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抽象概念としての「秩序」と現実の「秩序」

宮台真司氏の「連載第四回:秩序とは何か?」に書かれている「秩序」という概念の理解に努めてみようと思う。ここで説明されているのは抽象概念としての「秩序」である。具体的な、日常生活の中で見られる「秩序」という現象の説明ではない。具体的な「秩序」現象から、具体的な要素をいくつか捨象して、その本質だと思われる部分を抽象して作り上げた概念だ。

具体的な対象は、実際にイメージを浮かべやすいので分かりやすい。だが、そのイメージの中にある種の価値観が入り込むと、その価値観という視点からの判断が入り込むために、人によって判断が違ってきてしまう恐れがある。そこに秩序があるのかないのかという判断が、秩序があるということが良いことであるという価値観を持っていると、それが良いことのように見えないと「秩序がない」という判断をするようになるだろう。

価値観というのは、どれが正しいという決定が出来ないものだ。だから、それを基礎にして判断をすれば、その判断からは客観性が失われる。学術用語として抽象的な概念を作るのは、その概念を基にした判断に客観性を持たせるためである。つまり、誰が判断しても同じ判断になるような定義を作るために抽象化をする。

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by ksyuumei | 2006-10-17 09:45 | 雑文

抽象理論の現実への応用の論理的構造を考える

数学というのは、それ自体は抽象化された世界を記述する理論になっている。ある意味では現実とは全く関係のない世界を独自に創造しうる。しかしそれは、ある条件の下に現実に適用され応用される。応用を考えられていない、理論のための理論という抽象論はあまり価値を置かれていないようにさえ思われる。

抽象というものが、現実を基礎にして、現実の属性を捨象する過程を経て抽象されるということを考えれば、捨象に適応した条件を設定することにより応用が可能だと言うことは論理的に理解出来る。この応用の論理構造を考えることで、抽象論の意義を再確認してみようと思う。

数学は高度に抽象化された理論であるが、それが現実とかけ離れて展開されているので、応用の側面を取り出して考えるにはかえって考えやすいと思う。その違いが際立っているからだ。また、数学の理論は抽象の程度に従っても、易しい段階から難しい段階へと発展していくことが見えやすい。易しい段階の応用というものも考えやすい。

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by ksyuumei | 2006-10-16 09:26 | 論理

パターナリズムの問題点

「夫婦別姓」の問題と「日の丸・君が代強制」の問題は、全く別の問題のように見えるが、そこには共通した構造も見ることが出来る。それは、どちらも選択の自由がなく、自己責任による自己決定権を持たないと言うところだ。

法的に認められた結婚をしたいと思えば、今の日本では同氏にしなければならず、戸籍上の氏を旧姓のまま夫婦で別々にして婚姻届を出すことが出来ない。そこで、戸籍上の姓(法的に認められた姓)において、選択の自由の幅を広げるために民法の改正を提案しているというのが現在の状況だ。

これに対する反対は、民法の改正によって直接的な被害を受ける人々から出されているのではない。家族の絆が壊れるという論理も、それは姓を変えた家族について言われていることで、反対者自身は姓を変えていないのだから、反対者の家族の絆が壊れるわけではない。自分の責任で選択した夫婦別姓で、その選択をした家族が絆を壊しても、それは自己責任なのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-10-14 11:44 | 雑文

ナショナリストとポピュリズム

安倍新総理の人気の要因の一つにナショナリストであるということが言われている。ナショナリストというのは、いろいろなイメージを持った言葉で、僕などはあまりいい印象を持っていない。だから、人気の源泉がナショナリストであるということにあると言われると、何か違和感を感じて仕方がない。ナショナリストであるということが、どうしてそれほど人気を高めることになるのだろうか。

ナショナリストとポピュリズムの間には論理的なつながりを見つけることが出来るのか。それとも、確率的につながる可能性が高いと言うことなのか。歴史的なことを考えると、ナチスがドイツで権力を握ったのも、圧倒的な人気というポピュリズムによるものであると言えるだろう。ナチスのように、ある意味では間違った行動をしたナショナリストでさえも、人気という面ではとても高いものがあった。ナショナリストであることは、政治的には高い人気を得る必然性があるのだろうか。

安倍さんの人気が高まったきっかけは拉致問題での行動だったと言われている。断固として強い姿勢を示すことが大衆的な共感を呼んだといわれている。これは、ナショナリズムの言説について書かれた次のような言葉とよく符合する。

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by ksyuumei | 2006-10-13 10:46 | 政治

新聞社説に見る「日の丸・君が代強制」に関する考え方

山陰中央新報の「国旗掲揚・国歌斉唱/自然体で定着させよう」という社説には共感出来る事柄が多い。ここでは、東京地裁が示した判断で、「国旗に向かって起立したくない教職員や国歌を斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想良心の自由を侵害する」というものを妥当なものと受け止めている。

ここで重要なことは、「懲戒処分をしてまで」と言うことで、このような処置が伴うことによって選択の自由を奪うことが問題なのだと考えられるわけだ。しかし、「国旗・国歌を敬うのは当然」と思っている人は、その前提の方が「内心の自由を尊重する」ことよりも上位に来てしまうので、反対をするという拒否の意志を示しただけで何か悪いことをしているかのような判断をしてしまう。だが、内心の自由を尊重することこそが民主主義の財産だと思えば次のような判断をするようになるだろう。社説では


「問題は、それを強制することの是非についてだ。判決が指摘したように個人の自由を尊重する民主的な社会では宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体のような行政機関が安易に踏み込むべきではない。行政上の権力を背景に処分や強制をするのは行き過ぎというべきだろう。」


