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文脈からの文意の理解、あるいは文脈の勘違いによる誤読

内田樹さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」というエントリーに関する文章をいくつか書いたのだが、そのうちのはてなダイアリーに書いたものにwitigさんという方からトラックバックをもらった。はてなダイアリーのトラックバックは、アダルトサイト関係のものなどをはじく機能がないので基本的に反映させないことにしている。だから、僕がそれについて何かを書くと言うことがなかったら届いているかどうかは分からないことになるだろう。

今回witigさんの「2006年11月29日の日記」について、僕が言及しようという動機を持ったのは、これが誤読というものを考えさせてくれるものだと思ったからだ。ライブドアのブログにも似たような内容のコメントが届いていたが、これもおそらくwitigさんのものではなかったかと思っている。これに関しては、反映させるかどうか迷っていて、まだブログには反映させてはいなかった。

ライブドアのブログへのコメントも誤読ではないかと感じるものだったが、短いコメントではそのポイントをつかむのも難しかったし、誤読であるという説明を理解してもらうのも難しいと思った。エントリーとして書くだけの材料を持たず、コメント欄で説明するには複雑な内容だったので、もしコメントとして反映させても何も言及せずに、形の上では無視して通り過ぎることになるだろうと思った。結果的に無視することを示すために反映させることにためらいを感じていたのだった。

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by ksyuumei | 2006-11-30 23:49 | 誤謬論

理論と実践(あるいは科学と現実)の問題

現実と乖離した理論というものを考えていたら、これも弁証法的に捉えることが出来るのではないかという感じがしてきた。普通は、現実と乖離した理論は、現実への有効性を欠くことになり役に立たないとされてしまうことが多いだろう。しかし、現実と乖離しているからこそそれが正しく有効だという観点も見つけられるのではないかという気がしてきた。現実と乖離していない言説は、そもそも理論として確立しないのではないかという気がしてきたのだ。

理論というのは抽象的な対象に対して何かを語ることになる。目の前にある具体的な対象について語るときは、たいていが「事実」を語るというふうに言われ、普遍的な真理を語る「理論」だとは言われない。理論というのは、現実にベッタリと張り付いた、具体的対象に関する言明ではなく、それから抽象されたものに対して成り立つ普遍的な真理を語るものになっている。

抽象というのは、具体物からある側面だけを取り出して、その他の側面を無視するという捨象をするものになる。この捨象という無視によって、抽象は現実から乖離する。言葉を変えて言えば、抽象という現実からの乖離を経ないものは理論として成立しないと言えるだろう。つまり、全ての理論は原理的には現実から乖離するものなのだ。だから、現実から乖離しているという点だけを取り上げれば、これは全ての理論を批判することが出来る。

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by ksyuumei | 2006-11-29 10:28 | 雑文

必要条件と十分条件

igelさんが「内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 5」というエントリーに書いた「コメント」に、論理的に面白いと思われる内容があった。それは、


「シグナルが読めるのは母親でなくてもかまわないと言うことから、細やかなコミュニケーションが母親にとって「必要」でないという否定は導くことは出来ないだろうとは私も思います。
むしろ、シグナルの読めない母親(であれ誰であれ)が細やかなコミュニケーションにとって「必要」でないという否定が導けると考えます。」


と語られている部分だ。ここでは「必要ない」という判断が語られているのだが、この判断はとても難しい。論理においては「必要である」という必要条件については分かりやすい。仮言命題「AならばB」において、結論となるBは、前提Aにとっての必要条件となる。それは、Bが成り立たないときはAも成り立たないという関係になっているからだ。

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by ksyuumei | 2006-11-27 10:15 | 論理

沖縄県知事選、保守勢力勝利の意味

沖縄県知事選で「自公」が推す仲井真氏が初当選した。この選挙については、今週配信されたマル激の中で、宮台氏が「糸数氏が当選しそうですし」と語っていただけに、残念な気持ちが強い。それと同時に、教育基本法が国会を通過しそうなことなどを考え合わせて、現在の強い保守の世論の状況が今後も続いていくのだろうかと言うことを考えてみたいと思った。

宮台氏によれば、現在の保守世論というのは、愛国的というよりも国粋的な面が強いという。これは、冷静な国益計算の基に、何が国家にとって有益であるかを判断して行動するよりも、インパクトの強い事件などに触発されて、何か象徴的な国のシンボルを守るために感情的に吹き上がるという面が強いという意味のように僕は受け取った。宮台氏によれば、シンボルとしての崇高なる何ものかに自分を重ねることによって、愛国的気分の中に浸るのが「国粋的」と言うことの意味だった。

これは、同時多発テロと呼ばれた911の事件後のアメリカにも現れた現象であるという。しかしアメリカでは、直後のテロとの戦いに象徴されるような国粋的状況が、イラク統治の失敗によって徐々に反対の方向の世論が強くなってきたという。戦争によってアメリカが勝利するのは当然のことだが、戦争後の統治に失敗したのは、そもそも戦争という政策そのものにも間違いがあったのではないかということが言われるようになった。

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by ksyuumei | 2006-11-22 10:06 | 政治

内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 6

瀬戸さんが「母親と保育所とおむつ」というエントリーで最後に書いた、内田さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」の中の三砂さんの研究に関する部分の判断(解釈または感想)の残りの二つについて考えてみようと思う。2番目のものは、


2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」


というものだった。この判断は、僕は、誤読ではないかと思っている。内田さんは、三砂さんの研究に反対するものの中から、紙おむつメーカーのものとフェミニストたちからのものをあげているのであって、非難をするもののうちの一つとしてそれをあげている。非難をするものを全部まとめて、それを全てフェミニストたちの言説だという言い方はしていない。

