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被害感情が判断の基準になる危うさ

今週配信されたマル激の議論の中で、いじめ問題を巡って宮台氏の次のような発言があった。それは、いじめに限らずセクハラ問題などでも、被害者がそう感じたと言うだけでそこに「いじめ」や「セクハラ」があったと判断するような議論があるが、これをどう考えるかという問題だった。

このことは僕も以前から考えていたのだが、この「だけ」ということを前提にすれば、それは論理的には間違いだろうと思っていた。それは、感じるという主観のみに判断をゆだねていて、とにかく被害者が感じた「だけ」で、他のことを二の次にして判断していたら、それは恣意的なものであり客観的な正しい判断にはならない。

そもそもいじめという現象は、それが客観的に判断できるものなのかどうか。極端な現れ方をするものについては誰もが一致していじめだと判断できるかも知れない。しかしそれでも、いじめる当人たちはそれをやめないと言うことは、もしかしたらいじめる方はいじめと感じていないのかも知れない。そんなとき、いじめられていると感じていれば、そこにはいじめがあったと判断していいかというのは難しい問題になるだろう。

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by ksyuumei | 2006-12-30 11:43 | 雑文

科学とは何か--仮説実験の論理

「反証可能性」という言葉は、そもそも科学と疑似科学とを区別するための判断基準として提出されたように感じる。「反証可能性」を持っていれば、それは科学としての可能性(将来科学として相対的真理であることが確認されるかも知れない)を主張できる。しかし、「反証可能性」をもっていなければ、それは科学としての資格を持つことはない、という判断が出来る。

科学と疑似科学との区別が難しいので、「反証可能性」があるかどうかで判断をしようという発想なのだろうと思う。ところが、この「反証可能性」の判断が、科学と疑似科学の区別の判断以上に難しかったら、最初の意図は達成されなくなる。「反証可能性」という概念はそのようなジレンマに陥っているのではないかと感じる。

「反証可能性」がないというのは、それが間違っているということが言えないと言うことだから、論理的な意味でのトートロジーでない限り、そのようなことを示すことが出来そうにないように感じる。「反証可能性」がないものの例として出されていた「適者生存」という法則も、これは論理的な意味でのトートロジーに還元できるからこそ「反証可能性」がないと主張できるものだった。

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by ksyuumei | 2006-12-29 22:28 | 科学

科学とは何か--反証可能性の意味

科学というものを考える際に、多くの人が頼りにする考えにカール・ポパーの「反証可能性」というものがあるのを知ったとき、僕はこれに大きな違和感を感じた。ポパーが主張することが間違っていると言うことではない。自然科学系(=数学系)から言えば、ポパーが語ることはごく当たり前のことだと感じる。その当たり前のことをことさら声を大にして主張しなければならないのはなぜかと言うことに大きな違和感を感じたのだ。

その疑問に答えてくれるような資料を「<科学哲学史(1) 帰納主義>」で始まる科学哲学史の記述の中に見つけた。ここでは、科学を観念的な思い込みでなくし、現実的に有効な理論として構築するために「帰納主義」という考えが提唱されたということから説明が始まっている。

「帰納主義」は、判断の根拠を現実に求めるもので、これ自体には何も不当なところはない。しかし、これは判断としては個々の個別的な判断についてしか語れないもので、科学のように一般的・普遍的な命題として語ろうとすれば、個別から普遍への論理の飛躍が必要になる。この論理の飛躍をうまく処理できないと、科学は「仮説」に過ぎないもので、新たな出来事に対してはそれが正しくない可能性をいつもはらんでいるものだと感じてしまう。

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by ksyuumei | 2006-12-29 11:48 | 科学

言葉の定義とそれを基にした思考

「2006年12月24日 バックラッシュの奥に潜むものと丸山真男」というエントリーのコメント欄に pantheran-onca さんという方から


「はじめまして。参考までに。谷沢永一氏の著書によると、丸山眞男は50歳前後からほとんど仕事をしなくなったそうです。その原因は、初期の業績において、丸山が戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定したことにより、取り返しがつかなくなってしまったことにあるとしています。

