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反ユダヤ主義者の善意 その2

内田樹さんが『私家版・ユダヤ文化論』で紹介するもう一人の反ユダヤ主義者はモレス侯爵と呼ばれる人物だ。モレス侯爵は「世界最初のファシスト」とも言われているそうだ。モレス侯爵の人格的特徴は、「冒険的・暴力的な男性イコンへの偏愛」と内田さんは表現している。おそらくこの特徴がファシスト的なものへつながっていくのだろうと思うが、これは男にとってはかなり魅力的なものでもあるというのが重要なことだろう。

ファシスト的なものが、その存在を歴史的に振り返って反省してみれば非難されるべきものがたくさんあるにもかかわらず、それが時代を席巻した当時は、どうしてそれほどの熱狂を持って迎え入れられたのか、冷静な論理分析の視点ではなかなかわからないところがあるのではないか。論理的には間違っていると思われることが、感情的にはそれに大きく惹きつけられると言うことをどのように整合的に理解するかと言うことが必要だ。

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by ksyuumei | 2006-09-15 10:14 | 雑文

反ユダヤ主義者の善意

内田樹さんが『私家版・ユダヤ文化論』で語っていた、反ユダヤ主義者の善意というのは考えさせられることの多い大切な事柄のように見える。その善意は、内田さんが指摘するように、私利私欲を離れたある種の敬意を感じるようなものになっている。この問題の難しさは、だからといって、善意があるから彼らの主張を受け入れるという論理にはならない点だ。

主張を受け入れるには、あくまでもその論理に正しさがなければならない。しかし、多くの人はしばしば論理の正しさよりも、それを主張する人の善意という倫理的な正しさの方を重く見る。論理的に正しい冷たい感情の持ち主より、たとえ論理的には間違っていようとも熱い熱情を持った人の方が大衆的な支持を得る。ひどいときには、正しい論理を提出する人間が、その冷静さゆえに反感を抱かれることもある。

バックラッシュ言説の中心にいるような人物は、現状認識において事実の取り違いをしていたり、論理展開において結果ありきというような強引な論理があったりすることが多い。それは、第三者的に冷静に眺めればよく見えてくることだ。しかしそれでもなお、それらの人々が多くの支持を集めているとしたら、その原因がどこにあるかを突き止めるのは価値があることだろう。

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by ksyuumei | 2006-09-14 10:01 | 雑文

ゲーム感覚とゲームの理論

若い頃に少しかじったことのある「ゲームの理論」というものを今勉強し直している。宮台真司氏が、この「ゲームの理論」を使って社会の様々な事実に対して言及していることもあって、基本的な考え方をもう一度学びたいと思ったからだ。

「ゲームの理論」というのは数学として学ぶのはけっこう難しい。これは数学の理論である以上、極めて抽象的で、その対象は他の数学と同じように抽象的に定義されたもので、ある意味では現実とのつながりを一応無視して定義や公理にしたがったものとしてまず概念をつかまなければならない。だが「ゲーム」というのは、現実に行われている利得の追求という行動と結びついているため、現実を離れて純粋に抽象的にそのイメージをつかむことが難しい。

数学のような抽象理論の理解が難しいのは、抽象的対象の概念をつかむには、それが具体的存在から抽象(=捨象)されてきた過程を把握して、どんな属性に注目しているのかと言うことを理解しなければならないのだが、いったんそれが理解出来たなら、今度は具体性を排除してその属性のみを対象にして考察しなければいけないところにある。概念の理解に必要だった具体性が、理論の展開においては排除されるところに難しさがある。

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by ksyuumei | 2006-09-13 09:44 | 論理

陰謀論の誘惑

ユダヤ人に対する偏見の中で、世界的な規模で陰謀を進めているという「ユダヤ人陰謀論」というものがある。これはその内容を詳細に検討すれば、荒唐無稽なデタラメであることがわかることが多い。だから、陰謀論というのは多くの場合、根拠のない妄想だと言われることが多いのではないかと思う。

陰謀論そのものの根拠は妄想に違いないと思うが、それが現実に生まれて来るというのは、現実性を帯びていることでの論理的整合性がどこかにあるはずだ。つまり、陰謀論という「論」には根拠がないが、それを信じてしまう人が信じたいと思うような心理的な側面には、それが生まれてくる根拠が見出せると思う。

