は正しいと思っている。

この「改正」が、教育を良くするどころか悪くすると感じている人は、この「改正」案の成立に怒りを覚えている人もいる。僕は、怒りという感情よりも違う種類の思いが浮かんでいる。それは、ある程度マトモにものを考えることの出来る人であれば、そこに含まれている欠陥がよく分かる「改正」案であるのに、それがなぜ賛成多数で可決されてしまうのかという、ある意味では論理的な理解が難しい謎を感じるところに関心を抱く。

論理的に考えれば、欠陥のある「改正」案は否決されるのが正しいように思える。それがなぜ否決されずに可決されてしまうのか。それを合理的に理解するにはどうしたらいいのかと言うことが気にかかる。個人の判断と社会の判断が食い違っている原因はどこにあるのか。

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by ksyuumei | 2006-12-16 10:15 | 教育

実りのない論争

仲正昌樹さんの『ネット時代の反論述』(文春新書)は、「理不尽な言いがかり」に対して「反論」するテクニックを教えると言うことを謳っている。これは「理不尽」なのであるから無視して放っておくのが一番いいのだが、気持ちはむかつくし、何か溜飲を下げてすっきりさせたいと言うときに使うと便利なテクニックだと言うことで紹介されている。

そのテクニックは3つあり、次のように語っている。

1 見せかけの論争
 (相手に語りかけるのではなく、ひたすら味方にだけ語りかけ、味方が自分を正しいと思い、相手を間違っていると思えば成功)
2 「相手」をちゃんと見てする論争
 (論理に従って、自分の正しさを証明する論争。これには様々な準備が必要)
3 とにかく相手を潰すための論争
 (自分がむかついた分以上に相手に不快感を与えて、相手がへこむような結果のみを求める。とにかく相手にストレスを与えれば成功)

この3つのテクニックのうち、1と3は、およそ教養がある人間だったらとりたくない選択肢だ。それはたとえ成功したとしても、1の場合は自分のイメージをニセモノにしてしまうし、3の場合は自分自身が「理不尽な言いがかり」をつけた奴以上にイヤな奴だと言うことを示してしまう。

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by ksyuumei | 2006-12-15 09:43 | 論理

「批判」の本当の意味

障害児教育との関わりから、以前に津田道夫さんの著書の感想を書いたことがあった。津田さんは戦後マルクス主義に詳しい人なら知っている人で、マルクス主義理論家として三浦つとむさんともつきあいのあった人だ。大西赤人さんが障害のゆえに高校の入学を拒否されたのに抗議する運動に関わってから障害児教育とも関わりを持った人だった。

その津田さんから、著書について書くように頼まれ、「十分批判して書いてくれ」と言われたので驚いてしまった。その時の僕のイメージでは、「批判」というのはどこか間違いを見つけてそこを論じることのように思っていたからだ。津田さんの著書に間違いを見つけることは出来なかったし、自分の非力な能力ではとてもできそうにないことだと感じたものだった。

しかし、津田さんの言う「批判」というのは、カントの「純粋理性批判」という著書で使われているような、深い吟味の末にその本質を明らかにするというような意味だった。津田さんは戦後まもなく活躍した理論家だが、いわゆる「知識人」と呼ばれる人だ。仲正さんが『ネット時代の反論述』で語っているが、昔の知識人は「批判」というものに対する姿勢が違っていたという。仲正さんは次のように書いている。

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by ksyuumei | 2006-12-14 09:45 | 雑文