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高市氏の行為の意味を考える

高市氏の行為の意味というものを考えてみようと思う。それは、現象として見た場合には、誰もが同じ記述をするような客観的な側面を観察することが出来る。宮台氏が定義した「行動」という側面で言えば、次のような記述は誰も反対しない事実と言うことになるだろう。

1 高市氏は自民党の山本拓議員と結婚した。
2 高市氏は戸籍上は山本姓になった。
3 戸籍上は山本姓になったが、世間では高市姓で通用している。
4 高市氏は、夫婦で違う姓を名乗っている。

この4つの行動の面では誰もが同じ判断をするにもかかわらず、これを「行為」として受け取った場合は、

・高市氏は「夫婦別姓」である。
・高市氏は「夫婦別姓」でない。

という二つの対立する判断が出てきてしまう。これは「行為」の意味が違うのだと考えられる。しかも肯定判断と否定判断という、形式論理の中では両立し得ない二つの判断が出てきてしまう。高市氏の行為の意味を読みとるときに、形式論理的に読みとるのが妥当だと考えるなら、これはどちらかを捨てて一方を正しいとしなければならない。

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by ksyuumei | 2006-10-05 09:40 | 論理

「夫婦別姓」は「夫婦別姓」ではないのかどうか

高市早苗氏が、結婚して山本性になったはずなのに、未だに高市姓を名乗っているのは「夫婦別姓」ではないかという素朴な疑問を考察している。高市氏は、「夫婦別姓」を法的に認めるという法案に反対していたので、この行為は、反対していたことを自ら行うことになるので「言っていることとやっていることが違う」のではないかというのが僕の素朴な疑問だった。

この「言っていることとやっていることが違う」というのは、僕の疑問であって、神保哲生氏が語った言葉ではない。神保氏は、ジャーナリストとして「夫婦別姓」の問題を聞かなかったのがおかしいという語り方をしていた。つまり、問題を広く知らせる必要が、ジャーナリストの使命としてあるだろうという指摘だ。これは正当な指摘だと思う。

「夫婦別姓」についての議論は、それが話題に上った時期もあったが、今ではすっかり忘れられてその内容が正確に多くの人に伝わっているようには思えない。高市氏の入閣をきっかけに、その問題を改めて考える機会とするのは、ジャーナリズムにとっては重要ではないかと思う。神保氏のジャーナリストとしてのセンスは鋭い嗅覚を持っていると思う。

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by ksyuumei | 2006-10-04 09:58 | 論理

ある定義に従っていることの論理性を考える

昨日のエントリーの「「知られていない重要な情報の集め方」のコメント欄」で、mizoreさんから貴重な情報をいただいた。高市氏の言動に関する情報で、高市氏が結婚しているにもかかわらず、夫婦で違う姓を名乗って活動しているのは、「夫婦別姓ではない」と言うことの根拠が紹介されたページには記されている。

それは、「「~ 毎日新聞社に抗議します。夫婦別姓ではありません ~   2004年9月23日」と言うページに書かれたもので、その趣旨はこういうものだ。高市氏が定義する「夫婦別姓」というのは、戸籍上も夫婦別姓を選択できるようにする法案で語るところの「夫婦別姓」であって、高市氏は、戸籍上は夫の姓になっているので、違う姓を名乗っていても「夫婦別姓」ではないと言う。

確かに、高市氏の定義に従えば、高市氏の行為は、高市氏の言う意味での「夫婦別姓」ではないだろう。その意味では、言動は一致している。しかし、<違う姓を名乗っていても「夫婦別姓」ではない>と言うことには大きな違和感が残る。この違和感は、当事者からの意見としても「夫婦別姓ではないと言われても」というエントリーで語られていた。ここでは、

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by ksyuumei | 2006-10-03 09:45 | 論理

知られていない重要な情報の集め方

僕は、神保哲生・宮台真司両氏の「マル激トーク・オン・デマンド」で新しい情報に接することが多い。ここで接する情報を新しいと感じるのは、それが他の媒体では得られないからだ。特にマスコミのニュースでは決して流れてこないような種類の情報がここにはあふれているのを感じる。

今週のマル激は無料放送をしているので、関心のある人は聞いてみるといいと思うが、山口二郎さんをゲストに招いたその放送で、遊就館の展示が、アメリカの要請で変えられると言うことを語っていた。これは知っている人は知っているのだろうが、僕はマル激を聞いて初めて知った。