ドイツやイタリアは民主的選挙によって選ばれた権力者に対し、議会が全権を委任してしまいました。しかし、日本の場合は翼賛選挙とは言うものの、非翼賛議員も何人も当選しており、しかも、首相が何人も入れ替わっています。ヒトラーやムッソリーニのような独裁者を日本にもそのまま当てはめたことで、彼の業績は致命傷を得たということらしいです。」


と言うコメントをもらった。僕は丸山眞男についてはあまり詳しくないのだが、このコメントで語られているような発想は、論理的に考えると面白い面を持っていると思った。以下それを考察したいと思う。

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by ksyuumei | 2006-12-28 10:46 | 論理

誰が真の「愛国者」なのか

「改正」された教育基本法では、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」「態度を養う」という文言が入っており、これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られている。この法案反対の気分としては、「愛国心」そのものに反対するのではなく、その「押しつけ」に反対するというものの方が大きいのではないかと思う。

「愛国心」という概念そのものが嫌いだという人もいるかも知れないが、それは、その概念の中に不当なものが入り込んでいる「愛国心」のイメージではないかと思う。たいていの人は、「愛国心」そのものは必要だと思っているが、それを押しつけてくることは間違いだと感じているのではないだろうか。

それは、何が「愛国心」かという判断について、客観的な基準が設定できないからではないかと思う。それを国家が恣意的に決めることに反対する人が多いのだろう。これは、国家が決める「愛国心」が間違っていると言うことではなく、何が「愛国心」かと言うことは原理的に正しい答を提出することが出来ないのだと思う。

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by ksyuumei | 2006-12-27 10:10 | 教育

成熟社会にふさわしい教育とは

宮台真司氏によれば、現在の日本は近代成熟期になった成熟社会だという。近代成熟期に入る前は、近代過渡期と呼ばれ、ここでは「急激な重化学工業化と都市化の時代」が特徴で、「国民はみな仲間だ」という国民意識が支配していたという社会構造を持っていた。この近代過渡期が終わり、近代成熟期を迎えたと言うことは、社会の構造が変わったと言うことを意味し、その構造に合わせて意識を変え、教育を変えていかなければ社会の秩序というものが保てなくなると言う恐れが出てくる。

自民党が提出した教育基本法「改正」案の背景には、戦後の民主主義教育が教育を荒廃させ、日本社会を悪くさせたという思いがあるようだ。そして、それを支えた諸悪の根元が日教組であり、日教組の支えになったのが教育基本法であると言うことで、これを変えることが自民党保守層の悲願であったと言われている。

しかし、何かが悪くて教育が荒廃したと言うよりも、近代過渡期から近代成熟期へ向かった社会の変化に対して、教育の方がその変化に付いていけなかったことが結果的に荒廃を招いたと理解する方が正しいのではないかと思う。なぜなら、近代過渡期における日本の経済成長などを見ると、その時代においては日本の教育は時代に合った人材を生み出しており、少しも荒廃を生んでいないように見えるからだ。

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by ksyuumei | 2006-12-26 09:40 | 教育

現行制度から利益を得るステイクホルダー(利害関係者)

現行制度に何らかの問題があって、それが原因で不都合が起きているとき、その不都合を解決するには制度そのものを変えなければならないと言うことが起きてくる。これは、不都合と言うことを感じなければ問題解決の動機も生まれてこない。まずは、どんな不都合があるかと言うことの認識が大切になる。そして不都合が確認されたとき、それを解決するための行動に出ると、大きな障害として立ちはだかるのが表題にあるような「現行制度から利益を得るステイクホルダー(利害関係者)」というものだ。

このステイクホルダーの例として分かりやすいものとして、マル激で神保哲生氏が語っていたのは、記者クラブという制度における大手メディアというものだった。記者クラブという制度が原因で起こる不都合というのは、公的な情報が独占されてしまうことだという。そのステイクホルダーにとって都合が悪い情報が流れてこないという問題が起きる。