一つの根拠は不安というものがあるだろう。不安を抱いている人間は、何が原因で不安が生まれてくるのかが正確にはわからない。それが正確にわかってしまえば不安という状態は消える。不安であるのは、何かわからないが自分にとって悪いことが起きているという感じだけはあるという状態だ。

その悪いことが起きているのが誰かのせいに出来れば、不安はその時点で一応の解消をする。人々の不安がもっとも高まったときに、デタラメな根拠であっても陰謀論が人々を捉えるという現象が起こるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-09-12 10:14 | 雑文

外交における国益の計算

「北朝鮮」がミサイル「発射実験」をしたときに、宮台真司氏が次のような論理の展開をしていた。テレビなどのマスコミでは、「北朝鮮」の行為は、「北朝鮮」自身に何の利益ももたらさないバカげた行為だと主張する人間が多かった。しかし、よく考えてみれば、このミサイル「発射実験」は、「北朝鮮」には損害になるところが何もないので、どこかで利益になれば儲けものというものであることがわかる。だから、ミサイル「発射実験」をしないということよりも、それをすることの方を選択する方が外交的には圧倒的に有利になると言うことだった。

宮台氏の論理を詳しく説明するとこのようなものだった。「北朝鮮」はすでにアメリカによる金融制裁によって、これ以上ないくらいの損害を受けていて、この上さらに制裁を加えるという部分が見あたらない。つまり、このミサイル「発射実験」によって、さらに制裁されると言うところが、もはやないので、制裁を恐れる必要がない。

制裁される部分はないが、イラクのように軍事的な攻撃を受ければ、それは大きな損害になる。しかしその心配は「北朝鮮」の場合にはほとんどないということが計算出来る。それは地理的な条件において、韓国と日本に対してかなりの量のミサイルが届く位置にいるということだ。

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by ksyuumei | 2006-09-11 10:09 | 雑文

能力の高さと志の高さの関係

最新のマル激トーク・オン・デマンドには自民党の広報改革の中心にいた世耕弘成氏(参議院議員)をゲストに招いて議論を展開していた。広報という分野における世耕氏の能力の高さというものを強く感じる議論になっていた。いわゆる頭の切れる人間というのは、このようなタイプなのではないかと感じるくらいだった。

世耕氏の能力の高さを感じるのは、その分析力の高さだ。あらゆる可能性を考察の対象に出来るというフィージビリティ・スタディというものが出来る人間ではないかと感じた。日本人的な感情のロジックにとらわれていると、自分に都合のいい、感情的に気持ちのいい方向での考察はよくできるけれど、都合の悪い方向・感情的に嫌いだと思えるような方向での考察は抜け落ちることが多い。

世耕氏は、そのような感情を排して、対象を冷静に突き放して分析するという能力に優れているように感じた。このような能力を持っている人間は、失敗から学ぶことが出来る。二度と同じ失敗を繰り返さないという反省が出来るようになる。このような能力がとても高いのではないかと、世耕氏の話を聞いてそう感じた。

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by ksyuumei | 2006-09-10 11:37 | 雑文

発想法としての弁証法と真理の判断としての形式論理学

「小泉純一郎氏は日本国総理大臣である」という命題は正しい(真)だろうか。何をそんな当たり前のことを聞くのか、といぶかしく思う人がいるかもしれないが、この命題が明らかに正しい(真)と思う人は、その正しさはいつまでも続くだろうか、という問いに直して、この問題を考えてもらいたいと思う。

正しい(真)命題がいつまでも正しい(真)かどうかで、実はそれは形式論理の範囲で考えているのか、弁証法論理の範囲で考えているのかが決まってくる。形式論理の範囲で正しい(真)と認めた命題は、それはいつまでも正しい(真)命題として存在させなければならない。正しい(真)命題が、どこかで間違った(偽)命題になってはいけないのである。それが形式論理的思考だ。

それが弁証法論理では、正しい(真)命題が、いつの間にか間違った(偽)命題になることがある。弁証法論理では、常に対立を背負った矛盾が問題になる。だからどの命題においても、正しい(真)と同時に間違っている(偽)と考えなければならなくなる。それはどうしてだろう。

