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「北朝鮮」は合理的思考の結果として核兵器開発をしているのか

核兵器の是非を考えるときに、「北朝鮮」の立場からこの問題を考えることに論理的な違和感を感じる人がいるかもしれない。それは「北朝鮮」を擁護することになり、「北朝鮮」の核兵器開発を承認することにつながるのではないかという疑問を生むのではないかと思う。核兵器の是非を論じるなら、個別の国家の立場は捨象して、一般論として是非を論じるのが論理的ではないかと感じる人もいるだろう。

しかし、この問題は一般論として論じたら、あまり面白い結果は求められないのではないかと思う。人類にとって核兵器が使われるような事態が起きたら、その悲惨さは計り知れないものであり、下手をすれば人類滅亡という結果になりかねない。一般論としては、核兵器は絶対に使ってはならない、使う「べきではない」というような結論が導かれるだろう。

だが、「べきではない」という主張は、現実的な有効性を持たない。一般論として核兵器をなくすべきだと考えても、この「べき」という倫理に従って行動する核保有国はないだろう。むしろ、今核兵器を持っていない国が、核兵器を開発しようとする動機の方が強くなるのではないかと思われる。「北朝鮮」に刺激されて、日本でさえも核武装論が出てくるのだから、きっかけさえあれば核を持つ方向にシフトしたい国の方が多いのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2006-10-31 09:50 | 論理

脱ダムの現場で考える

msk222さんと一緒に、ワインオフ会の二日目を利用して脱ダムの現場を見てきた。ワインオフ会そのものの報告は、他の参加者がしてくれると思うので、それには触れずに、この脱ダムの現場について語ろうと思う。

この現場を見たからと言って、素人が分かることは少ない。検証というような大げさなことは出来ない。しかし、現場を歩くことで感じることのいくつかが、今まで気づかなかったことに気づかせてくれることもある。だから、検証と言うほどのことは出来なかったが、そこを歩いたと言うことは意義深いものだったと思う。

この現場で浮かんできた発想は、脱ダムの考えというのは、極めて論理的な問題で遠い未来を見るものだと言うことだった。直接自分たちにその選択の結果がはね返ってくるものではなく、後の世代の子どもたちにその選択の結果が影響となってかぶさってくると言うことだ。

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by ksyuumei | 2006-10-30 10:07 | 雑文

行為と体験--責任を考える視点

宮台真司氏が「連載第一三回:「行為」とは何か?」(社会学入門講座)で説明している「行為」と「体験」という言葉は、「責任」というものを考える上で役に立つ抽象概念になっている。

「責任」という概念は、自然科学的に、対象に存在すると言うことを証明することが難しいものだと思われる。昭和天皇の戦争責任に対しては、多くの異論があり、誰をも納得させるような客観的な判断が提出されていない。それは、感情的なバイアスが客観的な判断を邪魔しているのか、そもそも原理的な問題として、「責任」は客観的な判断が出来ないものなのかということが確定していないのではないかとも思ったりする。

このような概念的な難しさを持っている「責任」という言葉を、少なくともこの範囲までなら多くの人の合意が得られるだろうと思われるものとして提出するのが、その概念を抽象化して論理的整合性を持った範囲での概念を確立することではないかと思う。

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by ksyuumei | 2006-10-27 09:35 | 雑文

核兵器の是非の議論

ひよこさんから「「妨害」という判断は正しいか?」のコメント欄で核兵器の是非の議論について呼びかけられた。これは、極めて論理的な対象ではないかということで呼びかけたようだ。確かに、これが議論の形をなすなら、それは論理的なものになるだろう。

核兵器の存在というのは、すでにそれを持っている国がいくつかあると言うことから確認出来るが、その使用はもしかしたら未来永劫に渡ってないかも知れない。核兵器というのは、持っていることにのみ意味があるので、決して使用しない最終兵器というものかも知れない。核兵器の使用はいつでも可能性の問題であり、現実になっていない未来の想像というものになるので、これは論理を駆使して予想するしかない問題になるだろう。

だがこの議論は非常に難しい。「是非」というものが、道徳的な「善悪」と結びついた「良いか悪いか」という判断になってしまえば、その結論は信念を語るだけのものになってしまう。どのような信念を持とうと、実際の行動に結びつかなければそれは自由なのであるから、信念の問題になれば議論の余地はなくなる。信念の表明をして終わりということだ。それに賛成出来ないときは、見解の相違と言うことで受け止めなければならない。

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by ksyuumei | 2006-10-26 09:51 | 論理

「妨害」という判断は正しいか?