この情報が正しいというのは、神保・宮台両氏それから山口二郎さんに対する信頼感から、まず間違いはないと思ったが、インターネットで検索をして一応確かめてみた。そこでヒットした情報は次のようなものだ。

1 「遊就館 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

2 「【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 遊就館から未熟な反米史観を廃せ」

3 「靖国・遊就館 米戦略の記述変更 第二次大戦 「誤解招く表現」」

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by ksyuumei | 2006-10-02 10:23 | 報道

文脈を理解することの難しさ

三浦つとむさんは『言語学と記号学』(勁草書房)の中で「「差別語」の理論的解明へ」という論文で、文脈を理解することの重要性を語っている。これは、三浦さんの言語学からすれば当然の主張ではないかとも感じる。

「差別語」であるかどうかを判断するのは、その形式である文字の形で判断するのではなく、語の内容である意味から判断すべきである。同じ形式を持った言葉が、ある時は「差別語」になり、ある時は「差別語」にならないと言うことがあり得る。これを、いつでも同じ形を持った語が「差別語」になると考えてしまえば、それは形式論理になり、現実の言語活動をそれで理解すると間違いになる。

三浦さんの言う「意味」は、言葉そのものに張り付いている実体ではなく、その言葉が表現する対象と、表現者の認識の間に関係づけられているものとして存在している。だから、関係が違えば意味が違うし、関係が違えば差別性も違ってくると言うのが、三浦さんの言語学からは論理的に出てくる結論だ。

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by ksyuumei | 2006-10-01 20:23 | 誤謬論

安倍さんの所信表明演説の論理性を考える 2

安倍さんは所信表明演説(全文は「読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」」)の中で「美しい国、日本」について次のように語っている。


「一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。

 二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国であります。

 三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。」


今度は、これの論理性を考えてみようと思う。これは、真理を考察する対象の命題の形をしていない。だから、これだけで論理性を考えることは出来ない。これは、安倍さんが目指す目標のようなものとして語られている。

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by ksyuumei | 2006-10-01 15:56 | 政治

安倍さんの所信表明演説の論理性を考える 1

安倍新総理の所信表明演説の全文が「読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」」と言うページで読むことが出来る。この演説の論理性というものを検討してみようと思う。論理性を検討するというのは、そこに書かれている主張が正しいかどうかを検討するものではない。

そこに書かれている主張が、どのような前提から導かれているのかを考えて、その前提から結論へ至る展開が、論理的な整合性を持っているかどうかを考えてみようとするものだ。論理的な整合性というのは、前提の中に結論を見出すような可能性が含まれているかどうかを判断しようというものだ。

全く関係のないものを、表面的に似ているからと言うことで結びつけたものは論理的な整合性を持たない。もちろん、前提抜きの結論だけというような主張も、論理的な整合性を持たないと判断出来る。恣意的に選んだように見える結論も論理的な整合性を持たない。好き嫌いで選ぶようなものが恣意的に選んだものに当たるだろうか。

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by ksyuumei | 2006-10-01 11:27 | 政治

言語における使用価値と交換価値のアナロジー

シカゴ・ブルースさんの「貨幣の使用価値」というエントリーを読んで、自分の論理というか、言葉の使い方である語彙に混乱があるのに気がついた。交換価値と言うべきところで使用価値という言葉を使ったりしているような気がした。これは、頭の中では思考が先へ行っていたにもかかわらず、表現がそれに追いつかずに、言葉が混同してしまったようだ。

そこでもう一度、言葉の使い方に気をつけながら、自分が何を言いたかったのかを考えてみたい。言いたいことの中心は僕がソシュール的だと思ったもので、具体的な国語の違いから来る言語規範のずれが、思考のずれにも影響を与えると言うことだ。これは、ソシュール的と表現はするものの、ソシュール自身が語ったかどうかは分からない。内田さんが紹介するソシュールの言説を基に、そのようなものだろうと僕が想像したものだ。

言語規範のずれを、語義がかぶっているにもかかわらず意味に違いがあると言うことから、内田さんはそれを「価値が違う」と表現していた。そこで表現されていた「価値」というものを、僕は商品の価値との類推で理解しようとした。僕は、そこで言われている「価値が違う」というものを、ある意味では、交換するときの価格が違うという意味で理解していたような気がする。その連想から貨幣の価値というものの考察が出てきたのだと思う。

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by ksyuumei | 2006-10-01 00:31 | 言語