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by ksyuumei | 2006-09-09 12:56 | 論理

批判の妥当性

「話」が通じない原因として、相手の言っていることを理解せずに、自分の的はずれな解釈で相手の言説を判断すると言うことがある。このとき、相手の的はずれを指摘する言説の方は、それが妥当性を持っていることをどうやって証明したらいいだろうか。場合によっては、相手の的はずれを指摘する言説の方が実は的はずれだったということがあるかも知れない。

論理の正しさをどう評価するかという問題は、単にディベート的な言い争いで勝ったか負けたかという現象的な理解ではなく、客観的に、マトモに論理が扱える人間だったら誰が見てもそう判断出来るというものでなければならない。そうでないと、相手が黙ってしまえば、言い争いには勝ったという形になるので、それで論理的にも論破出来たのだと思ってしまうかも知れない。だが、それは単に声の大きさと圧力で相手を黙らせただけなのかも知れない。どこに論理の正しさがあるかを、客観的に指摘出来るだろうか。

仲正昌樹さんは『なぜ「話」は通じないのか』という本で、「説得力のある「物語」を組み立てるための基礎教養・訓練が足りない」ことの問題を指摘している。「基礎教養・訓練」を欠いたまま物語を作り上げれば、その物語はどこかでつじつまが合わなくなり、主張が的はずれになると言うことだ。では、「基礎教養・訓練」が足りないという指摘は客観的に出来ることなのか。

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by ksyuumei | 2006-09-07 10:02 | 雑文

「話」が通じるための条件

仲正昌樹さんは、『なぜ「話」は通じないか』という著書で、「話」が通じない例をいくつか書いている。それはたいていは論点がずれているということで理解されるのだが、なぜ論点がずれるかといえば、双方が相手の「話」をよく理解していないことに原因がある。相手の「話」を自分の解釈で理解し、その解釈に対して論点を設定するので、それはお互いに合意が得られていない前提の下に対話をすることになる。

仲正さんはコミュニケージョンの前提として、「相手の話をまず理解すること、少なくとも、理解しようと努力すること」を挙げている。これは、細部に渡って完全な理解をしろということではなく、「相手の話の流れを全体的に理解するということ」と説明している。

細部がわからないと全体が分からないと思っている人がいるかもしれないが、これは状況によるだろう。例えば、方程式の解き方について、そのアルゴリズムの細部に渡って理解がされていなくても、方程式の全体像を理解することは出来る。それは、未知なる定数を、それが等しいという均衡する性質に注目することによって計算しようとするものだ。この抽象だけでは、方程式を理解したとは言えないが、少なくともそこでは何が議論されるかという方向をつかむことは出来る。これが全体的に理解することだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-09-06 09:48 | 雑文

イラク人質事件の際のバッシング再考

仲正昌樹さんが『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)という本で、イラクの人質事件の際の議論の噛みあわなさを考察している。基本的には、論点のずれがあるにもかかわらず、どちらもそれに気づかず、自分の論点の主張をしているので、議論が噛み合っていないという指摘だ。議論を噛み合わせるには、何を議論しているかというお互いの了解があって、両者がマトモに議論を使えるだけの技術を持っているという基礎がなければならない。そうでないと、「話は通じない」ということになってしまう。

イラクの人質事件で問題なのは、議論が噛み合っていないということもあるが、さらに重要なのは、そこで人質になった3人に不当なバッシングがされたことだ。「自己責任論」という言葉で有名になったものだが、このバッシングは、まともな批判ではなく、根拠のない人格攻撃にまで発展してしまったので不当性が言われていた。

普通は、このような不当なバッシングはそれをする方が間違っており、その不当性を理解出来ないのは頭が悪いからだと思われてしまう。だが、当のバッシングをしていた多くの人々は、それを不当だと考えるまともなロジックよりも、何らかの感情のロジックによってそのようなことをしていたように僕は感じる。その感情のロジックを引き起こした要因は、バッシングされる側にもあったというのが仲正さんの考察だ。

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by ksyuumei | 2006-09-04 10:12 | 雑文