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『大衆運動』(エリック・ホッファー・著、紀伊國屋書店)

大衆運動というものは、僕にとっては憧れでもあり、失望と反発を感じるものでもあった。初めてメーデーに参加したときの、大勢の人の連帯のエネルギーに高揚した気分は、それ以上の感動を味わうことが難しいと思ったくらいだ。自分がこの人たちの一員であると言うことを感じたときの喜びは、他の何ものにも代え難いと思ったものだ。

だが小さな活動の中では多くの失望を味わった。組合活動の中では、自分は一つの部品に過ぎないという思いを味わうことが多く、これでは組合にいるのも、資本に搾取される労働者でいるのも変わりはないんじゃないかという感じがしたものだ。組合は、なぜもっと大きな連帯感を感じさせてくれるような活動をさせてくれないんだろうかと思った。誰がやってもいい活動を、たまたま僕がそこにいたからやっているというような活動しかなかったように感じていた。

僕はいまでも組合員ではいるけれど、それは組合の活動に賛同して残っているのではない。組合という大組織にはあまり期待するところはない。大組織であるから、個人の利益を守っているという抽象論的な理解はしている。しかし、それは、どちらかというと個人的な利益という私益に関わる部分で組合の影響力が大きいと感じているようなものだ。公益のために働いているという喜びは、残念ながら今の組合活動には感じられない。

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by ksyuumei | 2006-09-03 16:45 | 読書

理想と現実

大阪・門真市議の戸田ひさよしさんは、先の長野知事選での田中さんのやり方を「田中流理想選挙」と呼んでいた。しかしこの理想は実現されず、現実化はしなかった。理想は簡単に実現しないからこそ理想と呼ばれることもあるのだが、理想というのは一応正しい理屈だと思われている。その正しい理屈が実際には実現されないと言う、この理想と現実との乖離は、元々理想と現実という概念そのものがはらんでいるのだろうか。それとも、それが乖離するのは、我々の思考にどこか間違いがあるのだろうか。

田中さんは、感情のロジックを刺激して大衆動員する道を取らずに、一人一人の判断を信頼して、主体的な判断から自分を支持してくれることを願ったようだ。感情のロジックで判断したことは必ずしも正しい結果とは限らない。それは、自分にとって気持ちのいいものが選ばれるからだ。基準は正しさではないのだ。

政治的判断を、気持ちの良さよりも、客観的正しさに基準を置くというのは正しいだろう。少なくとも論理的判断という面では正しいに違いないと思う。だから、そのような方向で選挙を戦い、政治の方向を指し示そうとした田中さんは正しかったと思う。しかし、その正しさが選挙の勝利というものにはつながらなかった。ここに理想と現実は違うという認識が生まれてくる。

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by ksyuumei | 2006-09-02 10:46 | 雑文

起源を考察する際のパラドックス性

内田樹さんは『私家版・ユダヤ文化論』で、ユダヤ人とは誰のことかということを考察した際、それは誰かをユダヤ人だと思いたい人の主観に判断の基準があるということを論じた。おまえがユダヤ人だと言うことは、俺がそう思うからだ、ということで証明される。これは全く不当なことだ。なぜなら、相手をユダヤ人だと思うことは、それを根拠に差別する意図があるからだ。合理的でないことを差別の根拠にするのだから、これは不当な差別につながる。

この考え方の先駆者として内田さんはサルトルを挙げる。サルトルは次のように語っているようだ。


「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して、『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである。」


内田さんは、この解釈を正しいものと受け取っているが、この解釈が正しいとしても社会からはユダヤ人に対する差別がなくならないという現実がある。それはどうしてだろうか。

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by ksyuumei | 2006-09-01 10:14 | 論理