ヤフーのニュース「<君が代>卒業式で斉唱妨害 教諭の処分取り消し 道人事委」というのは、具体的な現実の出来事に対する判断、つまり命題の真偽に関する判断についてなかなか面白い考察を与えてくれる。

この見出しを見る限りでは、卒業式で君が代の斉唱を妨害した教員の処分について、それを北海道の人事委が取り消したという報道のように聞こえる。先日都教委の君が代強制の通達については憲法違反であるという判断が出たが、これは、式の妨害をするというような行為に及ばないにもかかわらず、「思想・良心の自由」の表明である「歌わないという行為」ですら処分されることに対して、それは行き過ぎであると判断されたと僕は理解していた。

しかし、上の記事によれば、「式の妨害」という行為があったように報道されている。これは、単に君が代を歌わなかったために処分されたのではなく、式を妨害するという行為に対して処分されたのではないかと思わせる報道だ。そうすると、この処分の正当性は、「思想・良心の自由」を侵害したかというよりも、式の妨害があったかどうかということにかかっているのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-10-24 09:26 | 雑文

現実的対象からの抽象と、抽象概念の現実的対象への適用

三浦つとむさんがマルクスについて語った部分だっただろうか、抽象的思考の上り下りというようなことを言っていた。上りというのは、具体的な対象からある属性を抽き出し他の属性を捨てる(捨象)ことを意味する。抽象とは同時に捨象であるということを新たな発見として感じたものだった。本質を抽象し、抹消を捨象することで対象を深く捉えるということが出来ると思ったものだ。

下りというのは、一度抽象した概念を、今度は具体的対象に適用してみることを意味する。ソシュール的な発想で言うと、現実を言語によって切り取るという理解になるだろうか。このような上り下りを繰り返すことによって、我々は世界の理解を深めていくのだというのが思考というものの本質ではないかと思われる。

三浦さんの言語学では、言語というのは対象の概念を表現するもので、語彙としてはその内容は概念という抽象的なものを指す。しかし、現実の言語の利用においては、目の前の具体的対象が、その概念の範囲に入っていると言うことから、それを呼ぶのにある言語を適用するという、抽象からの下りの現象が見られる。言語を実際に使用することが出来るというのは、それが抽象の上り下りの能力を持っていると言うことを示しているだろう。

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by ksyuumei | 2006-10-23 10:14 | 論理

命題の真偽の判断における二つの要素(定義の問題と事実情報の確認)

命題の真偽を判断すると言うことは、その主張が正しいか正しくないかを判断すると言うことである。普通は、両方の判断が両立すると言うことはない。ある命題が正しいと判断されれば、それは同時に正しくないということは言えない。肯定と否定が同時に成り立つと言うことは論理法則では認められない。例えば

1 高市早苗氏は「夫婦別姓」である。
2 高市早苗氏は「夫婦別姓」でない。

という二つの命題は、互いに否定になっており、これが両方とも正しいと言うことは論理的にはあり得ない。しかし、1と2の「夫婦別姓」の意味が違っている場合は、この二つの命題は互いの否定にならない。そうであれば、この二つの命題は形式論理的な意味での矛盾ではないから両立する命題になり、両方ともに正しいと言うことが出来る。

実際に、次のような意味で「夫婦別姓」という言葉を理解すると、両方の命題はともに正しいものとなる。

1 世間で流通している名前として夫婦の姓が違っている。
2 民法改正案としての「選択的夫婦別姓」という意味で、戸籍上の姓(つまり氏)が夫婦別のものになっている。

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by ksyuumei | 2006-10-22 10:14 | 論理