公式発表では語られなかった政治家の言葉が、オフレコという形で記者クラブのメンバーだけには語られることがある。そして、それがどれほど重要な情報であっても、オフレコであれば記者クラブのメンバーである大手メディアが報道することはない。

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by ksyuumei | 2006-12-25 09:29 | 雑文

バックラッシュの奥に潜むものと丸山真男

宮台真司氏の「アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景」について書いたエントリーに浩瀚堂さんという方から「宮台真司氏の所説の疑問」というトラックバックをもらった。浩瀚堂さんの論旨をまとめると、次のようなものではないかと僕は受け取った。

1 宮台氏は丸山眞男の「亜インテリ論」を間違えている
 (丸山が語った「亜インテリ」は「宮台氏が言う様な頭の悪いインテリや低学歴を指すのではなく」「義務教育以上の高等教育を享受していたし、経済的にも当時の中間層に属していた人々」を指す)

2 宮台氏は『丸山眞男の時代』(竹内洋・著、中公新書)の読み方を間違えている。
 (丸山の「亜インテリ論」に対して「竹内先生はこれに対してやや批判的な記述をしている」。それを自説に都合良く解釈している。つまり、丸山の「亜インテリ論」が正しいかのように竹内氏が書いているように引用している。)

ここでは宮台氏が間違っていると言うことを二つ指摘しているのだが、正直言って、この二つは僕は考えもしなかった。その理由は二つある。一つは、宮台氏に対する信頼感が大きいと言うことだ。宮台氏ほど論理的に明晰な思考をする人間が、他人が言っていることを間違って受け取ると言うことはほとんど考えもしなかったからだ。もし他人が間違えていたら、それを間違いとして正しく受け取るだろう。間違ったまま受け取ったり、正しいものを間違って受け取るとは考えられなかった。

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by ksyuumei | 2006-12-24 12:54 | 宮台真司

民主党提案の「日本国教育基本法」案 考察2

民主党の「日本国教育基本法」の考察をしたいと思う。基本的に、僕はマル激での鈴木寛氏の見解に感服したので、その鈴木氏が作ったこの法案にも高い評価をしている。さて、参考にするのは「日本国教育基本法案 解説書」で、前回は前文を読んでみた。その時に感じたのは、民主党案は非常に具体性を持っていると言うことだった。

それが第1条の「教育の目的」になると一変する。政府案の方が具体的で、民主党案の方は抽象的になるのだ。そして、政府案の方に、多くの人が危惧する「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という言葉が入っている。これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られているものだ。

民主党案の方では前文の方に「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」ものが「我々が目指す教育」だと語っている。この民主党案の「愛国心」と政府案の「愛国心」をどう受け止めるかを考えてみた。

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by ksyuumei | 2006-12-23 11:12 | 教育

ポストモダン(後期近代)の理解から成熟社会の理解へ

「ポストモダン」という言葉は、思想家によってその意味が微妙に違ってくる言葉なのではないだろうか。それは現代の特徴を指していることは確かなのだが、あまりにも抽象的な表現なので、何を抽象しているのかが分からないと、現実のイメージに引きずられてしまって、自分にとってこれが現実だと思えるものが「ポストモダン」のイメージに重なって理解されると言うことになるのではないだろうか。

またこの言葉は専門用語として流通しているところもあるので、ある種の専門知識なしに理解することが難しくなっている。たとえば「ポスト・モダン、その簡単な定義と提言」によれば、次のように説明されている。


「モダンとは則ち、機械文明下の近代社会における人間性の解体(脱・中世)として出発した思想であり、機能主義的な単純要素によって構成されていたのに対し、ポスト・モダンとは、あらゆる諸要素を複雑に重ね合わせ、過去の諸思想及び、諸作品等から引用することによって構成される、それ故、思想的な面においてはポスト構造主義と対応する思想である。」

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by ksyuumei | 2006-12-22 10:19 | 宮台真司