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by ksyuumei | 2006-11-19 15:21 | 内田樹

左翼(学校)の全体主義

いじめ問題を扱ったマル激の議論の中で、ゲストの内藤朝雄さんが言った「右翼も左翼も全体主義が好きだ」という言葉が印象に残った。この場合の「右翼」と「左翼」は定義が曖昧な言葉だが、多くの人からそう見られている集団という程度に受け止めればいいのではないかと思う。

右翼の全体主義というのは分かりやすい。軍国主義の歴史というものがあるからだ。かつての日本では、軍国主義的思想からはずれるような人間を「非国民」と呼んで迫害した。全体からの思想の押しつけの圧力の強さは、少し歴史を振り返ってみればすぐに分かる。また、この歴史は日本固有のものではなく、ファシズムの歴史を持っている国ではいずれも同じような全体主義が支配した時代があった。

右翼的な全体主義はナショナリズムから導かれてくるもののように見える。そしてある種の事実がそのナショナリズムから見て自明の前提とされるようになると、それが数学的な公理のようになり、それに異議を唱えることが出来なくなる。その命題が支配する全体主義的な世界がそこに誕生することになるだろう。

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by ksyuumei | 2006-11-18 12:33 | 雑文

教育基本法改正のメンタリティ

教育基本法改正案が衆院本会議を通過した。衆議院は与党が圧倒的多数を占めているのだから、どのような法案であろうと、与党がそれを通したいと思えば通る状態にはなっている。だから、これはある意味では予想されたものなのであるが、各種新聞社説やインターネットの主張などを見ているとこれに反対する意見も多いように感じる。

一つは野党抜きの単独採決に対する批判だ。これはまだ議論が尽くされていないと言う、民主主義的な観点からの批判だ。これに対しては与党自民党などは、その時間をあげてすでに十分議論はなされたと解釈しているようだ。これは、何時間議論したからもういいという量的な問題で誰もが納得するような事柄ではないから、双方が違う見解を持っても仕方がないものになる。

もう一つの反対意見は、今改正することにそもそも意味があるのかという疑問から来るものだ。それをストレートに表現しているのは、「信濃毎日新聞 10月29日(日)社説=教育基本法 やはり改正すべきでない」という記事だ。ここでは冒頭で

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by ksyuumei | 2006-11-17 09:37 | 教育

内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 5

瀬戸さんの「母親と保育所とおむつ」というエントリーの最後に書かれた、内田さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」の中の三砂さんの研究に関する部分の判断(解釈または感想)について考えてみようと思う。まずはそれを箇条書きにしてみる。


1「現実とは乖離した理想論」
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」


このいずれの判断に対しても僕は異論があるので、その違いを考えてみたいと思う。ただ、瀬戸さんはこの判断を最後に結論だけを書いているので、その結論が導かれてきた具体的な道筋というものが僕には分からない。だからそれを一般的に想像してこんなものではないかとものを提出して、僕はそのように考えなかったという形での異論を述べることになる。だから、僕が想定した一般論を瀬戸さんが考えていなかったら、この反論は的はずれと言うことになるのだが、とりあえずは内田さんの言説をこのようには受け取らないと言う考えもあるということは示せるだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-11-16 10:19 | 内田樹

内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 4

瀬戸さんの「母親と保育所とおむつ」というエントリーの中の、内田さんの文章に関する部分の記述の理解を図ろうと思う。前回と同様に、まずはその判断の部分を拾い出し、次にその判断の根拠になった事実の方を探そうと思う。まずは判断として見つけられるのが次の部分だ。


「シグナル発見を、いざ社会科学の分野にまで広げていこうと言うことは拙速・勇み足ではと考えます。」


この判断は、「拙速・勇み足」というものにポイントがあるので、シグナル発見の正しさについてのものではない。その点では、その根拠に同意するのがなかなか難しい判断と言えるだろう。「拙速・勇み足」というのは、今の時点では弊害の方が大きく、それから得られるプラス面との相殺で考えればマイナスの結果をもたらすという判断になる。これは未来に対する判断なので、ある意味ではやってみなければ分からないと言う面を持っている。それをやりたいという動機が強いかどうかで判断が違ってくるだろう。

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by ksyuumei | 2006-11-15 10:12 | 内田樹

内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 3

瀬戸さんが「母親と保育所とおむつ」で主張していることを出来るだけ正確に読みとるように努力してみようと思う。これは意味を読みとると言うことだ。意味というのは、同じ形式であっても内容が違うと言うことがあるので、それを正確に読みとるのは難しい。表現の持つ関係性を読みとり、表現されたものから、瀬戸さんの認識にたどり着き、その認識を生んだ客観的存在にたどり着くという読み方をしたいと思う。

そのために、瀬戸さんの表現を二つのものに分けて受け取っていきたいと思う。一つは瀬戸さんの主観に生まれた判断を語った表現で、もう一つは瀬戸さんが捉えた客観的対象を表現したものだ。判断を語った表現から、その判断をもたらした根拠である客観的対象を語った表現を見つけ出し、その論理的関係を考えることで瀬戸さんが書いた文章の意味を正確に読みとりたいと思う。

ただ、三浦つとむさんも語るように、対象の全ての面を認識出来るわけでなく、認識したことの全てを表現出来るわけではないので、そこにはいつもずれが生じる可能性がある。このずれによって誤読する可能性が常にある。瀬戸さんが思ってもいなかったことを、僕が想像で補って深読みすることもあるだろう。もしそのようなところがあったら指摘してもらえるとありがたい。出来るだけ表現された言葉からのみ意味を読みとるように努力したいと思うが、人間には自明の前提となっている先入観もあるので、それが影響して誤読することもあるだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-11-14 09:44 | 内田樹