神の概念の存在と神の実在

沈思黙考さんから、「ウィトゲンシュタインの「世界」」へのコメントで、大変興味深いものをいただいた。とても短い文章のコメント欄では答えられないくらい多くの内容を含んでいるものなので、新たなエントリーで自分の考えをまとめておきたいと思った。沈思黙考さんが自分のブログを持っていたら、そこで是非まとまった主張を論じてもらいたいものだと思う。彼の主張の内容も、正確に伝えるには、コメント欄では難しいだろうと思う。

このコメントが興味深いと思ったのは、「超越」というものをどう受け止めるかで世界の枠組みが違ってくると僕が感じているからだ。そのようなことを強く意識させられるものとして上祐氏の宗教的な人格陶冶というものを知ったこともある。様々な出来事や抽象的理論が「超越」というキーワードでつながってくる不思議な一致を見たことが、このコメントに関心を引かれた原因ではないかと感じる。

コメントで触れている事柄は多岐に渡っているので、まずは「超越」ということに絡んで、それを象徴する「神」という考え方と、論理の関係について考察してみようと思う。上祐氏の宗教観というものを知って、僕は論理的に信仰を築きうるのではないかということも感じ始めている。信仰というのは、非論理的に、まず信じることから始めるというイメージを今までは持っていたが、論理的な帰結として信じることが最後に確認出来るという形の信仰もあり得るのではないかと今はぼんやりと感じている。

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by ksyuumei | 2006-10-21 10:04 | 論理

上祐史浩氏の人間的成長

上祐氏がマスコミに華々しく登場していた頃は、「ああ言えば上祐」と揶揄されたように、屁理屈をまくし立てる詭弁家としてのイメージが強かった。上祐氏はディベートの専門家で、相手を言い負かす理屈の立て方には長けている人間だった。しかし「ああ言えば上祐」といわれていたと言うことは、その理屈をきっぱりと否定は出来ないものの、正しいと受け止めがたいといううさんくささを多くの人々が感じていたと言うことを意味していた。

その上祐氏が、神保哲生・宮台真司両氏が司会するマル激トーク・オン・デマンドの「マル激トーク・オン・ディマンド 第289回(2006年10月13日) 麻原の神格化は大きな過ちだった ゲスト:上祐史浩氏(アーレフ代表)」でゲストとして招かれていた。そこで聞いた上祐氏の話は、穏やかな語り口とともに、屁理屈に流れない真っ当な論理としての明快さを感じた。その語る内容からは、上祐氏の誠実さも感じられ、10年あまりの時を経て大きな成長を遂げたのだなという印象を受けた。

かつて無理な屁理屈でディベート的に教団の正しさを主張していた頃についても、なぜそのような状態だったのかを冷静に分析しており、その結論にも納得出来る論理があった。特に印象に残ったのは、人間の心の弱さと関連して、絶対的な神を求めそれにすがろうとすることと、そのことによって自らを神にしてしまうことの間違いを語っていたことだ。この宗教的な理解の境地は、宗教性と無関係に考察する僕にもよく分かるものだった。つまり論理的な説明になっていた。

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by ksyuumei | 2006-10-19 10:05 | 雑文

学校という社会システムの秩序

宮台真司氏の「連載第五回 社会システムとは何か」によれば「社会システム」というものは「行為」というものを要素とする。システムの要素であるとは、それが互いの同一性の前提となっているようなループを構成していると言うことだ。

つまり、ある行為を前提としている行為があって、そのような行為の連鎖が一つのループをなしていると言うことが要素の間の関係としてみられる。これがループをなしていると言うことから、このような行為の連鎖の繰り返しが起こることが論理的に帰結される。従って、繰り返される行為によってある安定した状態が起こる。そのような定常の状態こそが「秩序」と呼ばれるものになる。

この「秩序」は、それがあるからといって道徳的な価値が高いというものではない。どのような状態であろうとも、定常的な安定性があれば「秩序」と呼ぶわけである。価値観を伴わない事実的な判断として「秩序」というものを定義している。判断のポイントになるのは確率的な見方だ。あらゆる可能性の間に、その起こりやすさを同等なものと仮定して、生起確率の低い場合が定常的に実現されていれば「秩序」があると判断する。

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by ksyuumei | 2006-10-18 09:30 | 論理