と語っている。また、この社説では公権力が内心の自由を侵すことの問題を指摘して、憲法によって公権力を規制することの正当性もよく分かるように説明されている。次のような記述だ。

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by ksyuumei | 2006-10-12 09:47 | 雑文

自由が保障されている権利の根拠を考える

民法改正によって、「選択的夫婦別姓」という行為を法的にも正当な行為にしようという方向は、「姓(=法的な氏)を自由に選択する」という行為が、自由の行使として正当性を持っていると考えられるならば、そこには反対する理由は何もなくなる。自由として認められるべきであるなら、どのような技術上の困難があろうとも、それをクリアする方法を考え出して自由を保障しなければならない。それは自由の保障の方が重いものになるだろう。

これが基本的人権のようにほとんど制限のないものではなく、その自由の行使が何らかの公共の福祉に触れる恐れがある自由なら、その不都合をもたらさない範囲での制限を設けて自由を認めるか、あるいは、どうしても不都合が解消出来ないのであれば自由は認められないと結論するしかない。いずれにしても自由の主張の根拠が非常に重要なものになる。

姓を選択することが自由なのかどうかというのは、かなりの異論があるようなのでいきなりこのことを考えるのではなく、自由に対してあまり異論がないと思われる基本的人権として認められている自由のことをまず考えてみたい。基本的人権において認められている自由が、何故に自由としての正当性を持っているかを考えることで、そのアナロジー(類推)で姓の選択の自由も考えてみたいと思う。本質的に同じものだと考えられるなら、姓の選択は自由であるべきだと思うからである。

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by ksyuumei | 2006-10-11 10:21 | 論理

「選択的夫婦別姓」は家族の絆を壊すか?

家族という面から「選択的夫婦別姓」に反対している考え方を論理的に検討してみたいと思う。エントリーのタイトルは反語的に使ったもので、僕の直感としては「そうではない」という結論を導きたいと思っているものだ。

その論理展開のポイントは、「選択的夫婦別姓」によって壊されるのは、「制度としての家族」であって、「現実の関係の中の家族の絆」が壊されるのではないと言う判断だ。

「制度としての家族」にとって「氏」が変わることは決定的な変更になる。特に子どもの「氏」がどうなるかは、「家名」というものの相続に関しては重要な問題だろう。そのような制度についての思い入れが強い場合は、戸籍上の「氏」が自由に変えられるというのは、「家族制度」というものを破壊すると映っても無理はない。

しかし現実の愛情関係から生まれる「家族の絆」というものは、「氏」が同じという根拠からそれが論理的に帰結出来るものではない。「氏が同じ」という形式には、「家族の絆」が生まれるという内容は含まれていない。その形式に含まれているのは、「家名が続く」という「家族制度」の継続なのである。だから、「氏が同じ」という形式は、「家族の絆を守る」という内容とは、論理的には無関係だ。この内容に関しては、それは形式だけだという批判が成り立つ。

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by ksyuumei | 2006-10-09 11:17 | 雑文

憲法で保障された「思想・良心の自由」

「思想・良心の自由」というものをひどく勘違いして理解している人がいるような気がする。「思想」と「良心」というものを、辞書的に解釈すると平たく言えば次のようなものになる。

・「思想」=「心に思い浮かべること・考えること・考え」
・「良心」=「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き」

「思想」の方は、哲学的なものになれば、もう少しまとまった体系的なものになるが、要するにどちらも心の問題であって、人間の内面の問題である。それが直接的な行動に結びつかない限りでは他人に迷惑をかける種類のものではない。

これらが自由を保障されなければならないということは、心に思うだけなら、その思ったことに対する責任は生じないと言うことなのである。責任は、具体的な行動とその結果としての事実に対して発生するのである。

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by ksyuumei | 2006-10-07 18:59 | 雑文

靖国神社の遊就館の記述修正続報

PPFVさんが「[毎日新聞]靖国神社遊就館:米が批判の記述修正 アジア関連は変えず」というエントリーで紹介している毎日新聞の「靖国神社遊就館:米が批判の記述修正 アジア関連は変えず」という記事に、非常に興味深い内容が書かれている。

この修正に関しては、僕は「アメリカに言われたから変えるという態度は、愛国的ということから見ていかがなものか」という印象を持ったのだが、「アメリカから言われたから」という批判は当たっていないという意見もあったようだ。特に時間的な問題を指摘してそのような主張をしているものがあった。

アメリカの批判や岡崎氏の文章が発表された直後に、遊就館がその修正という対応をしたのは、時間的に早すぎるというのだ。もしそれが影響したのなら、少なくとも何らかの検討をする期間が必要であり、すぐに対応出来たのは、そのことを以前から考えていたからだという推論でそのような主張をしている。例えば「おやびっくり、昨日の今日ですから、でも「君子の過ちや、日月の食の如し…」」というブログ・エントリーでは、次のような主張をしている。

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by ksyuumei | 2006-10-07 11:29 | 雑文

脱ダム宣言の正しさを論証する

永井俊哉さんが「脱ダム宣言は間違いだったのか」という文章を書いている。このタイトルは反語的な意味を込めて使っているもので、結論としては「間違いではない」と言うことを主張している。永井さんは結びの言葉で、


「洪水対策、給水、発電といったこれまでダム建設を正当化してきたダムの諸目的を、ダム以外の手段によって実現することができるとするならば、水と栄養の循環を阻み、生態系を貧しくするダムは不要ということになる。今後とも私たちは、脱ダムの方向に向けて、代替策を模索するべきだ。」


と語っている。この結論に至るまでの論理の流れに説得力があり、これは「脱ダム宣言」の正しさの見事な論証になっているように僕は感じる。この論理の流れを詳しく追いかけてみようと思う。

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by ksyuumei | 2006-10-06 09:24 | 論理